山陽小野田市にある西部石油㈱の山口製油所を見学させてもらった。広大な敷地内には巨大な原油タンクが数多くあり、迷路のように張り巡らせられたパイプ・・・ここの製油所は提供資料によると中東から原油を輸入して、石油製品を精製しているようで、原油からは燃料ガス、いおう、液化石油ガス、プロピレン、オクテン、ガソリン、ナフサ、ジェット燃料油、キシレン、ベンゼン、灯油、軽油、A重油、C重油、バンガー重油、自家燃料油、アスファルトなどと聞いたことのないような石油製品もできるようである。
当ブログ主が小学校の修学旅行で宇部の地にあった沖の山炭鉱の一部を見学したが、エネルギー革命で産炭地から石油精製基地となったようである。
昨日は何十年ぶりであろうか柳井の街並みを探訪したが、団体旅行なので気儘に徘徊することができなかった。柳井の街並みでは平入の町屋が所々にみられるが多くは妻入りの町屋が多いことであった。
俵の単体6俵が出来たので俵の前後に飾る飾り縄と飾り房を作っていく。正面側の飾り縄の中心部は装飾用結びで襖の引手結びのようであるが作り方は全く違っておりこのような作り方の呼称は不明である。この飾り縄は先人が作っていたものを継承したものである。後面の飾り房はしめ縄に下げられているものと同じようなもので、上部はあげまき結びとし下側は二段重房とした。
旧浅原保育園があったところには本郷集会所と須賀神社があり一見すると同一敷地内のようにみられる。浅原保育園は定員20名の施設であったようであるが、平成25年には園児3人で翌年には休園しており閉園に追い込まれたようである。須賀神社は先に紹介した亀山神社祭礼の際の御旅所のようであり、社殿脇にある松の木は昭和天皇御大典記念に植樹されたようである。
昨日紹介した亀山神社の拝殿には三十六歌仙額の36面や数多くの奉納額が掲額されている。武将の一騎打ち画面が多いようにみられるが、拝殿は吹きさらしのため退色、剥離が進んでおり、何を描いているのか定かでない。
浅原地区にある亀山神社で、江戸期には「河内大明神・八幡宮・御鉾大明神」三社相殿であったようであるが明治期に亀山神社と称したようである。本殿の妻壁には旧神社を表すような「鉾大明神・一位八幡宮・河内大明神」とある神額がみられるがなぜこのようなところに掲げてあるのだろうか。
中道集落の入口、中道川に架かる中道橋の袂に建立されている災害復旧記念碑で、刻銘によると昭和26年(1951)10月14日夜のルース台風による中道地区の被害が刻されている。地域内60戸の内全壊8戸、半壊埋没9戸、死者6名、重傷者2名、田畑流出5町歩、田畑埋没3町歩の大被害を被ったようである。
ルース台風では平良・原地区でも大きな被害があり、当ブログ主もかすかに記憶をしている。
保曽原集落水害碑
白河集落水害碑
浅原地区を流れている小瀬川(木野川)流域の保曽原集落と白河集落の2か所に水害碑がみられる。碑文によると大正14年(1925)9月1日の台風で小瀬川の各所で氾濫したようであり、保曽原水害碑のある地点まで水没したようである。
浅原地区を通る県道293号沿いの戸屋原地区手前の戸屋の尾根に新旧の保曽原トンネルがみられる。大正2年(1913)に保曽原隧道が完成したようであり、それまでは戸屋原峠をこえていたようである。新保曽原トンネルは平成5年(1993)3月に完成したようであり、旧保曽原隧道は通行止めの柵がしてある。
旧浅原小学校に隣接した民家の土蔵に福槌の蔵飾りが施されているのを以前紹介し、先行きがどうなるのかと心配していたがすでに土蔵は取り壊されていた。「福槌」は当ブログ主の呼称で、大黒天の持つ打ち出の小槌で福を呼び込むよう縁起をかついで設置されたものであろうが。(画像は平成29年8月撮影)