葬儀の翌日に家族は東京に戻った。私が寂しくならないよう気遣って、代わって妹が来て2日間実家に泊まった。その夜は二人でずっと母のことを語った。母の死亡に始まり通夜から葬式・法要に続いて翌日家族が帰京した5日間で心身ともに疲れていたので余裕がなく、初めはぎすぎすした会話が続いた。
私は中学卒業後家を出て学校の寮に入りその後ずっと母と同居したことがなかったが、妹は地元の高校に行き東京の短大を卒業後新橋で働いたこともあったが、その後実家で何年か暮らした。それだけ、母との同居体験が長く深く刻まれていた。私の知らない綺麗事では語れない母の姿を知っていた。
初めは妹の言葉に反発した。妹も私に反発した。だが、妹がぽつりぽつりと語り始め最後には吐き出した母親像を全てではなくとも理解して、彼女が何故母親の死後も厳しい言葉を発したのか理解できた気がする。私のように美化した良い思い出ばかりではなかったが、言われてみれば私自身腑に落ちることもあった。
これは妹を良く理解して少額といえどもキチンと遺産分割し、これからも兄弟として生きて行く行く為に必要なプロセスだった。翌日の午後、妹夫婦と隣町の馴染みのカフェで長々と語り合って精神的な疲れが癒された。たったコーヒー一杯で入口の大テーブルを3時間も独占し馬鹿笑い、終いに他のお客がいなくなり二度も果物の差し入れがあり、後半都知事選とかEU離脱論戦にマスターが参加すると言う身勝手なお客を許してくれた。
その翌日はとても忙しかったが、母の死後通夜・葬式が続いた3日間に比べ、精神的に落ち着きを取り戻し普通に多忙な1日だった。
朝食を済ませ一人暮らしの実家から出る倍の量のゴミ捨てに行き、実家に戻るとすっきりした気分になった。楽しみにしている連ドラを見た後、押し入れにある沢山のオムツを車に積み込んだ。どれも封が開いているが使った様子が殆どない。多くの業者が売り込みに来たオムツだろうと妹は言う。出かける前に妹は母の衣服などを知人に貰ってもらうものと廃棄するものに分類してくれた。時間をかけてやった方が良いという。
松山市の施設に向かい挨拶を兼ねてオムツを利用して貰いたいと申し出ると快く受け取ってくれた。事務所の所長さんや担当の方や看護婦さん、介護士さん達の部屋を訪れ母の思い出話しをした。写真など一部を除き殆ど部屋に残し処分を依頼した。最後に「10年後には私がお世話になります」と私らしく笑わせて施設を辞した。
介護を受けた数年間、母が心を開くには時間がかかったようだ。介護士は定着せず止めて行き、入居した頃の馴染みの介護士は所長と事務担当になっていた。多分、看護婦さん達が一番長く傍にいて母を「チエちゃん」と呼んで毎週容態を聞かせて貰った。医者によればそれが母の寿命をここまで持たせたという。
施設訪問を終えると妹は待っていた義弟の車で大阪に戻って行った。いよいよ田舎の言取暮らしに戻る。その後松山にある遺族年金の差し止め等の手続きをし、友人と会って昼食をとりながら情報交換をした。1週間ぶりだったのに久し振りのような気がしたが、非日常から日常に戻ったような気分転換になった。
昼食後急ぎ大洲市に戻り、地域銀行で母親の口座を解約手続きし時間がかかるので、市役所に向かい死亡届を出した。既に火葬の許可を得る段階で市役所には母の死亡が伝えられており、種々の手続きが準備されていた。しかし、何しろ年金・介護保険解約から税金支払・水道料金などの口座変更までやたら手続きが多かった。
最後に行ったのが昔父が働いた別庁舎の水道課で懐かしかったが、対応してくれた女性職員は全く知らなかった。その頃父の部下だった新人が今や70代では知り様がない。最後に次々と手続きを案内してくれた感じのいい笑顔の女性職員に、「色々面倒を見て頂いて感謝してますが、何故ワンストップ処理できないのか、まるで技術はあるのに共通カルテに抵抗する医療業界みたいだ。」とついつい言ってしまった。
5時過ぎになって銀行に戻り、母の口座が解約され私の口座にお金が移されたのを確認した。長い事務手続きの一日だったが、母の死亡以来感じた重荷のようなものが半分以上取れた。昨日は郵便局に行って銀行とは全く違うけれども目的は同じ手続きの申し込みをした。郵貯の手続きは面倒で先が長くなりそうだ。■
私は中学卒業後家を出て学校の寮に入りその後ずっと母と同居したことがなかったが、妹は地元の高校に行き東京の短大を卒業後新橋で働いたこともあったが、その後実家で何年か暮らした。それだけ、母との同居体験が長く深く刻まれていた。私の知らない綺麗事では語れない母の姿を知っていた。
初めは妹の言葉に反発した。妹も私に反発した。だが、妹がぽつりぽつりと語り始め最後には吐き出した母親像を全てではなくとも理解して、彼女が何故母親の死後も厳しい言葉を発したのか理解できた気がする。私のように美化した良い思い出ばかりではなかったが、言われてみれば私自身腑に落ちることもあった。
これは妹を良く理解して少額といえどもキチンと遺産分割し、これからも兄弟として生きて行く行く為に必要なプロセスだった。翌日の午後、妹夫婦と隣町の馴染みのカフェで長々と語り合って精神的な疲れが癒された。たったコーヒー一杯で入口の大テーブルを3時間も独占し馬鹿笑い、終いに他のお客がいなくなり二度も果物の差し入れがあり、後半都知事選とかEU離脱論戦にマスターが参加すると言う身勝手なお客を許してくれた。
その翌日はとても忙しかったが、母の死後通夜・葬式が続いた3日間に比べ、精神的に落ち着きを取り戻し普通に多忙な1日だった。
朝食を済ませ一人暮らしの実家から出る倍の量のゴミ捨てに行き、実家に戻るとすっきりした気分になった。楽しみにしている連ドラを見た後、押し入れにある沢山のオムツを車に積み込んだ。どれも封が開いているが使った様子が殆どない。多くの業者が売り込みに来たオムツだろうと妹は言う。出かける前に妹は母の衣服などを知人に貰ってもらうものと廃棄するものに分類してくれた。時間をかけてやった方が良いという。
松山市の施設に向かい挨拶を兼ねてオムツを利用して貰いたいと申し出ると快く受け取ってくれた。事務所の所長さんや担当の方や看護婦さん、介護士さん達の部屋を訪れ母の思い出話しをした。写真など一部を除き殆ど部屋に残し処分を依頼した。最後に「10年後には私がお世話になります」と私らしく笑わせて施設を辞した。
介護を受けた数年間、母が心を開くには時間がかかったようだ。介護士は定着せず止めて行き、入居した頃の馴染みの介護士は所長と事務担当になっていた。多分、看護婦さん達が一番長く傍にいて母を「チエちゃん」と呼んで毎週容態を聞かせて貰った。医者によればそれが母の寿命をここまで持たせたという。
施設訪問を終えると妹は待っていた義弟の車で大阪に戻って行った。いよいよ田舎の言取暮らしに戻る。その後松山にある遺族年金の差し止め等の手続きをし、友人と会って昼食をとりながら情報交換をした。1週間ぶりだったのに久し振りのような気がしたが、非日常から日常に戻ったような気分転換になった。
昼食後急ぎ大洲市に戻り、地域銀行で母親の口座を解約手続きし時間がかかるので、市役所に向かい死亡届を出した。既に火葬の許可を得る段階で市役所には母の死亡が伝えられており、種々の手続きが準備されていた。しかし、何しろ年金・介護保険解約から税金支払・水道料金などの口座変更までやたら手続きが多かった。
最後に行ったのが昔父が働いた別庁舎の水道課で懐かしかったが、対応してくれた女性職員は全く知らなかった。その頃父の部下だった新人が今や70代では知り様がない。最後に次々と手続きを案内してくれた感じのいい笑顔の女性職員に、「色々面倒を見て頂いて感謝してますが、何故ワンストップ処理できないのか、まるで技術はあるのに共通カルテに抵抗する医療業界みたいだ。」とついつい言ってしまった。
5時過ぎになって銀行に戻り、母の口座が解約され私の口座にお金が移されたのを確認した。長い事務手続きの一日だったが、母の死亡以来感じた重荷のようなものが半分以上取れた。昨日は郵便局に行って銀行とは全く違うけれども目的は同じ手続きの申し込みをした。郵貯の手続きは面倒で先が長くなりそうだ。■