○岡田温司『天使とは何か:キューピッド、キリスト、悪魔』(中公新書) 中央公論新社 2016.3
岡田温司さんの西洋美術講義が大好きなので、著者の名前を見ると迷わず購入してしまう。特にこの中公新書のキリスト教美術の図像学シリーズ(と勝手に思っている)は大好きなので、新たな1冊が加わったことは本当に嬉しい。本書の主題は「天使」であるが、巷に流布する天使の画集や解説書とは「少し趣きを異にする」と著者は述べている。本書の狙いは「隠れた天使や異端的とされてきた天使を現代に救い出す試み」だというのだ。
まず、よく混同される「天使とキューピッド」から。天使(エンジェル)はユダヤ教やキリスト教における神の使者のことで、キューピッドは異教の愛の神のことというのが無難な答えであるが、実は歴史的に見てもイメージは錯綜している。天使が神の愛の矢で聖人を貫こうとしている図像があったり。ルネサンスの美術では、天使とは別の「有翼の童子」が頻繁に登場する。彼らは「プット―(裸童)」とか「スピリテッロ(小精霊)」と呼ばれ、古代の異教美術に起源を持つと考えられている。風や雲、火や光などの自然現象、ストイケイア(四大元素)、プシュケー(魂)あるいはプネウマ(霊)、ゲニウス(守護霊)あるいはダイモンなど、さまざまな信仰が、天使のイメージと交錯していることが示される。
次に「天使とキリスト」の章によれば、かつてイエス・キリストは天使(のようなもの)と見做されていたことがあるそうだ。まあ父なる神から人の世に遣わされたわけだから、説明を聞けば、納得できないでもない。興味深いのは、大天使ミカエルとキリストの関係。キリスト教美術の「最後の審判」の図像では、主役の裁き手は再臨したキリストであり、ミカエルはその下でキリストを手伝っているに過ぎない。しかし旧約聖書では、裁きの主役は大天使ミカエル本人であるという。おお、そうだったのか。キリストとミカエルが同一視されているとまでは言えないが、両者は類似した性格を持つ。エルサレムを起点に聖ミカエルゆかりの地をつないでいくと、西北西に一直線の「聖ミカエル-アポロン・ライン」が現れるというのも初めて知った。西洋にもこういう、科学とも偽科学ともつかない考え方があるのだな。
「天使と聖人」(むしろ「天使と音楽」と呼ぶべき)で閑話休題。続いて「天使と悪魔」を考える。ここは、とりわけ興味深い美術作品がたくさん収録されている。16世紀前半の画家ロレンツォ・ロットの『ルシフェルを退治する悪魔』は空中で、悪魔ルシフェルを叩き落す大天使(ミカエル?)の図であるが、二人はまるで双子の兄弟のように瓜二つに描かれている。ルシフェルは、もと「光をもたらすもの=明けの明星=ルキフェル」から来た。悪魔(サタン)とルシフェルは同じものとみなされ、「悪魔はかつて光であった」と解された。深いなあ、この哲学。悪魔に憑かれた人間の典型は裏切り者のユダである。しかし、初期キリスト教には、ユダこそイエスに最も愛された弟子で、イエスの肉体を犠牲にすることで、イエスの霊魂を完全にした、という解釈もあったことが、近年(1970年代)発見されて読み直されている。歴史学って、文献学ってすごい。
最終章「天使と近代人」は、モローやルドン、そしてクレーの描いた天使を取り上げ、映画『ベルリン・天使の詩』にも多くの頁を割いている。美術ではないが、ボードレールやリルケの詩編に現れる天使についても。天使とは、さまざまな宗教や神話の間のみならず、正統と異端の間の線引きすらも、その翼で軽々と飛び越えていく、というむすびのことばが胸に沁みた。私は、たまたまプロテスタント系の学校に通っていたので、新約聖書には親しんだが、旧約はあまり読んでいない。一度、文学ないし文献として読んでおきたいと思う。それと、昔から思ってきたのだが、聖書の外伝も読んでおきたいなあ。
岡田温司さんの西洋美術講義が大好きなので、著者の名前を見ると迷わず購入してしまう。特にこの中公新書のキリスト教美術の図像学シリーズ(と勝手に思っている)は大好きなので、新たな1冊が加わったことは本当に嬉しい。本書の主題は「天使」であるが、巷に流布する天使の画集や解説書とは「少し趣きを異にする」と著者は述べている。本書の狙いは「隠れた天使や異端的とされてきた天使を現代に救い出す試み」だというのだ。
まず、よく混同される「天使とキューピッド」から。天使(エンジェル)はユダヤ教やキリスト教における神の使者のことで、キューピッドは異教の愛の神のことというのが無難な答えであるが、実は歴史的に見てもイメージは錯綜している。天使が神の愛の矢で聖人を貫こうとしている図像があったり。ルネサンスの美術では、天使とは別の「有翼の童子」が頻繁に登場する。彼らは「プット―(裸童)」とか「スピリテッロ(小精霊)」と呼ばれ、古代の異教美術に起源を持つと考えられている。風や雲、火や光などの自然現象、ストイケイア(四大元素)、プシュケー(魂)あるいはプネウマ(霊)、ゲニウス(守護霊)あるいはダイモンなど、さまざまな信仰が、天使のイメージと交錯していることが示される。
次に「天使とキリスト」の章によれば、かつてイエス・キリストは天使(のようなもの)と見做されていたことがあるそうだ。まあ父なる神から人の世に遣わされたわけだから、説明を聞けば、納得できないでもない。興味深いのは、大天使ミカエルとキリストの関係。キリスト教美術の「最後の審判」の図像では、主役の裁き手は再臨したキリストであり、ミカエルはその下でキリストを手伝っているに過ぎない。しかし旧約聖書では、裁きの主役は大天使ミカエル本人であるという。おお、そうだったのか。キリストとミカエルが同一視されているとまでは言えないが、両者は類似した性格を持つ。エルサレムを起点に聖ミカエルゆかりの地をつないでいくと、西北西に一直線の「聖ミカエル-アポロン・ライン」が現れるというのも初めて知った。西洋にもこういう、科学とも偽科学ともつかない考え方があるのだな。
「天使と聖人」(むしろ「天使と音楽」と呼ぶべき)で閑話休題。続いて「天使と悪魔」を考える。ここは、とりわけ興味深い美術作品がたくさん収録されている。16世紀前半の画家ロレンツォ・ロットの『ルシフェルを退治する悪魔』は空中で、悪魔ルシフェルを叩き落す大天使(ミカエル?)の図であるが、二人はまるで双子の兄弟のように瓜二つに描かれている。ルシフェルは、もと「光をもたらすもの=明けの明星=ルキフェル」から来た。悪魔(サタン)とルシフェルは同じものとみなされ、「悪魔はかつて光であった」と解された。深いなあ、この哲学。悪魔に憑かれた人間の典型は裏切り者のユダである。しかし、初期キリスト教には、ユダこそイエスに最も愛された弟子で、イエスの肉体を犠牲にすることで、イエスの霊魂を完全にした、という解釈もあったことが、近年(1970年代)発見されて読み直されている。歴史学って、文献学ってすごい。
最終章「天使と近代人」は、モローやルドン、そしてクレーの描いた天使を取り上げ、映画『ベルリン・天使の詩』にも多くの頁を割いている。美術ではないが、ボードレールやリルケの詩編に現れる天使についても。天使とは、さまざまな宗教や神話の間のみならず、正統と異端の間の線引きすらも、その翼で軽々と飛び越えていく、というむすびのことばが胸に沁みた。私は、たまたまプロテスタント系の学校に通っていたので、新約聖書には親しんだが、旧約はあまり読んでいない。一度、文学ないし文献として読んでおきたいと思う。それと、昔から思ってきたのだが、聖書の外伝も読んでおきたいなあ。