見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

中国のアンダーグラウンド/「暗黒・中国」からの脱出(顔伯鈞、安田峰俊)

2016-07-25 21:03:33 | 読んだもの(書籍)
○顔伯鈞;安田峰俊編訳『「暗黒・中国」からの脱出:逃亡・逮捕・拷問・脱獄』(文春新書) 文藝春秋 2016.6

 中国の民主化運動にかかわったある男性の逃亡手記。ルポライターの安田峰俊氏は、バンコクで取材した亡命中国人から「俺の友達」を紹介される。これが顔伯鈞氏。当局の追及を避けて、2年間にわたり中国各地で逃亡・潜伏を続け、9日前にバンコクにたどりついたところだった。顔氏は発表のあてもないまま、30万字に及ぶ手記を書き溜めていた。この手記の一部を日本の読者向けに編訳したものが本書である。

 顔氏は、もともと中国共産党の中央党校で学んだ体制内エリートの卵だったが、行政の現場に失望し、大学教員に転出。人権活動家の許志永が主催する「公盟」に加わり、新公民運動(弱者救済をめざす穏健な社会化改革運動)に参加してきた。しかし、2013年3月に発足した習近平政権は、公盟に対する弾圧を開始し、主力メンバーは次々に拘束されていく。2013年4月、顔氏は妻と息子を北京に残し、しばらく身を潜めることを決意する。バスで天津に到着した後、自宅の妻に連絡すると、以前から顔氏を監視していた楊という国保局(国内安全保衛局)の役人が十数人で乗り込んできたことを知らされる。

 盗聴されている恐れのある携帯電話を捨て、ネットカフェやサウナを利用し、公盟の支援者をたよりながら、長い逃亡生活が始まる。天津から済南、太原、邯鄲、覇州。済南では郊外の村で回族(ムスリム)の馬おじにかくまわれ、太原ではインテリアデザイナーの蕭ちゃんのもとに身を寄せて仕事を手伝う。6月に一度、北京に戻るが、国保局に監視されている自宅に近づくことはできなかった。再び北京を離れ、ひたすら南下。鄭州、武漢を経て、湖南省ミャオ族自治州の吉首では蟲術の儀式に遭遇する。峻険な山岳地帯をバスで抜けて雲南省へ。曲靖では、期待していた支援者がただのオポチュニストで(リアルだなあ)失望を味わい、シーサンパンナ・タイ族自治州の景洪へ向かうことにする。ここまでの地名には、けっこう私が行ったことのある都市も多くて、ちょっと旅情を感じながら読んだ。

 シーサンパンナはラオス、ミャンマーと国境を接する中国南部の辺境である。顔氏は、ミャンマー領内にシャン州第四特区という紅衛兵の残党の地方政権(!)があり、景洪で志願兵のリクルートを手伝っている人物の連絡先を控えていたことを思い出す。連絡してみると(初対面にもかかわらず)事情を察して、力を貸してくれることになった。武侠ドラマなら大侠客、江湖の好漢というところだろう。顔氏は、彼の紹介で国境を越え、軍閥の老将軍に引き合わせてもらったりする。しかし、ミャンマー東北部に、こんな不思議な地域があるとは、初めて知った。

 2013年7月、顔氏は景洪から昆明を経て深圳(セン)へ。夜間に小さな漁船で香港に潜入するが、期待した支援は得られず、広州へ逃れる。10月、昆明、大理を経てチベット自治区に向かう。崖っぷちの隘路をバスで進み、最後は徒歩。しかし、インド入国はあきらめ、2014年1月末、チベット族とともに冬山を下り、雲南省に戻った。北京に戻り、息子と再会したところを、ついに逮捕される。拷問すれすれの尋問の末、拘置所に拘留され、囚人に対する非人間的な扱いと、囚人との人間的な交流を体験する。このとき、日本でもよく知られた人権派の弁護士・浦志強氏が隣りの房にいたらしく、時折、看守が名前を呼ぶ声を耳にしたという。

 2014年7月、釈放。しかし、香港の雨傘運動への支持を理由に仲間が拘束されると、危険を感じた顔氏は、昆明から飛行機でタイに出国を試みる。空港で逮捕。故郷の長沙に護送されてホテルに軟禁される。見張りの隙をついて窓から脱出し、昔の同級生のもとに転がり込み、岳陽、武漢、太原を経て北京に戻る。しかし妻子に会うことはかなわず、再びタイ亡命の意思を固める。いわく「すべては黄粱一炊の夢」か。中国には、どんな時代にもぴったりの故事成語があるものだ。

 2015年1月、雲南省の景洪から陸路で、仲間たちとともにミャンマーへ密入国。ラオスを経て、メコン河を渡り、タイに入国する。どこかで命を落としていてもおかしくないような、危機の連続。中国の民主化がどうとか、体制の民衆弾圧がこうとか言う前に、ハードボイルド・スパイ小説を読むような面白さがある。

 本書の編著者は顔伯鈞の物語を「『水滸伝』や『三国史演義』を想起させるほどの」と形容している。確かに、習近平の絶大な権力は専制帝国の皇帝のようだし、組織化された官吏の獰猛で苛烈なことも、過去のいくつかの王朝を思わせる。一方で、顔伯鈞氏のタフネスと、それを助ける「江湖」の互助組織がきちんと存在していることも、中国だなあと思う。それから、経験した苦難を「記録」しておこうという執念も。というわけで、民主化は進めるべきとして、これだけ酷い話を読んでも、やっぱり私は中国嫌いにはならない。
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神道的国民意識への回帰/日本会議 戦前回帰への情念(山崎雅弘)

2016-07-25 00:22:48 | 読んだもの(書籍)
○山崎雅弘『日本会議 戦前回帰への情念』(集英社新書) 集英社 2016.7

 菅野完『日本会議の研究』(扶桑社新書)が出たあと、テレビや新聞でも日本会議への言及が増えたような気がする。そして、(売れると分かったとたん?)同じテーマの出版が相次ぐのはなんだかなあ、と思いながら、もう一冊くらい読んでみることにした。著者の山崎雅弘さんは戦史・紛争史研究家で、著作を読むのは初めてだが、ときどきSNS上で発言を拝聴している。

 よく知られているとおり、安倍政権の閣僚の多くは「日本会議国会議員懇談会」のメンバーである。もうひとつ「神道政治連盟国会議員懇談会」(会長は安倍首相)のメンバーも多く、両者は重なりあっている。両団体は「仲の良い兄弟」のようなものである、と著者は説く。確かに両団体がホームページに公開している目標はよく似ている。

 そこで、慰安婦問題、南京大虐殺問題、憲法改正などについて、安倍政権と日本会議の主張・価値観・その目指すものがきわめて類似していることを確認し、日本会議の人脈と組織の系譜を検証する。著者が重視するのは「神道・宗教勢力」である。日本会議の淵源のひとつ「日本を守る会」は1974年成立。著者によれば、当時の日本社会には共産主義に共鳴する市民が少なからず存在し、宗教家や保守的な政治家は懸念を強めていた。臨済宗円覚寺派管長が伊勢神宮で「世界に目を向ける前に、まず自分たちの足元を見直せ」という神託を受けたことが、同会設立のきっかけとなる。僧侶なのに伊勢神宮で神託を受けるって、日本の伝統に忠実だなあ、とへんなところに感心した。

 なお、創価学会は公明党を通じて国政への影響力を有し、「国立戒壇(仏教の国教化!)」を目指していたため、当時、他の宗教団体からは(共産党と同じくらいの)「脅威」とみなされており、「日本を守る会」には参加しなかった、というのも興味深い。宗教に動かされる政治って、過去のものではないんだなあ。

 宗教勢力の中でも、特に著者が注目するのは「神社本庁」である(菅野氏の著書が重視した「生長の家」の人脈は、それほど掘り下げられていない)。いや、実は私、神社本庁が単なる民間の宗教法人のひとつだということを認識できていなかった。よく考えれば、当たり前なのだけど。伊勢神宮を頂点とし、全国の神社が神社本庁の下に入るかどうかは、その神社の判断に任されたが、ほとんどの神社が加入した。神社本庁は、GHQによって変質させられた「神道的国民意識」を取り戻すべく、さまざまな活動を展開していく。それは安倍政権が目指すものとほぼ一致すると言ってよい。天皇中心の国体、愛国的歴史教育、家長中心の家族主義、など。

 そして、戦後日本の悪いところは全部「日本国憲法のせい」と考えて、敵意と憎悪を隠さない。最後に自民党の憲法改正草案(2012年4月)が示され、短い紙数ではあるが、さまざまな問題点が指摘されている。しかし、もっと驚いたのは、2013年4月に産経新聞が紙面に発表した「国民の憲法」と題した改正案。自民党案が霞んでしまうくらい酷い。でも、これ覚えていないなあ…まだ改憲に現実味がなかったからだろうか。彼らが取り戻そうとしている「神道的国民意識」なんて、せいぜい幕末このかた百年も持たなかった流行に過ぎないので、もっと大きい歴史の流れに任せて、変わるものは変わるままにしておけばいいと思うんだけどね、私は。
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