○出光美術館 開館50周年記念展『美の祝典I-やまと絵の四季』(2016年4月9日~5月8日)
2016年、開館50周年を迎える出光美術館が、館蔵コレクションから屈指の優品を厳選して三部構成により一挙大公開。第1部のテーマは「やまと絵」である。個人的には、大好きな『伴大納言絵巻』公開のニュースで頭がいっぱいで、ほかにどんな作品が出るかは全くチェックしていなかった。
日曜日は(東京都美術館の若冲展のあと)出光美術館に寄るつもりで家を出た。電車の中で読みかけの『歴史のなかの大地動乱』(保立道久、岩波新書)を開けたら、すぐさま「伴善男と応天門事件」の文字が目に飛び込んできて、びっくりした。大地動乱の時代背景と、応天門事件をめぐる伴善男、藤原良相、藤原良房、源信らの関係を、思わぬところでしっかり復習させてもらった。
会場の順路に従うと、はじめに『日月四季花鳥図屏風』。右隻と左隻が90度直角になるように、狭いコーナーに飾られていた。画面がとても濃密なので、右隻と左隻を単独で鑑賞できるこの展示方法は意外といい。右隻には桜と柳、その下に雉の雄雌。左端の草花は常夏か? 左隻には紅葉、菊、松、つがいの鹿。U字になった二本の松の幹のかたちが好き。いま検索して、平成27年度の新指定文化財(重文)だったことを思い出した。
私の好きな『宇治橋柴舟図屏風』は、逆巻く急流の表現がいかにも宇治川らしい。『吉野龍田図屏風』は根津美術館の同名の屏風を思い出しながら見る。同じくらいデコラティブだけど、こっちのほうが、やや整った印象。白い桜花で埋まった右隻の前には着飾った美女を立たせてみたい。紅葉の濃淡を描き分けた左隻の前には黒衣の茶人が似合いそうだ。『四季花木屏風』は、左右の落款が真ん中にくるように並べてあった。右隻には桜でなく梅、左隻の紅葉はモミジではなくカエデの葉のかたちをしている。ほかに佐竹本三十六歌仙絵の「柿本人麻呂」と「僧正遍照」も。「遍照」は久しぶりに見る気がした。2010年にも同じ感想を書いている。
第2室は『伴大納言絵巻』の特別展示。ただし作品は仕切り壁の向こうに隠れていて、はじめに『橘直幹申文絵巻』(これにも火事の描写がある)などの関連作品を見て、徐々に頭を平安朝モードにもっていく。原品のまわりは意外なくらい人がいなくて拍子抜けした。何度でも自由に行ったり来たりできるくらい。10年前はもう少し並んだ気がする。
冒頭の群衆の描写は、何度見てもわくわくする。馬に乗っているのは検非違使の役人たちだろうか。赤い縁の黒い身頃の簡素な鎧を着ている。兜はかぶらず、烏帽子姿。人々の衣装は色も模様も本当にさまざまだ。応天門の手前の朱雀門には、火の粉が飛んで引火しようとしている。その横に小さな雀が飛んでいる。多くの見物人が扇を手に持っていて、私は「扇の骨の隙間から見る」動作には呪術的な意味があるという説を知ったあとで、この絵巻を見たのだけど、いま見直すと、単に火の粉と熱風を避けているんじゃないかと思えてきた。群衆の表情は本当にさまざまで、特に応天門の北(廟堂に近いほう)の会昌門付近では、喧嘩しているっぽい人、失神しそうな人、そろそろとその場を去ろうとしている怪しげな人物も見受けられる。
良房の奏上を寝所で聞く清和天皇。相次ぐ地震、噴火、飢饉と疫病に悩まされていたところにこの大事件である。平安時代って、全然「平安」ではなかったのだ。そして、青年天皇らしく果断な措置をとった結果、後半生をずっと伴善男の強力な怨霊に祟られることになるとは、このときの清和天皇は知るよしもなかっただろう。そう思って画面を眺めると感慨深い。そして、絵巻の制作にかかわった後白河法皇は、当然、怨霊となった伴善男の怖さ(怨みの深さ)を知っていて、鑑賞しているのだろうな。
これで見るべきものは見つ、と思っていたら、後半に『真言八祖行状図』(鎌倉時代)八幅対の展示があって驚いた。どれも広々した風景に、小さな人物が描かれている。もと内山永久寺真言堂の障子絵で、龍猛、龍智、金剛智、不空の四幅は西側にあって秋の風景を表し、善無畏、一行、恵果、空海の四幅は東側にあって春の風景を表していた。なるほど前者には紅葉、後者には花の咲いた木々が描かれている。八年かけた修復を終えての展示だというが、私は初めて見る気がする。金剛智の画幅の海原の表現が面白く、描かれた船が『吉備大臣入唐絵巻』の船によく似ていた。不空は暴れ象を倒し、恵果は皇帝の前に大自在天を現前させたとか、物語性が豊かで面白い。
同館は、意外と仏画も持っているのだな。あまり認識していなかった。『絵因果経』は怪物の集団が釈迦(?)を取り囲んでいる場面で、雷神らしきものもいた。最後は琳派の作品で華やかなエンディング。堪能した。第2部、第3部もこの程度の人の入りでありますように。
※五味文彦『絵巻で読む中世』(ちくま学芸文庫) 筑摩書房新社 2005.8
『伴大納言絵巻』は伴善男の御霊の鎮魂を目的として作成されたものとする。
2016年、開館50周年を迎える出光美術館が、館蔵コレクションから屈指の優品を厳選して三部構成により一挙大公開。第1部のテーマは「やまと絵」である。個人的には、大好きな『伴大納言絵巻』公開のニュースで頭がいっぱいで、ほかにどんな作品が出るかは全くチェックしていなかった。
日曜日は(東京都美術館の若冲展のあと)出光美術館に寄るつもりで家を出た。電車の中で読みかけの『歴史のなかの大地動乱』(保立道久、岩波新書)を開けたら、すぐさま「伴善男と応天門事件」の文字が目に飛び込んできて、びっくりした。大地動乱の時代背景と、応天門事件をめぐる伴善男、藤原良相、藤原良房、源信らの関係を、思わぬところでしっかり復習させてもらった。
会場の順路に従うと、はじめに『日月四季花鳥図屏風』。右隻と左隻が90度直角になるように、狭いコーナーに飾られていた。画面がとても濃密なので、右隻と左隻を単独で鑑賞できるこの展示方法は意外といい。右隻には桜と柳、その下に雉の雄雌。左端の草花は常夏か? 左隻には紅葉、菊、松、つがいの鹿。U字になった二本の松の幹のかたちが好き。いま検索して、平成27年度の新指定文化財(重文)だったことを思い出した。
私の好きな『宇治橋柴舟図屏風』は、逆巻く急流の表現がいかにも宇治川らしい。『吉野龍田図屏風』は根津美術館の同名の屏風を思い出しながら見る。同じくらいデコラティブだけど、こっちのほうが、やや整った印象。白い桜花で埋まった右隻の前には着飾った美女を立たせてみたい。紅葉の濃淡を描き分けた左隻の前には黒衣の茶人が似合いそうだ。『四季花木屏風』は、左右の落款が真ん中にくるように並べてあった。右隻には桜でなく梅、左隻の紅葉はモミジではなくカエデの葉のかたちをしている。ほかに佐竹本三十六歌仙絵の「柿本人麻呂」と「僧正遍照」も。「遍照」は久しぶりに見る気がした。2010年にも同じ感想を書いている。
第2室は『伴大納言絵巻』の特別展示。ただし作品は仕切り壁の向こうに隠れていて、はじめに『橘直幹申文絵巻』(これにも火事の描写がある)などの関連作品を見て、徐々に頭を平安朝モードにもっていく。原品のまわりは意外なくらい人がいなくて拍子抜けした。何度でも自由に行ったり来たりできるくらい。10年前はもう少し並んだ気がする。
冒頭の群衆の描写は、何度見てもわくわくする。馬に乗っているのは検非違使の役人たちだろうか。赤い縁の黒い身頃の簡素な鎧を着ている。兜はかぶらず、烏帽子姿。人々の衣装は色も模様も本当にさまざまだ。応天門の手前の朱雀門には、火の粉が飛んで引火しようとしている。その横に小さな雀が飛んでいる。多くの見物人が扇を手に持っていて、私は「扇の骨の隙間から見る」動作には呪術的な意味があるという説を知ったあとで、この絵巻を見たのだけど、いま見直すと、単に火の粉と熱風を避けているんじゃないかと思えてきた。群衆の表情は本当にさまざまで、特に応天門の北(廟堂に近いほう)の会昌門付近では、喧嘩しているっぽい人、失神しそうな人、そろそろとその場を去ろうとしている怪しげな人物も見受けられる。
良房の奏上を寝所で聞く清和天皇。相次ぐ地震、噴火、飢饉と疫病に悩まされていたところにこの大事件である。平安時代って、全然「平安」ではなかったのだ。そして、青年天皇らしく果断な措置をとった結果、後半生をずっと伴善男の強力な怨霊に祟られることになるとは、このときの清和天皇は知るよしもなかっただろう。そう思って画面を眺めると感慨深い。そして、絵巻の制作にかかわった後白河法皇は、当然、怨霊となった伴善男の怖さ(怨みの深さ)を知っていて、鑑賞しているのだろうな。
これで見るべきものは見つ、と思っていたら、後半に『真言八祖行状図』(鎌倉時代)八幅対の展示があって驚いた。どれも広々した風景に、小さな人物が描かれている。もと内山永久寺真言堂の障子絵で、龍猛、龍智、金剛智、不空の四幅は西側にあって秋の風景を表し、善無畏、一行、恵果、空海の四幅は東側にあって春の風景を表していた。なるほど前者には紅葉、後者には花の咲いた木々が描かれている。八年かけた修復を終えての展示だというが、私は初めて見る気がする。金剛智の画幅の海原の表現が面白く、描かれた船が『吉備大臣入唐絵巻』の船によく似ていた。不空は暴れ象を倒し、恵果は皇帝の前に大自在天を現前させたとか、物語性が豊かで面白い。
同館は、意外と仏画も持っているのだな。あまり認識していなかった。『絵因果経』は怪物の集団が釈迦(?)を取り囲んでいる場面で、雷神らしきものもいた。最後は琳派の作品で華やかなエンディング。堪能した。第2部、第3部もこの程度の人の入りでありますように。
※五味文彦『絵巻で読む中世』(ちくま学芸文庫) 筑摩書房新社 2005.8
『伴大納言絵巻』は伴善男の御霊の鎮魂を目的として作成されたものとする。