見もの・読みもの日記

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旅の終わりに/僕の見た「大日本帝国」

2005-06-07 00:16:49 | 読んだもの(書籍)
○西牟田靖『僕の見た「大日本帝国」:終わらなかった歴史と出会う旅』情報センター出版局 2005.2

 かつて日本の領土は広かった。北はサハリン(樺太)の南半分、南はミクロネシアにまで広がっていた。本書は、2000年の夏、原付バイクで走ってみたくてサハリンに渡った著者が、海沿いの村に遺された神社の鳥居を見つけ、正確な日本語を話す東洋系の老人に「今日は終戦記念日ですね」と話しかけられて愕然とした体験に始まる。

 それから、「あまり考えてこなかった、祖国、日本の過去というもの」を訪ねて、台湾、韓国、北朝鮮、中国東北部(旧満州)、ミクロネシア(南洋群島)を巡り、「大日本帝国」の元領土を踏破する長い旅が始まる。

 最近、日中韓三ヶ国の歴史学者が共同編集した『未来をひらく歴史』(高文研)という教科書が刊行された。教科書と言ってもかなり思想宣伝的な性格が(作る会の教科書とは別の意味で)強くて、「教科書にはとても使えない」「副読本ならいいんじゃないか」「いや、副読本にもならない」という論戦が、テレビの中で行われていた。

 この教科書への評価はさておき、もし私が中学か高校の教師だったら、本書を副読本に使ってみたい気がする。本書の著者は1970年生まれ。戦後民主主義教育の中で漠然と「戦争はいけないもの」と教えられ、しかしながら「戦争の実態」は何も知らずに育ってきた。これは、思想的に右でも左でもない、気のやさしい、しかし少しばかり意思の強い、普通の戦後生まれの青年の旅の記録である。

 リアルな「大日本帝国」の旧領土には、リアルな生活があった。あきらめ。捨てられない希望。反日と親日。当たり前だが、ひとりひとりが異なる、リアルな戦後を過ごしていた。心やさしい著者は、彼らのひとつひとつの人生に、できるだけ丁寧に向き合おうとする。ためらい。とまどい。忍耐。伝わらない思い。「論理」でも「感情」でも「政治」や「運命」でも割り切れない何かが、そこには残ってしまう。

 当たり前だが、戦前の日本人が全て鬼だったわけではない。誠心誠意、現地の人々の幸福を願って、社会インフラの整備や生活水準の向上に尽くした人々もいる。これを「侵略と謝罪」のような、たったひとつの態度で括って捨てることには、確かに問題がある。しかしながら、彼らの存在をもって、国家の犯罪を免罪してもらおうとするのは、やはりお門違いであると思う。

 2004年8月、旅の終わりに、著者は終戦記念日の靖国神社を訪れる。そこで著者は、しばし戦後日本のタブーから解き放たれたように、熱っぽく戦争体験を語り合う、元日本兵らしき老人の集団を境内のあちこちで目撃する。

 ふーむ。私はこのエピローグを読みながら考えた。戦後の日本社会において、声高に戦争体験を語ることは、長い間、タブーだった。戦争は「恐ろしいもの」「忌避すべきもの」であって、それ以外の形容は許されてこなかった、と言ってよい。だから、自分の言葉で戦争を語りたい、かつての戦友と旧交を暖め、共有体験を確認したい、と願う者にとっては、「靖国」だけが最後の拠り所だったのだ。

 もしかすると、いまの我々に必要なことは、戦中世代に対する「太陽政策」なのではなかろうか。北朝鮮という抑圧的独裁国家は、高圧的な制裁措置でなく、対話と協調という融和政策によってこそ、解体することができる、と韓国政府は言う。

 同様に、日本において、ナショナリストの結束を解体し、「靖国」の権威を失墜せしめるために必要なのは、実は彼らに対する拒絶と不寛容ではなく、いっそ日本の社会の中に、戦争についての語りを、あれもこれも、アナーキーに蔓延させてしまったら、どうなんだろう。そんなことを考えた。ただし、もちろん日本政府は、いずれの言論からも一定の距離を保つものでなくてはならないが。
コメント (1)
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