○吉見俊哉『万博幻想:戦後政治の呪縛』(ちくま新書)筑摩書房 2005.10
愛知万博(愛・地球博)の開幕まであと1週間だそうだ。朝の情報番組が伝えていた。
本書は、1970年の大阪万博、1975年の沖縄海洋博、1985年のつくば科学博、そして、1980年代初頭から構想され(1981年、名古屋がオリンピック誘致に失敗したところから始まる)紆余曲折を経て、まもなく始まろうとしている愛知万博という、4つの「万博」の分析によって、日本の戦後史を振り返るものである。
1960年生まれの私は、小学生で大阪万博に遭遇した。生まれて初めて知る「国民的熱狂」だった。実際に大阪まで行ったのは2回で、太陽の塔と、もう1つか2つパビリオンを見たはずだが、ほとんど記憶にない。それでもテレビ報道や子供向けの雑誌から、ずいぶん詳細な情報を得ることができた。そこにはSFマンガやアニメでしか見たことのない先端的な科学技術の成果があり(と思えた)、世界の国々から集った人々が仲良く笑顔をふりまき(と思えた)、未来そのままの奇抜な建物が立ち並ぶ夢の国だった。とうとう「バンパク」が終わってしまったとき、しかもオリンピックと違って「次」のないお祭りなのだと理解したときは、本当に悲しかった。
実は、その壮大な「お祭り」に先立って、当時の知識人たちが集い、大阪万博の基本理念について真剣な討議が行われていたとは、想像さえしたことがなかった。万博のテーマ委員会を主導した桑原武夫は、核や公害、東西冷戦と地域紛争、人種間の対立などの問題を「不調和」の言葉で括り、かつ、それを乗り越える可能性を「人類の知恵(複数形)」で示している。
しかし、結局、当たり障りのない「人類の進歩と調和」という標語が決定すると、原爆、水俣など「不調和」を示す企画は「テーマに合わない」という理由で排除され、出発点にあった批判的精神は忘れられて、ただ日本の高度成長を誇る「お祭り騒ぎ」としての万博に着地してしまう。
この構図は、今回の愛知万博においても、何も変わっていないように思える。開催か中止か、「海上(かいしょ)の森」の環境保全をめぐって揺れ動いた中で、どちらかと言えばマスコミは、中止を求める市民グループに同調的であったが、この数日、そんな議論があったことなど、すっかり忘れたような「お祭り」報道が続いている。
マスコミだけではない。「ヤフー!リサーチ」のネット調査では4人に1人が愛知万博に「必ず行く」「たぶん行く」と答えているそうだ(3月2日)。ええ~なんなの、これは。そこに「お祭り」があるのなら「乗り遅れたら損」という感覚だろうか。ネットには、今も愛知万博に反対する市民グループのサイトがいくつか立っているが、もはや活動をしていないのか、最近更新された様子がない。
結局、市民も通産官僚も自治体も、トヨタという一企業の手のひらで踊らされただけなのか。愛知万博のテーマ「Beyond Development(開発を超えて)」を実現することの難しさを思った。
愛知万博(愛・地球博)の開幕まであと1週間だそうだ。朝の情報番組が伝えていた。
本書は、1970年の大阪万博、1975年の沖縄海洋博、1985年のつくば科学博、そして、1980年代初頭から構想され(1981年、名古屋がオリンピック誘致に失敗したところから始まる)紆余曲折を経て、まもなく始まろうとしている愛知万博という、4つの「万博」の分析によって、日本の戦後史を振り返るものである。
1960年生まれの私は、小学生で大阪万博に遭遇した。生まれて初めて知る「国民的熱狂」だった。実際に大阪まで行ったのは2回で、太陽の塔と、もう1つか2つパビリオンを見たはずだが、ほとんど記憶にない。それでもテレビ報道や子供向けの雑誌から、ずいぶん詳細な情報を得ることができた。そこにはSFマンガやアニメでしか見たことのない先端的な科学技術の成果があり(と思えた)、世界の国々から集った人々が仲良く笑顔をふりまき(と思えた)、未来そのままの奇抜な建物が立ち並ぶ夢の国だった。とうとう「バンパク」が終わってしまったとき、しかもオリンピックと違って「次」のないお祭りなのだと理解したときは、本当に悲しかった。
実は、その壮大な「お祭り」に先立って、当時の知識人たちが集い、大阪万博の基本理念について真剣な討議が行われていたとは、想像さえしたことがなかった。万博のテーマ委員会を主導した桑原武夫は、核や公害、東西冷戦と地域紛争、人種間の対立などの問題を「不調和」の言葉で括り、かつ、それを乗り越える可能性を「人類の知恵(複数形)」で示している。
しかし、結局、当たり障りのない「人類の進歩と調和」という標語が決定すると、原爆、水俣など「不調和」を示す企画は「テーマに合わない」という理由で排除され、出発点にあった批判的精神は忘れられて、ただ日本の高度成長を誇る「お祭り騒ぎ」としての万博に着地してしまう。
この構図は、今回の愛知万博においても、何も変わっていないように思える。開催か中止か、「海上(かいしょ)の森」の環境保全をめぐって揺れ動いた中で、どちらかと言えばマスコミは、中止を求める市民グループに同調的であったが、この数日、そんな議論があったことなど、すっかり忘れたような「お祭り」報道が続いている。
マスコミだけではない。「ヤフー!リサーチ」のネット調査では4人に1人が愛知万博に「必ず行く」「たぶん行く」と答えているそうだ(3月2日)。ええ~なんなの、これは。そこに「お祭り」があるのなら「乗り遅れたら損」という感覚だろうか。ネットには、今も愛知万博に反対する市民グループのサイトがいくつか立っているが、もはや活動をしていないのか、最近更新された様子がない。
結局、市民も通産官僚も自治体も、トヨタという一企業の手のひらで踊らされただけなのか。愛知万博のテーマ「Beyond Development(開発を超えて)」を実現することの難しさを思った。