○氏家幹人『江戸奇人伝:旗本・川路家の人びと』(平凡社新書) 平凡社 2001.5
1997年、雑誌『太陽』連載。江戸人の随筆に登場する無名の奇人たちを紹介する目論見で始まった歴史よみものエッセイだが、プロローグに松浦静山の『甲子夜話』、冒頭の二編に宮崎次郎大夫(成身)の『視聴草(みききぐさ)』『安政乙卯地震紀聞』が取り上げられているほかは、ほぼ全編、川路聖謨(としあきら)の日記がネタ本になっている。この顛末について、著者はあとがきで「川路の日記が面白すぎたから…」と恐縮するばかり。で、当初は予定になかったサブタイトルがつく結果となったのである。
特に、本書がたびたび取り上げているのは、川路の奈良奉行時代の日記『寧府記事』だ。のちにロシアとの外交交渉で活躍する国際派の川路に、奈良奉行時代があったことは、昨年暮れ、岡本彰夫著『大和古物漫遊』を読んで初めて知った。多くの善政を敷き、奈良の人々に愛された名奉行だったという記述を読んで、脇目もふらずに仕事と学問(天皇陵の調査)に取り組んでいたのかと思ったら、意外と余裕をもって、生活のひとコマひとコマを楽しんでいた様子がうかがえて、おもしろかった。
才色兼備な賢夫人(ただし奇病持ち)。人はいいが、勉強嫌いの跡取り息子。気が強くてトラブルメーカーの娘たちなど、川路の活写する「川路家の人びと」は、実に個性的で多士済々。さらに、思い出の中に登場するのが、幼い頃からスパルタ教育で川路を「御目見(旗本)以上」に育てた実父。貧乏生活を健気に支えた母親に対し、川路は敬慕の情を隠さない。そもそも、川路の日記は、江戸に残してきた老母に「私はこんなに元気です」「こんな楽しいことがありました」ということを伝えたいがために書かれたものだという。たまに江戸に戻ったときは、51歳の息子と72歳の母親が、ひとつ布団に寝転びながら、朝まで語り合っている。
一方、養子先の父である川路三左衛門は軽妙洒脱な極楽とんぼ。夫婦揃ってのお酒好きで、酔うと水撒きを始める(!)とか五禽の真似をするとか、愛すべき酒癖の持ち主でもあった。さらに川路は、家来たちと家来の幼い子供たちにも愛情あふれる観察眼を注いでいる。当時の「主従」の間柄って、意外と親密だったんだな。特に女の子が、お奉行様や奥様の前でも、のびのび振舞っているのが印象的だった。
さて、それ以上に面白かったのは、川路が奈良に赴任して感じたカルチャー・ショックの数々。奈良では、4月1日から8月1日まで(つまり夏の間)町中おしなべて昼寝をする習慣があった。「夜に同じ」というのだから半端ではない。また、奈良は庶民に至るまで、和歌や茶の湯、謡曲の愛好者が多いことにも驚いている。
おっとり古風で文化的な土地柄かと思えば、それだけではなく、「極道」も奈良の名物だったようだ。関東の博徒は強そうにしていてもいざとなると命を惜しむが、上方の盗賊たちは死を恐れない。奉行として、凶悪犯を裁く立場にいた川路は、印象的なアウトローの姿をいくつも書き留めている。しかし法隆寺でも賭場が張られていたとは…。奈良は酒が美味いというのは、なんとなく同意。これは奈良人ではないが、前任の奉行に「猫を愛でる奉行」がいた話にも笑った。
本書には川路の名言も数々引かれている。その圧巻は、武士の本分を問われて、「人殺し奉公死に役」と答えたというものだろう。この覚悟にして、あの最期(→Wiki)と納得されるのだが、なぜか本書は、川路の最期について触れることを一切避けている。明治の東京に足跡を記した、愛妻・おさとさんや、孫の太郎ちゃん(川路寛堂)のことは紹介しているのに。それでよいような、悪いような。
※蛇足。平凡社新書は、最近装丁が変わったんですね。
1997年、雑誌『太陽』連載。江戸人の随筆に登場する無名の奇人たちを紹介する目論見で始まった歴史よみものエッセイだが、プロローグに松浦静山の『甲子夜話』、冒頭の二編に宮崎次郎大夫(成身)の『視聴草(みききぐさ)』『安政乙卯地震紀聞』が取り上げられているほかは、ほぼ全編、川路聖謨(としあきら)の日記がネタ本になっている。この顛末について、著者はあとがきで「川路の日記が面白すぎたから…」と恐縮するばかり。で、当初は予定になかったサブタイトルがつく結果となったのである。
特に、本書がたびたび取り上げているのは、川路の奈良奉行時代の日記『寧府記事』だ。のちにロシアとの外交交渉で活躍する国際派の川路に、奈良奉行時代があったことは、昨年暮れ、岡本彰夫著『大和古物漫遊』を読んで初めて知った。多くの善政を敷き、奈良の人々に愛された名奉行だったという記述を読んで、脇目もふらずに仕事と学問(天皇陵の調査)に取り組んでいたのかと思ったら、意外と余裕をもって、生活のひとコマひとコマを楽しんでいた様子がうかがえて、おもしろかった。
才色兼備な賢夫人(ただし奇病持ち)。人はいいが、勉強嫌いの跡取り息子。気が強くてトラブルメーカーの娘たちなど、川路の活写する「川路家の人びと」は、実に個性的で多士済々。さらに、思い出の中に登場するのが、幼い頃からスパルタ教育で川路を「御目見(旗本)以上」に育てた実父。貧乏生活を健気に支えた母親に対し、川路は敬慕の情を隠さない。そもそも、川路の日記は、江戸に残してきた老母に「私はこんなに元気です」「こんな楽しいことがありました」ということを伝えたいがために書かれたものだという。たまに江戸に戻ったときは、51歳の息子と72歳の母親が、ひとつ布団に寝転びながら、朝まで語り合っている。
一方、養子先の父である川路三左衛門は軽妙洒脱な極楽とんぼ。夫婦揃ってのお酒好きで、酔うと水撒きを始める(!)とか五禽の真似をするとか、愛すべき酒癖の持ち主でもあった。さらに川路は、家来たちと家来の幼い子供たちにも愛情あふれる観察眼を注いでいる。当時の「主従」の間柄って、意外と親密だったんだな。特に女の子が、お奉行様や奥様の前でも、のびのび振舞っているのが印象的だった。
さて、それ以上に面白かったのは、川路が奈良に赴任して感じたカルチャー・ショックの数々。奈良では、4月1日から8月1日まで(つまり夏の間)町中おしなべて昼寝をする習慣があった。「夜に同じ」というのだから半端ではない。また、奈良は庶民に至るまで、和歌や茶の湯、謡曲の愛好者が多いことにも驚いている。
おっとり古風で文化的な土地柄かと思えば、それだけではなく、「極道」も奈良の名物だったようだ。関東の博徒は強そうにしていてもいざとなると命を惜しむが、上方の盗賊たちは死を恐れない。奉行として、凶悪犯を裁く立場にいた川路は、印象的なアウトローの姿をいくつも書き留めている。しかし法隆寺でも賭場が張られていたとは…。奈良は酒が美味いというのは、なんとなく同意。これは奈良人ではないが、前任の奉行に「猫を愛でる奉行」がいた話にも笑った。
本書には川路の名言も数々引かれている。その圧巻は、武士の本分を問われて、「人殺し奉公死に役」と答えたというものだろう。この覚悟にして、あの最期(→Wiki)と納得されるのだが、なぜか本書は、川路の最期について触れることを一切避けている。明治の東京に足跡を記した、愛妻・おさとさんや、孫の太郎ちゃん(川路寛堂)のことは紹介しているのに。それでよいような、悪いような。
※蛇足。平凡社新書は、最近装丁が変わったんですね。