○塩見鮮一郎『中世の貧民:説経師と廻国芸人』(文春新書) 文藝春秋 2012.11
ずいぶん前に読んだ著者の『貧民の帝都』(文春新書、2008)は、初めて聞く話ばかりでとても面白かった。そのあと、もう1冊『解放令の明治維新』も読んだ。これらは、基本的に史料に即して歴史を語る体裁を取っていたと思う。ところが、本書の主題は説教節の『小栗判官(をぐり)』で、数ある語りもの文芸の中でも、とりわけ奔放な文学的想像力が発揮された作品である。本書は『をぐり』の物語の進行に従いつつ、時には他の説教節『しんとく丸』『さんせう太夫』の世界にも深入りし、一編上人の足跡にも思いを馳せ、中世の日本各地を旅していく。蛇足ながら、本書の著者紹介を見て、著者が大学等の所属ではなく、出版社の編集部勤務を経て「作家」になられた方だいうことを初めて認識した。
本書は、痩せさらばえた体を土車に乗せ、小田原の宿に向かう小栗の姿の描写から始まる。さきに「物語の進行に従い」と書いたけれど、ここは恐らく倒叙法が用いられていて、京の二条の大納言の家に、鞍馬の毘沙門天の申し子として生まれながら、成長すると「心不調な者」となって常陸の国に勘当され、武蔵の横山屋敷で毒を盛られて、餓鬼のような姿になってしまう。著者は物語の発端を語りなおしながら、説教節『をぐり』の生成過程を考え、京を舞台にした公家の嫡男の堕落と救済の物語と、関東を舞台にした野蛮で野卑な武将の運命が、接ぎ木されたのではないかと推測する。
茨城県筑西市には小栗一族が実在した。15世紀、東国の大乱に巻き込まれて城落ちした悲劇の父子、小栗満重・助重が「をぐり」のモデルとも考えられている。筑西市の小栗城址も機会があったら行ってみたいが、それより、をぐりが毒を盛られた横山屋敷址が、東京都八王子市に横山神社として残っているというのに驚いた。全く絵空事だと思っていたので。
をぐりの土車は東海道を下って、青墓の宿に至る。ここに横山党の娘・照手姫が水仕となって働いていた。ここであらためて、関東での二人のなれそめが語られる。この横山屋敷の段が私は大好きなのである。と言っても、説教節の本文を把握しているわけではないが、岩佐又兵衛作と伝える『小栗判官絵巻』の画面が目に浮かぶのだ。をぐりが人食い馬の巨大な鬼鹿毛を乗りこなすところ、毒を盛られて地獄に落ち、閻魔大王によって蘇生させられるところなど、とにかくドラマチックだ。著者がこの一段の改変(創作)について「ひとりの天才的な劇作家の介入」を想像している、と語るのには共感できる。
そして照手姫が牢輿に閉じ込められて相模川に沈められ、観音の慈悲で流れ着いた「ゆきとせが浦」が、横浜市金沢区六浦だというのにも驚く。むかし住んでいた逗子の近所ではないか。「説経師がフィクションの地名を語ることはない」というさりげない著者の断定に、なるほどと思う。現代人が荒唐無稽に感じる物語でも、当時の人々は、実在の土地で実際に起きたことして聞いていたわけだ。その後、照手姫が転々と売られていく地名は、日本海側の港から京都へ至る物資の運搬ルートであり、人身売買のルートでもあった。また説経語りが往来した道であったとも考えられる。
再生の地・熊野を目指すをぐりの土車は京の都を通過していくが、著者は少し立ち止まり、逢坂の関と蝉丸神社、清水坂、五条、六道珍皇寺など、や癩者、葬送にかかわった土地について語る。五条の橋(いまの松原橋)の東の橋詰めには、癩者を収容した長棟堂(ながむねどう)四棟があったという。五条通り(現在の松原通り)は京都のについて語るときのキーワードであるという。癩者たちが「ものよし、ものよし」と言祝いだとか、犬神人()たちが弓と弦を製造販売し、「つるめそ」と売り歩いたとか、生き生きした描写が面白い。こういう光景は、洛中洛外図屏風などには描かれないのだろうか。気になる。
をぐりは大阪(難波)の四天王寺(ここも気になる寺院)を経て、熊野で再生を果たし、照手姫とも再会する。熊野にも行ったことはあるが、中世の熊野本宮は熊野川の白砂の中州にあって、「水に浮く浄土の幻影」のようだった、という記述にハッとした。もしかすると、海中に建つ安芸の厳島神社はここを模倣したのではないか、というのだ。たびたび熊野に詣でた清盛ならあり得る。
一般に説経節とは、仏教の教説を分かりやすく語るものと説明されているが、庶民の多くは、救済よりも物語の慰謝、解脱よりも俗世間でも安逸を求めたのではないか、と著者はいう。「宗教関係者が説くほどには、あるいは歴史学者が記すほどには、仏教は下層の人びとの心をとらえてはいなかったのではないか」というのは、繰り返し考えてみたい問いかけである。
![](http://ecx.images-amazon.com/images/I/41EVn6NzvjL._SL160_.jpg)
本書は、痩せさらばえた体を土車に乗せ、小田原の宿に向かう小栗の姿の描写から始まる。さきに「物語の進行に従い」と書いたけれど、ここは恐らく倒叙法が用いられていて、京の二条の大納言の家に、鞍馬の毘沙門天の申し子として生まれながら、成長すると「心不調な者」となって常陸の国に勘当され、武蔵の横山屋敷で毒を盛られて、餓鬼のような姿になってしまう。著者は物語の発端を語りなおしながら、説教節『をぐり』の生成過程を考え、京を舞台にした公家の嫡男の堕落と救済の物語と、関東を舞台にした野蛮で野卑な武将の運命が、接ぎ木されたのではないかと推測する。
茨城県筑西市には小栗一族が実在した。15世紀、東国の大乱に巻き込まれて城落ちした悲劇の父子、小栗満重・助重が「をぐり」のモデルとも考えられている。筑西市の小栗城址も機会があったら行ってみたいが、それより、をぐりが毒を盛られた横山屋敷址が、東京都八王子市に横山神社として残っているというのに驚いた。全く絵空事だと思っていたので。
をぐりの土車は東海道を下って、青墓の宿に至る。ここに横山党の娘・照手姫が水仕となって働いていた。ここであらためて、関東での二人のなれそめが語られる。この横山屋敷の段が私は大好きなのである。と言っても、説教節の本文を把握しているわけではないが、岩佐又兵衛作と伝える『小栗判官絵巻』の画面が目に浮かぶのだ。をぐりが人食い馬の巨大な鬼鹿毛を乗りこなすところ、毒を盛られて地獄に落ち、閻魔大王によって蘇生させられるところなど、とにかくドラマチックだ。著者がこの一段の改変(創作)について「ひとりの天才的な劇作家の介入」を想像している、と語るのには共感できる。
そして照手姫が牢輿に閉じ込められて相模川に沈められ、観音の慈悲で流れ着いた「ゆきとせが浦」が、横浜市金沢区六浦だというのにも驚く。むかし住んでいた逗子の近所ではないか。「説経師がフィクションの地名を語ることはない」というさりげない著者の断定に、なるほどと思う。現代人が荒唐無稽に感じる物語でも、当時の人々は、実在の土地で実際に起きたことして聞いていたわけだ。その後、照手姫が転々と売られていく地名は、日本海側の港から京都へ至る物資の運搬ルートであり、人身売買のルートでもあった。また説経語りが往来した道であったとも考えられる。
再生の地・熊野を目指すをぐりの土車は京の都を通過していくが、著者は少し立ち止まり、逢坂の関と蝉丸神社、清水坂、五条、六道珍皇寺など、や癩者、葬送にかかわった土地について語る。五条の橋(いまの松原橋)の東の橋詰めには、癩者を収容した長棟堂(ながむねどう)四棟があったという。五条通り(現在の松原通り)は京都のについて語るときのキーワードであるという。癩者たちが「ものよし、ものよし」と言祝いだとか、犬神人()たちが弓と弦を製造販売し、「つるめそ」と売り歩いたとか、生き生きした描写が面白い。こういう光景は、洛中洛外図屏風などには描かれないのだろうか。気になる。
をぐりは大阪(難波)の四天王寺(ここも気になる寺院)を経て、熊野で再生を果たし、照手姫とも再会する。熊野にも行ったことはあるが、中世の熊野本宮は熊野川の白砂の中州にあって、「水に浮く浄土の幻影」のようだった、という記述にハッとした。もしかすると、海中に建つ安芸の厳島神社はここを模倣したのではないか、というのだ。たびたび熊野に詣でた清盛ならあり得る。
一般に説経節とは、仏教の教説を分かりやすく語るものと説明されているが、庶民の多くは、救済よりも物語の慰謝、解脱よりも俗世間でも安逸を求めたのではないか、と著者はいう。「宗教関係者が説くほどには、あるいは歴史学者が記すほどには、仏教は下層の人びとの心をとらえてはいなかったのではないか」というのは、繰り返し考えてみたい問いかけである。