平良丘陵開発区域への市道堂垣内広池山線のルートは旧石州往還道部分を掘削して築造されるものとみられる。(赤丸ケ所・赤線は市道第2群塚線)市道堂垣内広池山線のルート予定地付近の各所には新しい境界杭がみられ旧石州往還道の幅員は90cmであった。長年多くの人々や駄馬が行き来した往還道の幅員が90cmだったのだろうか。
平良丘陵開発区域への市道堂垣内広池山線のルートは旧石州往還道部分を掘削して築造されるものとみられる。(赤丸ケ所・赤線は市道第2群塚線)市道堂垣内広池山線のルート予定地付近の各所には新しい境界杭がみられ旧石州往還道の幅員は90cmであった。長年多くの人々や駄馬が行き来した往還道の幅員が90cmだったのだろうか。
久しぶりに平良丘陵開発区域が行われる広池地区西側の菊ケ迫山から御棒杖山の尾根筋東側を通っていた旧石州往還道を歩いてみた。今は誰も通る人はいないけれど交通機関が発達する以前は廿日市~原~玖島~多田~吉和~匹見に通じていた往還道であった。
平良丘陵開発区域内である広池地区に新幹線五日市トンネル(寺田~宮内)の点検孔口があり、自動車置場の撤去によりよく見えるようになった。トンネル内を新幹線が通過している大きな音が時々孔口から聞こえる。この点検孔は五日市トンネルを掘削した時の土石の搬出口であった。地図を見ると孔口より離れた位置に線路があり長いスロープで接続されているようである。
表題の整理事業区域内である広池地区にある作業場などの撤去作業が行われており、地域内にあった太陽光発電施設も撤去されていた。また用地内の山林の伐採が始まっているようである。
平良小学校の平良っ子通りに平和の鐘と表示された鐘が吊り下げられていた。この鐘は当ブログ主が小学生低学年の頃2階建て校舎に吊り下げられ授業の開始や終わりの号鐘だったのではなかろうか。高学年になってからは大きなベルが設置されてから使用されることは無くなったことを記憶している。
昨日、平良小学校で選挙投票を済ませて帰り道に「さくらのおか公園」を通って帰った。公園内の桜はもう葉桜になりつつあったが、サトザクラの園芸品種と表示のある鬱金(うこん)と八重桜は満開であった。
長良川鉄道の終着駅である北濃駅から長良川沿いの桜など見ながら観光列車ではなく普通列車で郡上大和駅までの列車旅をした。北濃駅は元国鉄の越美南線の終着駅だったようで当時の転車台が残されており、国の登録有形文化財に登録されているようである。
上画像は郡上八幡の職人町・鍛冶屋町・柳町の町並みで、国重要伝統的建造物群保存地区に選定されているようである。吉田川を渡った伝統的建造物群保存地区の新町通り町並みにウダツある町屋が2棟みられた。中画像は水野家住宅、下画像は斉藤家住宅で何れも鉄板葺きの屋根で本ウダツが設けられている。今まで見てきた本ウダツとは異なり屋根勾配が緩くウダツ屋根も鉄板葺きのためよく見ないと気付かないようなウダツである。
飛騨高山の古い街並みから宮川に架かる柳橋を渡り本通り商店街にある山桜神社社殿の建屋上にある木造の火の見櫓である。嘉永7年(1854)に馬頭組により火消溜所が建てられたようで、大火で明治14年(1881)に再建され、昭和7年(1932)に現在地に移築されたようである。櫓内には明治14年(1881)刻銘の半鐘が吊り下げられているようで再建時のものとみられている。構造は江戸時代からの櫓建築の技法を踏襲しているようであり登録有形文化財(建造物)に指定されている。
高山市の県道89号高山上宝線(飛騨・そま街道)沿いで火の見櫓が見えたのでバス車中から撮影。グーグルアースで調べてみると高山市消防団丹生川支団第3分団消防車庫脇にある火の見櫓であった。火の見櫓は当地方では見かけることが無いが長野県や近隣地方には多く残されているようである。
古い街並みから少し離れた通りを散策していると、創業大正10年と表示のある老舗の薬屋さんに昨日紹介した下呂膏があったので購入した。店先には懐かしい人達のホーロー看板、ケロリンの洗面器などや店内には古い薬看板や置薬箱がずらりと並べられ、昔置き薬の中にあったような薬袋がみられどれもこれも懐かしいものばかりであった。
宿泊地の下呂温泉には伝統の下呂膏があることを以前訪れた時に知っていたので、奥田又右衛門膏本舗を訪れてみたいと思っていた。しかし名神高速道路の渋滞で到着が遅くなり店舗はもう閉まっていた。下画像の膏薬は飛騨高山の薬屋さんで求めたものである。
三次市十日市町に祀られている厳島神社で以前は巴橋近くにあったが(上画像)、昭和47年(1972)の水害で堤防改修が行われ昭和50年(1975)に現在地に遷座されたようである。石見銀山街道側の参道に石鳥居が、堤防道路側の参道に赤い木造の両部鳥居が建立されている。