上平良地区にある不二洋子ゆかりの旧迫家の土蔵蔵飾りには飛鶴と霊亀の間に富士山が表されている。不二洋子は富士山にあやかって不二と称したとされているが、蔵飾りがいつ築造されたのかは定かでない。何度か紹介している上平良にある河野原大歳神社にはずらりと並んだ石燈籠が圧巻であるがその中に不二洋子の寄進した石燈籠がみられる。不二洋子は昭和55年(1980)5月11日に68歳で亡くなっており、上平良堂ケ原の墓地に葬られている。
墓参途中にクヌギの葉に赤い実のようなものが付いており何かと採ってみると葉と一体化した植物のこぶであった。ネットで調べてみるとタマバチという蜂がクヌギの葉に卵を産み付けたことが刺激になって、卵を包み込むようにできた植物のこぶのようである。
松竹写真部調製
夢まぼろし女剣劇-森秀男著 筑摩書房
当市上平良地区の出身である不二洋子を知る人は戦前から平良周辺に居住の後期高齢者の人達しか知っている人は少ないであろう。戦前・戦後を通じて一世を風靡した女剣劇の女王不二洋子(本名迫静子)は、生れは香川県坂出町(現坂出市)で大正5年(1916)に平良村の興行師迫日出雄(本名出雄)の養女となり、女剣劇の道を歩み出して行くのである。昭和9年(1934)に不二洋子一座が旗揚げし、女剣劇の草わけの第一歩を踏み出し、浅草大衆演劇の一つである女剣劇の黄金期を迎えるのである。
JR宮島口駅前を起点としてJR宮島口港に向かう道路は県道43号厳島公園線で、宮島航路を経て厳島港から杉ノ浦を通り包ケ浦自然公園が終点である。道路途中に大野瀬戸を挟んで県道延長距離不明の変則的な県道である。
筒状にした薦の中に同径くらいのプラスチックゴミ入れをはめ込んで薦の片端を折り曲げて化粧編み紐を編み始める。一周目は薦の端編み紐の内側を4目毎交互に編み紐を通して結び二周目からは文字で表すのは難しいので画像で編み方を見てほしい。中心部まで編んで結び底部が完了し袋状になった。
盆も近づいた昨日やっと墓前に供える盆燈籠が完成した。燈籠紙や飾り房などは事前に準備していたので意外と早く作ることができた。今年はヤダケの良いものがなかったので、昨年より見劣りする盆燈籠の骨組みであったが手作りの燈籠で先祖も喜んでくれるであろう。
孫達の長逗留からやっと解放されたと思っていたら夏風邪でダウン・・・ 盆燈籠の骨づくりは以前にしており、やっと体が楽になってきたので盆までに作り上げないと。
江戸後期のころから厳島神社への参詣者の土産物用として木版一枚摺りの厳島絵図が刷られ売られていたようである。この絵図は寛政2年(1790)に発行された安芸州厳島之図で、最初にみられる木版画の厳島絵図のようである。江戸後期から明治初期にかけて木版画の厳島絵図は100点ぐらいあるようであり、近代に入ってから印刷方法も銅版や石版などの印刷方法に変わっていった。
やりっぱなし農業の田んぼの稲も大分育ってきた。田んぼには除草剤を入れていたがあちらこちらに草がみられ見て見ぬふりをしておこう。
除草剤のなかった時代の草取り民具で、中画像のハッタンドリは前後に動かせて草をすりつぶしていた。上側のハッタンドリは柄が短いので屈んで使用していたものだろうか。下画像のタグルマは熊手爪で土を反転させ草を埋めていたものである。
日中はうだるような暑さであるが早朝のウォーキングは気持ちがよい。田んぼの水まわりを兼ねて遠回りし宮園公園に向かい時間を見計らって2周or3周して、上平良公園での子供会のラジオ体操に参加して一汗かいている。
連日、うだるような暑い日が続いており、画像の残雪でちょっぴりの涼を!?
娘達が長野市に居た平成22年 (2010)7月27日に立山を訪れ、室堂平のみくりが池周辺には残雪が沢山あり寒かったのを思い出した。
昨日紹介した湯之元の湯釜近くに湯の川温泉1号井(熊崎温泉)の自噴井がある。広島県のHPによると25℃以上42℃未満の温泉が毎分130ℓ自噴しているようで、温泉成分はアルカリ性単純温泉のようである。女鹿平温泉は湯の川温泉2号井となっているので女鹿平温泉の開業時と同時期頃にボーリングされたようである。