豊臣秀吉が死ぬと、まだ幼い息子の豊臣秀頼があとを継いだ
五大老筆頭の徳川家康は得意の狸寝入りをしていたが、唯一目の上のたん瘤、秀吉と若い時からの盟友だった前田利家が死ぬと本性を現した。
秀吉が禁じた大名同士の縁組も勝手に仕切り、五奉行筆頭の石田三成の抗議も無視、
しかし家康が手に入れたい越後は豊臣家の大番頭ともいえる忠臣堀秀政の長男秀治が春日山城30万石で入城、若い秀治を補佐するため家老として入城した堀直政がいる限り手が出せなかった。
秀治の父、堀秀政と堀直政は従兄弟で互いに若い時より羽柴秀吉、織田信長の出世に大いに貢献した猛将であり、家康とて一目置かねばならなかった
秀治は春日山城を廃城にして直江津に福島城を築いた。
しかし、秀治が死に、直政が死ぬと、堀家のお家騒動に乗じて越後国を手に入れた家康は全国の大名に命じて越後高田に防御力が高い高田城を作るよう命じた、完成後に福島城を廃城にした。
高田城には家康の六男、松平忠輝を入れて越後および信州川中島合わせて60万石の大名とした。
1610年の時点で家康の11人いた息子は二代将軍となった三男の徳川秀忠と六男の松平忠輝、大人はこの二人だけ、あとは家康が60歳を過ぎてから作ったまだ幼い九男から十一男、後に御三家(尾張、紀州、水戸)となる三人
あとの6人は皆家康より先に旅立ってしまった。
忠輝が兄の秀忠を立てて大いに忠誠心を見せれば目出度かったのだが、秀忠はのんびりとしてしょっちゅう家康に叱られていたから、それを見て育った忠輝は兄に従う気が無い。
むしろ自分の方が勇敢であり、才能もあると思っているから不満タラタラ
さすがに「おれが天下人にふさわしい」とは言えないが腹の中はわからない
後に大坂城攻めの時には秀忠の家臣を無礼討ちにしたり、家康に「大坂城と100万石をいただきたい」と言ってみたり
さすがの家康も自分が死んだ後で忠輝は秀忠に対してクーデターを起こすのではと疑念を抱く。
更にまずいことに「遅れて来た戦人(いくさびと)」超危険人物伊達政宗の娘が忠輝の奥方、政宗も未だ天下に未練を持つ野心家、しかも今が一番脂がのっている、さらに伊達政宗は南蛮人に近づき家臣をキリスト教徒にしたうえでローマに使節団を送った
正宗の領地の仙台には異国船がたびたび訪れていると言う、軍事面でも異国と手を結べば海上から江戸への砲撃の危険もある。
政宗が南蛮の武器を手に入れ、忠輝と手を組めば秀忠の将軍も危うい。
徳川将軍家が伊達に乗っ取られる危険性は無視できない。
ついに家康、秀忠の親子は決断、家康が忠輝を勘当留置、家康が死ぬと秀忠は家康の言いつけ通り有無を言わせず忠輝から越後の領土を取り上げ、信州諏訪に流罪とした。忠輝は92歳まで流人のまま生きた。
忠輝流罪の後、高田城には譜代大名の酒井家次が10万石で入城、越後領は分割されて、それぞれの小藩主に分け与えられた
その後も高田藩は続き、8家目の榊原家の時に15万石で明治維新を迎えた、高田藩は新政府軍の先頭に立って道案内をしながら奥州征討に向かった。
高田城、復元三層櫓
高田城公園は4月には桜の名所となり、4000本の夜桜は日本三大夜桜に数えられる。
高田城外堀 夏の午前には紅蓮で19ヘクタールの外堀全体が埋め尽くされる
その姿は東洋一と称される。
高田城内堀
まるで浮き城のような江戸時代の高田城
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