○宮崎市定『中国史』(上・下)(岩波文庫) 岩波書店 2015.5-6
大好きな宮崎市定先生の中国通史。文庫本2冊で、殷代(紀元前17世紀頃~)から中華人民共和国の小平の復活までを一気に語ってしまう。けれども「概説」臭さが全くない。もとは岩波全書として1977-78年に刊行された。上巻のはじめに100頁ほどの「総論」が設けられていて、「歴史とは何か」という問題提起と「時代区分論」が示される。著者は「四区分法」を用い、古代(太古より漢代まで)、中世(三国より唐末五代まで)、近世(宋以後清朝の滅亡まで)、最近世(中華民国以降)について概略が示される。この総論だけで既に十分面白い。
そして本論に入るのだが、中国史といいながら、絶えず他の文明との比較が視野に入っている点が新鮮である。周の武王が「弟を○○国に封じた」という系図は、国と国の同盟関係が親戚関係に仮託されたものという記述のあとに、ギリシア都市国家の守護神である神々の系図も、同様に都市の同盟関係の推移を表しているとの解説がある。姓・氏・名の三パーツからなる中国の名前は、古代ローマに似ている。また士(貴族)と庶民の対立にも類似が多く、古代ローマの庶民は(中国の庶民と同様)姓を有せず氏と名のみを称し、戦士たる権利も義務も持たなかった。
中国と異文化、特に周辺の未開民族(遊牧的な異民族)との影響関係には、つねに注意が払われている。秦が強大化したのは、西アジアで生まれた騎馬戦術が中央アジアに伝わり、趙を経て、これを秦が取り入れたためと考えられる。時代が下って、後漢の光武帝が群雄を平定するには烏丸(うがん)民族の騎馬兵を用いた。魏の曹操も、漢に従った南単于の匈奴を支配し、軍隊に取り込んで使役した。武力だけではない。唐代の経済に大きな発展をもたらしたのは、ペルシア人とアラビア人の渡来であった。
個人的に一番面白かったのは「近世」の章。だいたい日本人は中国古代(中世)史ばかりに詳しくて、宋元明清史はよく知らないものだ、私も宋の天子の系譜をこれほど詳しく追ったのは初めてのような気がする。王安石の「新法」の中身もよく分かった。南宋時代には王安石は偏見独断に満ちたひねくれ者とされていたのが、近代に至って評価が高まり、逆に旧法党の政治家が貶められるようになったというのは興味深い。また、岳飛伝説の悪役・秦檜について、著者は金と宋の和睦を進めた功績を高く評価しているのが面白かった。
元についても詳しい。まず背景として、西夏が領内を通過する隊商に重税を課したため、西域の隊商は交通路を変えて、内モンゴルを通るようになり、そのことがモンゴル民族の勃興を促したという説明がある。モンゴルは中国の一部を支配した後、西征を企てるが、ヨーロッパの深部まで進撃できたのは、中国の鉄の生産力(石炭を用いる製鉄法)を手に入れ、武器の補給路を持っていたことが大きいという。歴史の推進力として経済力あるいは景気を重視するのは本書の特徴のひとつ。
元の行政は素朴で簡素だったかというと、逆にこれほど文書の往復が煩瑣だったときはない。元政府は科挙を実施せず、判断力のあるエリート官僚を育てなかった。「単に経験だけの実務家上りの胥吏は責任を負うことを恐れて決断を回避し、文書を濫発してひたすら上司の顔色を窺うに終始」したというのは、ものすごく面白い。あと、征服によって得た領土人民は君主の個人的な財産と考えられたこと、君主(大汗)は集議で決すべきもので、どんな君主も後継者を指名する権限を持たないなど、モンゴル由来の思想・習慣は、元を異色の王朝にしている。
明清は、宋(中国王朝)元(異民族王朝)の繰り返しと考えられる。しかし明は、直前の元からも影響を受けた。生命軽視の風潮はそのひとつで、明初には殉死が重んじられ、大臣の殺害が頻発した。宋の太祖は贓罪(盗品譲受)以外では決して士大夫を殺さないと誓ったそうだから、人間は文明が進むと酷薄になるのだろうか。明の政治は(太祖・朱元璋の個性を反映し)君主が全権を掌握する古代の専制に近い。中国近世の君主独裁は、官僚が練りに練った案を奏上し、天子は最後の裁可を下すだけというのが一般的である。また、明代には官吏生活に挫折した知識人が、一介の市民として文化の担い手になったが、この点も宋代とは異なる。
清以降は割愛するが、直近の時代に至るまで退屈な記述はひとつもない。「むすび」によれば、著者はなるべく既存の概説書や教科書を避け「私はなるべく自分の記憶だけに頼って、この書中に書きこむ題材を選んだ」という。「もし私の記憶から全く忘れ去ってしまったような事実ならば、それは忘れられるだけの価値しかない事実だ、と判断する自信が私にはある」とも。うわー。大学者とがこういうものか。また著者は、苦吟渋思しながら本を書くことを好まず、著者が楽しみながら書いたものでなければ、読者が面白いと思って読むはずはないという。確かに本書を読んでいると、著者のみずみずしい感興が読者に流れ込んでくるようで、深い幸福を感じる。
大好きな宮崎市定先生の中国通史。文庫本2冊で、殷代(紀元前17世紀頃~)から中華人民共和国の小平の復活までを一気に語ってしまう。けれども「概説」臭さが全くない。もとは岩波全書として1977-78年に刊行された。上巻のはじめに100頁ほどの「総論」が設けられていて、「歴史とは何か」という問題提起と「時代区分論」が示される。著者は「四区分法」を用い、古代(太古より漢代まで)、中世(三国より唐末五代まで)、近世(宋以後清朝の滅亡まで)、最近世(中華民国以降)について概略が示される。この総論だけで既に十分面白い。
そして本論に入るのだが、中国史といいながら、絶えず他の文明との比較が視野に入っている点が新鮮である。周の武王が「弟を○○国に封じた」という系図は、国と国の同盟関係が親戚関係に仮託されたものという記述のあとに、ギリシア都市国家の守護神である神々の系図も、同様に都市の同盟関係の推移を表しているとの解説がある。姓・氏・名の三パーツからなる中国の名前は、古代ローマに似ている。また士(貴族)と庶民の対立にも類似が多く、古代ローマの庶民は(中国の庶民と同様)姓を有せず氏と名のみを称し、戦士たる権利も義務も持たなかった。
中国と異文化、特に周辺の未開民族(遊牧的な異民族)との影響関係には、つねに注意が払われている。秦が強大化したのは、西アジアで生まれた騎馬戦術が中央アジアに伝わり、趙を経て、これを秦が取り入れたためと考えられる。時代が下って、後漢の光武帝が群雄を平定するには烏丸(うがん)民族の騎馬兵を用いた。魏の曹操も、漢に従った南単于の匈奴を支配し、軍隊に取り込んで使役した。武力だけではない。唐代の経済に大きな発展をもたらしたのは、ペルシア人とアラビア人の渡来であった。
個人的に一番面白かったのは「近世」の章。だいたい日本人は中国古代(中世)史ばかりに詳しくて、宋元明清史はよく知らないものだ、私も宋の天子の系譜をこれほど詳しく追ったのは初めてのような気がする。王安石の「新法」の中身もよく分かった。南宋時代には王安石は偏見独断に満ちたひねくれ者とされていたのが、近代に至って評価が高まり、逆に旧法党の政治家が貶められるようになったというのは興味深い。また、岳飛伝説の悪役・秦檜について、著者は金と宋の和睦を進めた功績を高く評価しているのが面白かった。
元についても詳しい。まず背景として、西夏が領内を通過する隊商に重税を課したため、西域の隊商は交通路を変えて、内モンゴルを通るようになり、そのことがモンゴル民族の勃興を促したという説明がある。モンゴルは中国の一部を支配した後、西征を企てるが、ヨーロッパの深部まで進撃できたのは、中国の鉄の生産力(石炭を用いる製鉄法)を手に入れ、武器の補給路を持っていたことが大きいという。歴史の推進力として経済力あるいは景気を重視するのは本書の特徴のひとつ。
元の行政は素朴で簡素だったかというと、逆にこれほど文書の往復が煩瑣だったときはない。元政府は科挙を実施せず、判断力のあるエリート官僚を育てなかった。「単に経験だけの実務家上りの胥吏は責任を負うことを恐れて決断を回避し、文書を濫発してひたすら上司の顔色を窺うに終始」したというのは、ものすごく面白い。あと、征服によって得た領土人民は君主の個人的な財産と考えられたこと、君主(大汗)は集議で決すべきもので、どんな君主も後継者を指名する権限を持たないなど、モンゴル由来の思想・習慣は、元を異色の王朝にしている。
明清は、宋(中国王朝)元(異民族王朝)の繰り返しと考えられる。しかし明は、直前の元からも影響を受けた。生命軽視の風潮はそのひとつで、明初には殉死が重んじられ、大臣の殺害が頻発した。宋の太祖は贓罪(盗品譲受)以外では決して士大夫を殺さないと誓ったそうだから、人間は文明が進むと酷薄になるのだろうか。明の政治は(太祖・朱元璋の個性を反映し)君主が全権を掌握する古代の専制に近い。中国近世の君主独裁は、官僚が練りに練った案を奏上し、天子は最後の裁可を下すだけというのが一般的である。また、明代には官吏生活に挫折した知識人が、一介の市民として文化の担い手になったが、この点も宋代とは異なる。
清以降は割愛するが、直近の時代に至るまで退屈な記述はひとつもない。「むすび」によれば、著者はなるべく既存の概説書や教科書を避け「私はなるべく自分の記憶だけに頼って、この書中に書きこむ題材を選んだ」という。「もし私の記憶から全く忘れ去ってしまったような事実ならば、それは忘れられるだけの価値しかない事実だ、と判断する自信が私にはある」とも。うわー。大学者とがこういうものか。また著者は、苦吟渋思しながら本を書くことを好まず、著者が楽しみながら書いたものでなければ、読者が面白いと思って読むはずはないという。確かに本書を読んでいると、著者のみずみずしい感興が読者に流れ込んでくるようで、深い幸福を感じる。