名古屋のトリプル選挙は河村・大村連合の圧勝で終った。既成政党に明確にノーを突きつけたメカニズムを是非分析してみたい。データ不足で十分な評価が出来そうもないので、日を改めて私なりの考察を紹介したい。だが、直感的には以下に紹介する最近の日本社会の傾向に関係があるように感じている。それは近年強まったように感じるリスク回避と安全志向の背景である。
規制だらけのホコ天復活
私の住む東京郊外の府中市のメインストリートで歩行者天国が先月秘かに再開された。先月23日に再開された秋葉原の歩行者天国と連動した動きかもしれないが、市内では特別に人出が増えた感じは受けなかった。開放された車道を歩く歩行者はまばらだった。
一方、秋葉原にはかつての賑わいを期待して多くの人が出掛けたようだ。しかし、彼らにとって秋葉原が期待した通りではなかったかもしれない。報道によれば路上のビラ配りから名物だったパフォーマンスまで規制されたようだ。立ち止まるのもダメと警官に注意を受けていた。
背景には警察・行政から地元商店や住民まで歩行者天国に対する考えに違いがあり、結果的に非常に厳しい規制の下で試験的に再開されることになったと、後日NHKのクローズアップ現代が伝えていた。番組を見て関係者の懸念は理解できるが、この規制はやりすぎと思った。
よく言われるように日本では「水と安全はタダ」という世界でも稀な国であり、それが秋葉原の連続殺傷事件で深く傷つきこのような規制だらけの再開になった側面があると感じた。秋葉原にかかわらず、前々から日本の社会が全体としてリスクに不寛容になっているように私は感じていた。
錦の御旗で筋違いの規制
事件が起こるとメディアは個々人がもっと注意して自らを守ることより、政府や自治体の責任を追及する傾向がある。結果的に関係当局は非難を回避するために、取り締まりの強化が過剰になり勝ちである。秋葉原で警備中の前線の警官にもそのような雰囲気が感じられた。
だが、日本の安全神話をこのような形で守るのが良いか疑問がある。得られるものより、失われるものの方が大きい気がする。これに関して上記番組に出演した作家の森達也氏は非常に的確な指摘をした。その後ネットで発言を文章で確認したが、真に的を射た鋭い指摘であった。
番組を見て要約すると「連続傷害事件と歩行者天国は直接的な因果関係ない、安全を錦の御旗にして従来から苦々しく思っていた一部のパフォーマンスを禁止した、今日本では安全等のキーワードを使って白黒判断できないグレーゾーンを消してしまっている、その結果本当の危機に鈍感になる」というものだった。最後にメディアの責任を指摘した。理屈に合った指摘と私も思う。
グレーゾーンに不寛容な社会
電気街からオタク文化の聖地へ転換し若者を秋葉原に惹き付けたのは、このグレーゾーンから生まれたサブカルチャーだった。私にはグレーゾーンを認める寛容さがない環境は、新しい文化を培養し育む活力が無くなってしまう様に感じる。安全に名を借りた過剰な規制は自らの首を絞めることになる恐れがある。
問題は、それが秋葉原だけでなく形を変えて全国的なトレンドになっていることを私は憂慮する。その例を二三紹介する。
グレーゾーンといえば消費者ローンを思い出す。グレーゾーン金利の禁止も同じ文脈の中で説明できると私は思う。このケースでは「暴力的な借金取立て」と「高い金利」をごちゃ混ぜにして、経済的合理性を無視した規制は謂わば「グレーゾーンにあった需要」を闇の世界に追いやった。又、安全の為の過剰規制は、耐震建築の法改正の時も一時混乱を招いたのは記憶に新しい。
安全志向とはちょっと違うが、私には延長線上にあると感じる傾向がある。それは森氏の指摘と同種の懸念で4年前に日本の社会が不寛容になってきていると指摘した(不寛容社会の到来http://blog.goo.ne.jp/ikedaathome/d/20070308)。
いつの頃からか、殺人事件の遺族がインタビューを受けて、判で押したように犯人の極刑を望む発言が全国に流れるようになった。遺族の気持ちは当然だが、「殺されたら殺せ」というロジックがそのままテレビに流され、まだ判断力の無い子供が制限なく見る環境が果たして良いことか。
宿題: リスク不寛容と老齢化の関連
これらの動きを総合すると日本中がグレーゾーンに不寛容になっていくように感じる。個人に降りかかるリスクに対して自らを守ることの重要さ、自己判断と自己責任の重要さをもっと強調し、それを前提に緩やかな規制にしなければ益々社会が沈滞しそうだ。
ここで例によって大胆な推測をすると、日本社会が老齢化するに従ってこのトレンドが進行しているように感じる。個人的には年をとるごとにリスクを回避するようになるのは極自然なことだ。老齢化社会になると国もリスク回避志向になるか、多分そうだろう。だが、議論するにはデータが手元にない。
気になるのが、我国の民意と政治決定はそんな風に変化していることだ。それが若者の活力を削ぎ停滞する方向に向っていると感じる。事実なら由々しきことだ。冒頭で述べたように、その視点から愛知県のトリプル選挙を見たらどういう絵が描けるだろうか。別途議論したいテーマだ。■