見もの・読みもの日記

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その男、天才につき/岡倉天心(東京芸大美術館)

2007-10-15 23:26:36 | 行ったもの(美術館・見仏)
○東京藝術大学大学美術館 創立120周年企画『岡倉天心-芸術教育の歩み-』

http://www.geidai.ac.jp/museum/

 会場の入口には、下村観山が描いた肖像『天心岡倉先生』が待っている。ただし、第9回再興院展に出品した完成品は翌年の震災で焼失してしまったため、これは完成間際の画稿であるという。煙草を手に、口髭を捻りながら、斜め上方に迫力ある鋭い視線を投げている。うわー。こわもて。軽々には近づきたくない。けれど、不思議なもので、傲岸不遜で愛想のかけらもないところが、却って無防備な愛嬌にも感じられる。

 1890(明治23)年、27歳(!)の天心は、東京美術学校の第2代校長に迎えられ(初代校長は浜尾新)、後進の育成のみならず、博物館との連携協力、銅像などの制作受注、社会への広報普及など、まるで今日の国立大学法人を彷彿とさせるような、精力的な活動を行う。しかし、そんな天心を快く思わない人々もいた。1898(明治31)年3月、帝国博物館美術部長職を辞任のあとも、天心を中傷する怪文書がばら撒かれる。

 その『東京美術学校岡倉校長排斥事件関係書類-いわゆる怪文書』は、すさまじいものだ。「岡倉覚三ナル者ハ一種奇怪ナル精神遺伝病ヲ有シ、常ニ快活ナル態度ヲ以テ人ニ接シ、又巧ミニ虚偽ヲ飾ルモ、時アリテ精神ノ異常ヲ来タスニ及ビテハ、非常ナル惨忍ノ性ヲ顕シ、又強烈ナル獣慾ヲ発シ」云々。まあ実際、この頃は、九鬼隆一の妻ハツとの恋愛、妻との不和、過度の飲酒など天心の私生活は乱れていたらしいし、天才肌の強烈な個性が垣間見える的確な描写ともいえるが、それにしてもひどい。

 驚くべきは、芸大美術館がこの「怪文書」を、軸装までしてきちんと保存してあることだ。さらに、今回、この文書を全面公開したこともすごい。ある意味では、大学の恥部を曝すようなものだが、おかげで我々は、近代日本における「美術」の確立が、どれだけ厳しい闘争の産物であったかを知ることができる。同年4月、天心と入れ替わりに美術学校教授に着任したのが黒田清輝である。写真で見る限り、黒田のほうが温厚篤実な常識人っぽい。しかし、その黒田も「戦う洋画家」であったことは、春の展覧会『パリへ-洋画家たち百年の夢』で見たとおりである。

 この展覧会は、天心と東京美術学校とのかかわりに焦点を絞っているため、同校を辞職した後の天心(まだまだ続く波乱と冒険)については、あまり触れていない。その点、天心ファンには、ちょっと物足りないだろう。私は、2005年、ワタリウム美術館の『岡倉天心展』を思い出して、後半生を補っていた。

 その代わり、本展のお楽しみは、豊富な文献・写真・現物資料で振り返る、東京美術学校の歴史である。会場の展示作品とパネルの古写真を、注意深く見比べてほしい。たとえば、板谷波山の卒業制作は木彫『元禄美人像』(明治27年)であるが、そのそばに明治27年の彫刻教室の写真が飾ってあり、よーく探すと、まさにこの像を制作中の波山の姿が写っている。

 また、天心が育てた芸術家たちの作品も見どころである。竹内久一の『技芸天』いいなあ。2メートルを超す巨像で、正対すると、天平の塑像並みの迫力に圧倒されるが、横に回ると、幅薄で繊細なS字プロポーションに驚く。芸大の美術館にあるのがもったいない。どこかのお寺に置いて、秘仏扱いにしてくれたらいいのに。菱田春草による模写、徽宗筆『猫図』も最高! 肉球を舐める猫の表情が、猛獣っぽくて恐ろしくも愛らしい。これ、原本はどこにあるのだろう?

 会場の最後をシメるのは、横山大観による『吊辞』(弔辞)。ちょっと泣けた。それから天心自筆の戯作詩『夜』の額。これもよかった。本展は美術館の展覧会ではあるが、文章をきちんと読むと、一層得るものが多い。

 本展のポスター(画像あり↑)に使われている、いかにも「態度のデカい」天心像には、当然この会場で会えるものと思っていた。そうしたらこの彫像は、芸大美術館の庭に常設されているのだという。何度も来ているのに全く知らなかった。美術館の建物のすぐそばなのだが、樹木の茂みに隠れていて気づきにくい。展覧会を見終わって、薄暗い木立の中の四阿(あずまや)で長い瞑想にふけるが如き天心先生に拝謁するのは、感慨深いものであった。次回からは、ときどきご挨拶に立ち寄ることにしよう。
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