○奈良国立博物館 特別展『頼朝と重源-東大寺再興を支えた鎌倉と奈良の絆-』(2012年7月21日~9月17日)
最初の展示ホールに入ると、いつになく見晴らしがいい。展示の章立てでいうと、入口付近が「第1章 大仏再興」、中央左側(建物の中心部分)に引っ込んだスペースが「第2章 大勧進重源」、いちばん遠くが「第3章 大仏殿再建」のイントロ部分にあたる。そして、それぞれのエリアを象徴するように、手前の壁際に後白河法皇坐像(長講堂、彫刻)、これと正対して、突き当りの奥に源頼朝像(神護寺、画幅)、左側の中ほどに重源上人坐像(東大寺、彫刻)が右半身を向ける。そして三者の視線の交錯する中央の展示ケースに、大きな金属製の舎利容器らしきものが鎮座している。これから始まるドラマの登場人物が一目で把握できる空間構成だなーと思った。重源上人坐像の奥に、同じ方向を向いて並んだ僧形の坐像は、遠目に何者か分からなかった。
長講堂の後白河法皇坐像は、今年3月「京の冬の旅」で拝観したばかり。こんなに早く再会しようとは思わなかった。しかも今回のほうが、ずっとお像に近寄って、さまざまな角度から眺めることができる。切れ長の二重瞼。高い頬骨。すっと通った鼻筋。金色の背景が、顔色を明るく見せている。江戸時代の肖像彫刻としては、まれに見る優品ではないかと思う。でも、長講堂の勅封の肖像画は、やっぱり開けてもらえなかったんだな…残念。
源頼朝像の印象は何度か書いているので略すが、何度見ても「美麗」な肖像画だと思う。この隣り、入口付近からだと見通せない衝立の影に、同じく神護寺所蔵の文覚上人像も来ていた。小山のようないかつい体躯。ドラマだったら、絶対プロレスラー枠だろう。
東大寺俊乗堂の重源上人坐像は、本来、年2回(7/5と12/16)しかご開帳にならない秘仏だが、いろいろな展覧会で、たびたびお目にかかっている。魅力の尽きないお像だが、没後八百年経っても、まだ勧進に駆り出されているみたいで、ご苦労なことだ。背後の窪まったエリアは、東大寺以外にも、多数の造寺・造仏にかかわった重源の活動を紹介する。快慶作の秀麗な阿弥陀如来立像、地蔵菩薩立像が並んでいて、快慶と重源の緊密な関係が強調されていた。そうかー重源おじいちゃんは、意外と耽美系好みだったたのかもしれない。
耽美といえば、播磨別所に伝わる舎利容器(金銅角五輪塔)は、金属の無機質な美、幾何学的な構成が際立つ、斬新なデザイン。火輪が正四面体(三角錐※普通は四角錐)という変り種。地輪(方形)が容器になっており、蓋を外すと、身の側面には四天王が線刻されている。会場ではちょっと見にくいが、図録で見ると、生き生きした表情がかわいい。
重源上人坐像の隣り、遠目によく分からなかったのは、善導大師坐像(奈良・来迎寺)だった。初見。左膝を立てて座り、大きく口を開けて念仏を唱える異相。快慶作とも言われる。重源は入宋時に四明(寧波)で浄土信仰の盛行を直に経験したはず、という。なるほど、そういうことか。
こんな調子で、文献(玉葉とか)は読んでいると面白いし、南都焼討シーンしか見たことのなかった『東大寺大仏縁起絵巻』は、珍しく他の箇所も開いているし、最初のホールで1時間以上もうろうろしていた。興福寺関係文書によれば、大仏建立後、大仏殿を造営するため、大仏の後山の土の撤去が必要となったとき、後白河法皇が東大寺に御幸して、自ら土を運び棄てた記録があると知って、胸の内で爆笑してしまった。本人は天然なんだろうけど、結果的に人のやらないパフォーマンスになってしまうあたり、ルーピー鳩山さんに似たところがあるかも。
東大寺の再興は、はじめ後白河法皇による「大仏」の再興、続いて頼朝による「大仏殿」の再興が行われた。あいにくの悪天候となった落慶法要の日、風雨をものともせず伺候する東国武士団が京の人々を驚かせたのは後者のほうだ。この時代の歴史は、よく頭に入っていないので、記憶の断片を確認しながら読み進む。
重源亡きあと、さらに堂宇の再建を継続するため、大勧進の職を引き継いだのが栄西、そして退耕行勇。それぞれ、鎌倉の寿福寺、浄妙寺に伝わる肖像彫刻(鎌倉国宝館でよく見る)と思わぬ再会。奈良と東国の縁って、意外と深いんだな、と思う。
それにしても、わずか一夜(?)で焼き払われた東大寺の復興に、このように長い歳月が費やされたことに、強い印象を受けた。さらに、ようやく復興した東大寺は、戦国時代に再び焼失し、またも復興の努力が重ねられる。南都、あるいは日本の真に誇るべき点は、「古いものが残っていること」ではなくて、天災や人災で古いものが失われかけても、そのたび「復興を重ねてきたこと」なのではないかと思った。
最初の展示ホールに入ると、いつになく見晴らしがいい。展示の章立てでいうと、入口付近が「第1章 大仏再興」、中央左側(建物の中心部分)に引っ込んだスペースが「第2章 大勧進重源」、いちばん遠くが「第3章 大仏殿再建」のイントロ部分にあたる。そして、それぞれのエリアを象徴するように、手前の壁際に後白河法皇坐像(長講堂、彫刻)、これと正対して、突き当りの奥に源頼朝像(神護寺、画幅)、左側の中ほどに重源上人坐像(東大寺、彫刻)が右半身を向ける。そして三者の視線の交錯する中央の展示ケースに、大きな金属製の舎利容器らしきものが鎮座している。これから始まるドラマの登場人物が一目で把握できる空間構成だなーと思った。重源上人坐像の奥に、同じ方向を向いて並んだ僧形の坐像は、遠目に何者か分からなかった。
長講堂の後白河法皇坐像は、今年3月「京の冬の旅」で拝観したばかり。こんなに早く再会しようとは思わなかった。しかも今回のほうが、ずっとお像に近寄って、さまざまな角度から眺めることができる。切れ長の二重瞼。高い頬骨。すっと通った鼻筋。金色の背景が、顔色を明るく見せている。江戸時代の肖像彫刻としては、まれに見る優品ではないかと思う。でも、長講堂の勅封の肖像画は、やっぱり開けてもらえなかったんだな…残念。
源頼朝像の印象は何度か書いているので略すが、何度見ても「美麗」な肖像画だと思う。この隣り、入口付近からだと見通せない衝立の影に、同じく神護寺所蔵の文覚上人像も来ていた。小山のようないかつい体躯。ドラマだったら、絶対プロレスラー枠だろう。
東大寺俊乗堂の重源上人坐像は、本来、年2回(7/5と12/16)しかご開帳にならない秘仏だが、いろいろな展覧会で、たびたびお目にかかっている。魅力の尽きないお像だが、没後八百年経っても、まだ勧進に駆り出されているみたいで、ご苦労なことだ。背後の窪まったエリアは、東大寺以外にも、多数の造寺・造仏にかかわった重源の活動を紹介する。快慶作の秀麗な阿弥陀如来立像、地蔵菩薩立像が並んでいて、快慶と重源の緊密な関係が強調されていた。そうかー重源おじいちゃんは、意外と耽美系好みだったたのかもしれない。
耽美といえば、播磨別所に伝わる舎利容器(金銅角五輪塔)は、金属の無機質な美、幾何学的な構成が際立つ、斬新なデザイン。火輪が正四面体(三角錐※普通は四角錐)という変り種。地輪(方形)が容器になっており、蓋を外すと、身の側面には四天王が線刻されている。会場ではちょっと見にくいが、図録で見ると、生き生きした表情がかわいい。
重源上人坐像の隣り、遠目によく分からなかったのは、善導大師坐像(奈良・来迎寺)だった。初見。左膝を立てて座り、大きく口を開けて念仏を唱える異相。快慶作とも言われる。重源は入宋時に四明(寧波)で浄土信仰の盛行を直に経験したはず、という。なるほど、そういうことか。
こんな調子で、文献(玉葉とか)は読んでいると面白いし、南都焼討シーンしか見たことのなかった『東大寺大仏縁起絵巻』は、珍しく他の箇所も開いているし、最初のホールで1時間以上もうろうろしていた。興福寺関係文書によれば、大仏建立後、大仏殿を造営するため、大仏の後山の土の撤去が必要となったとき、後白河法皇が東大寺に御幸して、自ら土を運び棄てた記録があると知って、胸の内で爆笑してしまった。本人は天然なんだろうけど、結果的に人のやらないパフォーマンスになってしまうあたり、ルーピー鳩山さんに似たところがあるかも。
東大寺の再興は、はじめ後白河法皇による「大仏」の再興、続いて頼朝による「大仏殿」の再興が行われた。あいにくの悪天候となった落慶法要の日、風雨をものともせず伺候する東国武士団が京の人々を驚かせたのは後者のほうだ。この時代の歴史は、よく頭に入っていないので、記憶の断片を確認しながら読み進む。
重源亡きあと、さらに堂宇の再建を継続するため、大勧進の職を引き継いだのが栄西、そして退耕行勇。それぞれ、鎌倉の寿福寺、浄妙寺に伝わる肖像彫刻(鎌倉国宝館でよく見る)と思わぬ再会。奈良と東国の縁って、意外と深いんだな、と思う。
それにしても、わずか一夜(?)で焼き払われた東大寺の復興に、このように長い歳月が費やされたことに、強い印象を受けた。さらに、ようやく復興した東大寺は、戦国時代に再び焼失し、またも復興の努力が重ねられる。南都、あるいは日本の真に誇るべき点は、「古いものが残っていること」ではなくて、天災や人災で古いものが失われかけても、そのたび「復興を重ねてきたこと」なのではないかと思った。