見もの・読みもの日記

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日本の古い友人/近代ヨーロッパの誕生(玉木俊明)

2009-10-14 23:04:20 | 読んだもの(書籍)
○玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生:オランダからイギリスへ』(講談社選書メチエ) 講談社 2009.9

 近代ヨーロッパの成立過程を、オランダからイギリスへというヘゲモニーの移譲プロセスを軸に、主に経済史の立場から論じたもの。「オランダ→イギリス」と聞けば、即座に東インド貿易を連想するのが日本人の性だが、本書の着眼点はこれと異なる。

 16世紀前半、ヨーロッパ経済の中心はヴェネツィアだった。しかし、16世紀後半には、イタリア経済は衰微し始める。都市が発展し、人口(都市住民)が増えすぎた結果、食糧自給の破綻と、周辺の森林資源(=重要な船舶資材であり、燃料だった)の枯渇をもたらしたためである。代わって、バルト海沿岸の穀物・森林資源が注目を浴び、バルト海貿易の商品集積地として、アムステルダムが急激に台頭した。

 一般に近世オランダ経済のバックボーンは東インド貿易だったと考えられているが、アジアは、確実な利益を見込むには、あまりにも遠すぎた。バルト海の穀物貿易こそが、17世紀=オランダ黄金時代の「母なる貿易」だった、と著者は主張する。一攫千金の奢多品よりも、需要の安定した穀物取引。冷静に考えれば、しごく妥当な見解である。

 当時のオランダについて、著者は以下のような特徴を挙げている。

・戦争(スペインからの独立戦争、1568-1648)と同時並行で、経済発展が成し遂げられたこと。戦争遂行のために巨額の借金をし、平時にはそれを返済していくシステムが完成された。
・分裂国家であったこと。オランダは「商人の共和国」であり、国家が主導権を握り、経済を発展させることはなかった。
・宗教的寛容が保たれ、多様な宗派の商人が取引に従事したことで、アムステルダムは、商品だけでなく、商業情報のゲートウェイになった。
・アムステルダム取引所は、印刷メディアによる「価格表」を定期的に発行し、これは国境を超えて、ヨーロッパの経済活動を活発化する力となった。

 18世紀に入ると、ヨーロッパ経済の中核は、オランダからイギリスへと移動していく。この過程で、17世紀にオランダに蓄えられた富がイギリスに投資され、イングランド銀行の設立に使われた。また、オランダの商業ノウハウは、商人ネットワークを通じて、ロンドン(イギリス)とハンブルク(ドイツ)に移植され、両都市の大西洋貿易は大きく躍進した。

 ハンブルクは、コスモポリタン的な商人が集い、「アムステルダムの純粋な後継者」というべき都市だった。一方、イギリスは、中央集権化を推し進め、国家が市場を保護することによって、先進国オランダに打ち勝ち、さらに、アジア、アフリカ、アメリカ大陸など、他地域を圧倒する経済力を手に入れた。最終的には「帝国」システムの勝利と言えよう。

 私は、途中で「バルト海ってどこ?」と音を上げたくなるくらい、ヨーロッパ史には不案内なのだが、「イギリス経済」や「オランダ経済」が、つねに周辺諸国・諸地域とのかかわりの中で発展・衰退しており、ヨーロッパの地域的一体性が、アジアとは比べ物にならないくらい強かったことは、よく分かった。また、江戸時代の日本が、のんびり付き合ったオランダが、どういう国家であったかも。まあ、徳川政権は、いい友人を選んだというべきかもしれない。19世紀、情容赦もなく中国に食い入った「帝国」イギリスに比べれば。 
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