○今井駿『四川紀行:中国現代史家が接した中国市民』 而立書房 2014.12
著者は「中国現代史家」だというけれど、私の感覚では「近代史家」である。中国革命や抗日戦争の時代を研究対象にしている方らしい。本業の著作は全く読んだことがなかったし、お名前も知らなかった。ただ、四川紀行と聞いて、むしょうに懐かしい気がして、読んでみようと思った。
「あとがき」によれば、本書は、1989年の私費留学、1992~93年の長期滞在の記録をもとにしているそうだ。ずいぶん昔の話のようだが、そんなに時代錯誤感はない。中国の町は、突出して未来的な一面と、軽く一世紀くらいは停滞している風景がいつも同居している感じがする。冒頭は1989年4月の北京の妙応寺の白塔を訪ねた記から始まる。白塔寺か。たぶん私もフリータイムつきの北京ツアーで訪ねたことがあると思う。たまたま親切な住人に案内してもらったのに、次に訪ねてみると、「他死了」と冷たく突き放されて、世の無常と非情を感じてしまう。旅好きなら、誰でも一度くらい体験したことがあるような話だ。中国に限らずとも。
そのあとは、ほとんど四川省の話になる。地名を拾いながら、ここは行ったなあ、ここはどうだったかしら、と記憶をたどった。観光名所の楽山大仏や大足石窟の記憶は鮮明だ。塩の都・自貢も行った。天然ガスで走るバス。塩業博物館でもある西秦会館。懐かしいな。沙湾の王爺廟(関帝廟)も行ったような気がする。恐竜博物館も、たぶん。
栄県の白塔は行っただろうか。オーダーメイド旅行だったら外さないと思うのだが、四川旅行は確かツアーだったので、定かでない。著者が中国の建築物で何よりも好きなのは塔だと言い、塔を見ていると安らぐと述べている。同感だ。私は日本式の瓦屋根の木塔も好きだが、日本にはない、塼塔(煉瓦造の塔)も同じくらい好きだ。しかし、著者によれば「塔」という漢字が文献に現れるのは五胡十六国から南北朝の頃で、塔は中国古典文化の伝統にはないものだという。ううむ、そうか。塔は非力で寡欲であるため(実用性も薄く、人を圧倒する力もない)、却って数百年の歳月を生き残るのだ。
著者の中国語は、それほど達者ではないらしい。乗り物の切符を買ったり、食事を注文するくらいのことはできるが、面倒な交渉は不得手で、人々との交流にも積極的でない(社交性の問題?)。けれども、ひょんなことから、人懐っこい中国人(特に女性たち)に気に入られ、言葉を交わしたり、写真を撮ってあげたりもする。一方、中国人のマナーの悪さやいい加減さに苛立つ様子も描かれている。中国人以上に中国の歴史(近代史)に詳しいので、何も知らない地元の人々に驚き、呆れ、「字は読めない」という農民にハッとして、自分を反省したりもする。非常に普通の人の中国旅行記らしくて素直に読むことができた。
豊かな緑と水に恵まれた農村風景が印象的だった四川省。今は変わってしまったかな。また行きたい。
著者は「中国現代史家」だというけれど、私の感覚では「近代史家」である。中国革命や抗日戦争の時代を研究対象にしている方らしい。本業の著作は全く読んだことがなかったし、お名前も知らなかった。ただ、四川紀行と聞いて、むしょうに懐かしい気がして、読んでみようと思った。
「あとがき」によれば、本書は、1989年の私費留学、1992~93年の長期滞在の記録をもとにしているそうだ。ずいぶん昔の話のようだが、そんなに時代錯誤感はない。中国の町は、突出して未来的な一面と、軽く一世紀くらいは停滞している風景がいつも同居している感じがする。冒頭は1989年4月の北京の妙応寺の白塔を訪ねた記から始まる。白塔寺か。たぶん私もフリータイムつきの北京ツアーで訪ねたことがあると思う。たまたま親切な住人に案内してもらったのに、次に訪ねてみると、「他死了」と冷たく突き放されて、世の無常と非情を感じてしまう。旅好きなら、誰でも一度くらい体験したことがあるような話だ。中国に限らずとも。
そのあとは、ほとんど四川省の話になる。地名を拾いながら、ここは行ったなあ、ここはどうだったかしら、と記憶をたどった。観光名所の楽山大仏や大足石窟の記憶は鮮明だ。塩の都・自貢も行った。天然ガスで走るバス。塩業博物館でもある西秦会館。懐かしいな。沙湾の王爺廟(関帝廟)も行ったような気がする。恐竜博物館も、たぶん。
栄県の白塔は行っただろうか。オーダーメイド旅行だったら外さないと思うのだが、四川旅行は確かツアーだったので、定かでない。著者が中国の建築物で何よりも好きなのは塔だと言い、塔を見ていると安らぐと述べている。同感だ。私は日本式の瓦屋根の木塔も好きだが、日本にはない、塼塔(煉瓦造の塔)も同じくらい好きだ。しかし、著者によれば「塔」という漢字が文献に現れるのは五胡十六国から南北朝の頃で、塔は中国古典文化の伝統にはないものだという。ううむ、そうか。塔は非力で寡欲であるため(実用性も薄く、人を圧倒する力もない)、却って数百年の歳月を生き残るのだ。
著者の中国語は、それほど達者ではないらしい。乗り物の切符を買ったり、食事を注文するくらいのことはできるが、面倒な交渉は不得手で、人々との交流にも積極的でない(社交性の問題?)。けれども、ひょんなことから、人懐っこい中国人(特に女性たち)に気に入られ、言葉を交わしたり、写真を撮ってあげたりもする。一方、中国人のマナーの悪さやいい加減さに苛立つ様子も描かれている。中国人以上に中国の歴史(近代史)に詳しいので、何も知らない地元の人々に驚き、呆れ、「字は読めない」という農民にハッとして、自分を反省したりもする。非常に普通の人の中国旅行記らしくて素直に読むことができた。
豊かな緑と水に恵まれた農村風景が印象的だった四川省。今は変わってしまったかな。また行きたい。