見もの・読みもの日記

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シンポジウム・知られざる幕末の絵師 狩野一信(江戸東京博)

2011-05-16 00:22:56 | 行ったもの2(講演・公演)

江戸東京博物館 シンポジウム『知られざる幕末の絵師 狩野一信』(2011年5月15日、13:30~15:30)

 まずは長い前置きから。特別展『五百羅漢』関連イベントのシンポジウムに行ってきた。展覧会は、当初3月15日~5月29日で予定されていたが、3月11日の地震発生により、開催を延期。往復葉書で参加者募集中だったイベント情報もプッツリ絶えてしまったので、まだ申し込みをしていなかった私は、どうしたものか、困っていた。4月も半ばになって、ようやく4月29日から開館が決まり、関連イベントも日を改め、「当日先着150名様に整理券配付」という告知がホームページに載った。

 11時から整理券配付。1時間前に行けば大丈夫だろう、と判断し、朝ごはんもそこそこに家を出る。千葉市美術館の若冲展みたいに、そのまま会場に軟禁ということもあり得ると思い、途中で菓子パンを買って、バッグに放り込んでおく。博物館に到着すると、会場となるホールには、まだ看板も出ていない。チケット売り場で「今日はイベントがあるって聞いたんですけど」と聞いてみると、「11時少し前になると列ができると思いますので」という、のんびりしたお返事。拍子抜けして、ロビーの椅子で菓子パンをかじりながら待つ。まあ普通はこんなものか…。千葉の若冲展がいかに異常だったかを思い知る。

 結局、11時に並んだのは数十人。整理券配付とともに「入場は13時20分からです」と申し渡された。そうすると、少し早目に戻ってまた並ばなければならないし、今から2時間で特別展を見るのはキツイと思い、食事を済ませ、常設展ゾーンで開催中の特集展示『オイレンブルク伯爵のみた幕末の江戸』を見にいく。これはこれで面白かったので、別途レポートの予定。

 午後1時過ぎにホール前に戻ってくると「葉書申し込みの列」「当日整理券の列」がそれぞれ出来ていた。葉書の方々から先に入場。当日整理券はまだ残っていたようで、しかも整理券番号に関係なく、この列に並んだ順で入場だった。朝10時に来る必要はなかったわけだが、どうしても聴きたいシンポだったので、文句は言いません。

 第1部は、2名の講師の報告から。

・高橋利郎(大東文化大学准教授)

 最近まで成田山書道美術館の学芸員をしていた高橋さんは、成田山新勝寺が所蔵する狩野一信作品の保存・伝来状況について報告。今回出陳されている『釈迦文殊普賢四天王十大弟子図』『十六羅漢図(双幅)』ほか、天井画、紙本風神雷神図(板壁に貼られている)など、全て現在の釈迦堂(旧・本堂)に伝わっているという。

・佐々木英理子(板橋区立美術館学芸員)

 佐々木さんは、五百羅漢図以外の一信作品について概説。見つかっている作品は20点ほどとか。北海道・留萌の厳島神社の絵馬、浅草寺の絵馬など。また、逸見(へんみ)家資料から発見された一信の日記について、画業への精勤ぶりを報告。

 第2部は、安村敏信(板橋区立美術館館長)、山下裕二(本展監修者・明治学院大学教授)が加わる。進行役の山下先生に促されて、安村先生が口火を切る。これまで増上寺の五百羅漢図を全て実見したのは、慶応大学の河合正朝氏だけと言われてきた。河合さんがまとめた港区教育委員会の報告書(昭和58/1983年刊、モノクロ写真収載)が、公刊されている唯一の資料だった。昭和60/1985年、ある骨董屋で一信の源平合戦図屏風(裏は龍虎図)を発見し、板橋区立美術館で購入し、あとで富山の城端町(じょうはなまち)から出たものと分かった。

 2004年、別冊太陽『狩野派決定版』に山下さんと二人で一信作品の紹介を書いたが、「ずいぶん間違ったこと書いちゃったんだよねー」と豪快に安村先生。一信は謎の多い画家で、生年は文化12年と考えられてきたが文化13年(1816)らしいこと、逸見家に養子に入る前の姓が分からないこと、”狩野派”というが誰を師匠にしたか分からないこと(寿信(としのぶ)か章信(あきのぶ)か)、そもそも増上寺本『五百羅漢図』が、一般には96幅まで一信が描いたと言われているが、どう見ても90番代の筆力の衰えは、他人の作ではないかと思われ、誰が描いたか分からないこと。養子であり、一番弟子の一純(かずよし)筆という説もあるが、東博本『五百羅漢図』が一純筆と推定されており、「増上寺本の90番代は東博本より腕が落ちる」ことから、再考せざるを得ないこと(最後は、安村先生と山下先生、苦笑しながら、でも楽しそうに顔を見交わしていた)。

 お二人は、これまで一信を紹介するにあたり、キッチュな面(異様さ、毒々しさ、俗悪さ)を強調してきたが、現物を目の当たりにすると、意外とそういう印象が薄い、とうなずき合う。辻惟雄先生も会場に見えて「実物を見ないと分からんねえ」とつぶやいておられたとか。

 辻先生のお名前から若冲の話になり、若冲も『動植綵絵』30幅を40代の10年間かけて描いており、人生50年と考えられていた当時、最後に自分の納得できる仕事を残し、寺に寄進したいという気持ちは、共通していたのではないかと山下先生のコメント。続けて、江戸の人々の宗教心を探るために、山下先生が始めた「全国五百羅漢行脚」の写真レポート。大分・耶馬溪の羅漢寺は「どうせ江戸モノだろうと行ってびっくり、これは中世まで遡るでしょう」とのお話に、見仏好きの血が騒ぐ。あと、わざわざ紹介いただいた”五百羅漢幼稚園”は、かなりツボでした。トマソン的に。

 こういう展覧会が行われることで、新たな一信作品の発見も期待されるとのこと。実際、展覧会の企画進行中に、徳川記念財団蔵の『東照大権現像』や個人蔵『村林彦治郎像』が発見された。特に後者は、写真を見る限りでも、煙草入れや火鉢(?)の立体感が出色。村林彦治郎が何者かは不明。画幅には「ゆっくりとゆかばや花の西日(いりひ)かな」という発句が記され「平賀」と署名されている。山下先生は「煙草入れを持つ男性像、平賀とくれば、源内だと思ったんだけどね」とおっしゃり、佐々木英理子さんは「平賀元義では?」なんておっしゃっていたけど、元義は歌人だから発句は詠むかなあ。どちらにしても、発句に姓で署名はしないと思うので、署名が「平賀」としか読めないかどうか、書に詳しい高橋さんに聞いてみたかった。あとで日文研の俳諧データベースを検索してみたが、特に類例なし。

 最後に「展覧会はまだ続きますが、これで大きなイベントを全て終え、私の仕事も一区切りです」と挨拶をされた山下先生、少し感極まっておられたのではないかと思う。本当にお疲れ様でした。私は『日本美術応援団:オトナの社会科見学』(中央公論社 2003.6)で増上寺五百羅漢図の存在を知って以来、この日を夢見てきた一読者だが、本当に「ドリームズカムトゥルー」の展覧会だった。

 まだ過去形にしてはいけない。続いて展覧会レポートだが、15時30分閉会予定のシンポジウムが終わったのは16時。閉館は17時30分。脱兎のごとく、展覧会会場に向かったのである。以下、別稿。

※過去の一信関連記事
東京国立博物館 特集陳列『幕末の怪しき仏画―狩野一信の五百羅漢図』(2006-02-18)
府中市美術館 企画展『亜欧堂田善の時代』(2006-03-12)
お盆旅行(3):嵯峨野~清涼寺~一条通(2009-08-20)※京都・清涼寺で一信筆(?)羅漢図を見る
栃木県立博物館 平成21年度秋季企画展『狩野派-400年の栄華-』(2009-11-18)
板橋区立美術館 江戸文化シリーズNo.26『諸国畸人伝』(2010-09-11)

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