○原武史『皇后考』 講談社 2015.2
600頁を超える大作である。明治天皇の皇后美子(はるこ,昭憲皇太后)に始まり、大正天皇の皇后節子(さだこ,貞明皇后)、昭和天皇の皇后良子(ながこ,香淳皇后)が登場するが、中心となるのは皇后節子(1884-1951)である。私は、香淳皇后にはテレビや新聞で接した記憶があるし、昭憲皇太后の事蹟は「歴史」として聞きかじっていた。しかし貞明皇后には全く何の印象もなかったので、ちょっと意外な感じがした。そして「大正」から「昭和」へと気軽に言うけれど、昭和天皇が即位したあとも、天皇家においては、皇太后となった節子が一定の権威を有していたことを、初めて認識した。
本書によって、初めて知ったことはいろいろある。まず明治憲法が「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定めておきながら「万世一系」の中身は大正末期まで確定していなかったこと。いい加減だな~明治人。大友皇子(弘文天皇)をどうするか、淳仁天皇をどうするか、長慶天皇をどうするかなど、曖昧な「天皇」の扱いが定められ、その過程で、神功皇后は「皇代に列せざる」ものと決まった。しかし、政府がどう定めようとも、三韓征伐を成し遂げた神功皇后の伝説と信仰は広く普及しており、皇后節子は神功皇后との「一体化」を望んでいたフシがある。特に、後年、太平洋戦争の遂行において。
結婚当時、のちの大正天皇である皇太子嘉仁は新妻の節子よりも、梨本宮の婚約者・鍋島伊都子に惹かれていた。これも初めて聞いた、怪しからぬ話。節子が長男の裕仁よりも、弟の秩父宮雍仁に心を寄せていたというのは聞いたことがあるが、そのことを踏まえると、二・二六事件での裕仁の激しい怒りにも違った陰影が加わる。節子が満洲国皇帝の溥儀を可愛がり、満州国にアマテラスを祀る建国神廟を建てたこと(昭和天皇は反対だった)も同様。日本国が皇祖信仰を中国の人々に押し付け、その首謀者は昭和天皇であると考えていたけれど、違うんだなあ。もっと驚いたのは、溥儀と婉容の間に男子がなければ、日本の皇室から次代の皇帝を選ぶ計画があったという山田正芳の説(候補者は常陸宮正仁だという)。こういう、もしかしたらあり得た歴史を想像してみるのは、単純に面白い。
節子は、大正天皇の死後、皇祖神アマテラス、祖国に戦勝をもたらした神功皇后、慈悲の権化であった光明皇后などを崇めるという、独特の「信仰」のうちに生きた。その影響は、強大な「母」に捉われた昭和天皇を通じて、戦前の日本に濃い影(反近代理性的な)を落としているように見える。なお、折口信夫は、敗戦後、天皇が退位し、皇后節子が摂政となる可能性について考え、「琉球の宗教」「水の女」「女帝考」を書いたのではないかと著者は指摘する。これも驚いたことのひとつ。
本書は、折々の節子の心境を推測する材料として、彼女の残した大量の和歌を使っている。近代人の評伝もこんなふうに書けるということが新鮮で、かつて平安和歌文学になじんだ私には面白かった。
時々考えていたのは、橋本治が『双調平家物語』及び『院政の日本人』で描き出した院政期の皇室のこと。院政期は「治天の君」が絶対権力を握る体制で、皇后の存在感は小さかった。権力者の都合で「天皇の嫡妻」でない女性が皇后(宮)に立てられたりもした。本書は、古代の皇后と近代天皇制の皇后を直接につなげて論じている(それが近代日本の特徴である)けれど、中世の天皇制って、単にイレギュラーの時代なのかな。それから、皇后から女帝になった推古天皇や持統天皇というのは、節子の眼中には映らなかったんだろうか。気になる。
600頁を超える大作である。明治天皇の皇后美子(はるこ,昭憲皇太后)に始まり、大正天皇の皇后節子(さだこ,貞明皇后)、昭和天皇の皇后良子(ながこ,香淳皇后)が登場するが、中心となるのは皇后節子(1884-1951)である。私は、香淳皇后にはテレビや新聞で接した記憶があるし、昭憲皇太后の事蹟は「歴史」として聞きかじっていた。しかし貞明皇后には全く何の印象もなかったので、ちょっと意外な感じがした。そして「大正」から「昭和」へと気軽に言うけれど、昭和天皇が即位したあとも、天皇家においては、皇太后となった節子が一定の権威を有していたことを、初めて認識した。
本書によって、初めて知ったことはいろいろある。まず明治憲法が「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定めておきながら「万世一系」の中身は大正末期まで確定していなかったこと。いい加減だな~明治人。大友皇子(弘文天皇)をどうするか、淳仁天皇をどうするか、長慶天皇をどうするかなど、曖昧な「天皇」の扱いが定められ、その過程で、神功皇后は「皇代に列せざる」ものと決まった。しかし、政府がどう定めようとも、三韓征伐を成し遂げた神功皇后の伝説と信仰は広く普及しており、皇后節子は神功皇后との「一体化」を望んでいたフシがある。特に、後年、太平洋戦争の遂行において。
結婚当時、のちの大正天皇である皇太子嘉仁は新妻の節子よりも、梨本宮の婚約者・鍋島伊都子に惹かれていた。これも初めて聞いた、怪しからぬ話。節子が長男の裕仁よりも、弟の秩父宮雍仁に心を寄せていたというのは聞いたことがあるが、そのことを踏まえると、二・二六事件での裕仁の激しい怒りにも違った陰影が加わる。節子が満洲国皇帝の溥儀を可愛がり、満州国にアマテラスを祀る建国神廟を建てたこと(昭和天皇は反対だった)も同様。日本国が皇祖信仰を中国の人々に押し付け、その首謀者は昭和天皇であると考えていたけれど、違うんだなあ。もっと驚いたのは、溥儀と婉容の間に男子がなければ、日本の皇室から次代の皇帝を選ぶ計画があったという山田正芳の説(候補者は常陸宮正仁だという)。こういう、もしかしたらあり得た歴史を想像してみるのは、単純に面白い。
節子は、大正天皇の死後、皇祖神アマテラス、祖国に戦勝をもたらした神功皇后、慈悲の権化であった光明皇后などを崇めるという、独特の「信仰」のうちに生きた。その影響は、強大な「母」に捉われた昭和天皇を通じて、戦前の日本に濃い影(反近代理性的な)を落としているように見える。なお、折口信夫は、敗戦後、天皇が退位し、皇后節子が摂政となる可能性について考え、「琉球の宗教」「水の女」「女帝考」を書いたのではないかと著者は指摘する。これも驚いたことのひとつ。
本書は、折々の節子の心境を推測する材料として、彼女の残した大量の和歌を使っている。近代人の評伝もこんなふうに書けるということが新鮮で、かつて平安和歌文学になじんだ私には面白かった。
時々考えていたのは、橋本治が『双調平家物語』及び『院政の日本人』で描き出した院政期の皇室のこと。院政期は「治天の君」が絶対権力を握る体制で、皇后の存在感は小さかった。権力者の都合で「天皇の嫡妻」でない女性が皇后(宮)に立てられたりもした。本書は、古代の皇后と近代天皇制の皇后を直接につなげて論じている(それが近代日本の特徴である)けれど、中世の天皇制って、単にイレギュラーの時代なのかな。それから、皇后から女帝になった推古天皇や持統天皇というのは、節子の眼中には映らなかったんだろうか。気になる。