吉和地区から太田川沿いに下っていくと先日紹介した立岩ダムがあり、堰堤部分は安芸太田町域となってここから押ケ垰の集落跡が遠望できる。押ケ垰集落の最奥部に以前紹介した広電の押ケ垰車庫跡が残されている。何度か車庫跡を訪れたが今まで傾斜地の下方に民家跡があるとは気が付かなかった。下ってみるとその脇に地域の氏神であった河内神社があった。江戸期の地誌によると祭神は土祖神、祭日九月廿六日とあったがその他については不明である。拝殿内に由緒が表示されていたがガラス越しでは読むことが出来なかった。
吉和地区から太田川沿いに下っていくと先日紹介した立岩ダムがあり、堰堤部分は安芸太田町域となってここから押ケ垰の集落跡が遠望できる。押ケ垰集落の最奥部に以前紹介した広電の押ケ垰車庫跡が残されている。何度か車庫跡を訪れたが今まで傾斜地の下方に民家跡があるとは気が付かなかった。下ってみるとその脇に地域の氏神であった河内神社があった。江戸期の地誌によると祭神は土祖神、祭日九月廿六日とあったがその他については不明である。拝殿内に由緒が表示されていたがガラス越しでは読むことが出来なかった。
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