○顔伯鈞;安田峰俊編訳『「暗黒・中国」からの脱出:逃亡・逮捕・拷問・脱獄』(文春新書) 文藝春秋 2016.6
中国の民主化運動にかかわったある男性の逃亡手記。ルポライターの安田峰俊氏は、バンコクで取材した亡命中国人から「俺の友達」を紹介される。これが顔伯鈞氏。当局の追及を避けて、2年間にわたり中国各地で逃亡・潜伏を続け、9日前にバンコクにたどりついたところだった。顔氏は発表のあてもないまま、30万字に及ぶ手記を書き溜めていた。この手記の一部を日本の読者向けに編訳したものが本書である。
顔氏は、もともと中国共産党の中央党校で学んだ体制内エリートの卵だったが、行政の現場に失望し、大学教員に転出。人権活動家の許志永が主催する「公盟」に加わり、新公民運動(弱者救済をめざす穏健な社会化改革運動)に参加してきた。しかし、2013年3月に発足した習近平政権は、公盟に対する弾圧を開始し、主力メンバーは次々に拘束されていく。2013年4月、顔氏は妻と息子を北京に残し、しばらく身を潜めることを決意する。バスで天津に到着した後、自宅の妻に連絡すると、以前から顔氏を監視していた楊という国保局(国内安全保衛局)の役人が十数人で乗り込んできたことを知らされる。
盗聴されている恐れのある携帯電話を捨て、ネットカフェやサウナを利用し、公盟の支援者をたよりながら、長い逃亡生活が始まる。天津から済南、太原、邯鄲、覇州。済南では郊外の村で回族(ムスリム)の馬おじにかくまわれ、太原ではインテリアデザイナーの蕭ちゃんのもとに身を寄せて仕事を手伝う。6月に一度、北京に戻るが、国保局に監視されている自宅に近づくことはできなかった。再び北京を離れ、ひたすら南下。鄭州、武漢を経て、湖南省ミャオ族自治州の吉首では蟲術の儀式に遭遇する。峻険な山岳地帯をバスで抜けて雲南省へ。曲靖では、期待していた支援者がただのオポチュニストで(リアルだなあ)失望を味わい、シーサンパンナ・タイ族自治州の景洪へ向かうことにする。ここまでの地名には、けっこう私が行ったことのある都市も多くて、ちょっと旅情を感じながら読んだ。
シーサンパンナはラオス、ミャンマーと国境を接する中国南部の辺境である。顔氏は、ミャンマー領内にシャン州第四特区という紅衛兵の残党の地方政権(!)があり、景洪で志願兵のリクルートを手伝っている人物の連絡先を控えていたことを思い出す。連絡してみると(初対面にもかかわらず)事情を察して、力を貸してくれることになった。武侠ドラマなら大侠客、江湖の好漢というところだろう。顔氏は、彼の紹介で国境を越え、軍閥の老将軍に引き合わせてもらったりする。しかし、ミャンマー東北部に、こんな不思議な地域があるとは、初めて知った。
2013年7月、顔氏は景洪から昆明を経て深圳(セン)へ。夜間に小さな漁船で香港に潜入するが、期待した支援は得られず、広州へ逃れる。10月、昆明、大理を経てチベット自治区に向かう。崖っぷちの隘路をバスで進み、最後は徒歩。しかし、インド入国はあきらめ、2014年1月末、チベット族とともに冬山を下り、雲南省に戻った。北京に戻り、息子と再会したところを、ついに逮捕される。拷問すれすれの尋問の末、拘置所に拘留され、囚人に対する非人間的な扱いと、囚人との人間的な交流を体験する。このとき、日本でもよく知られた人権派の弁護士・浦志強氏が隣りの房にいたらしく、時折、看守が名前を呼ぶ声を耳にしたという。
2014年7月、釈放。しかし、香港の雨傘運動への支持を理由に仲間が拘束されると、危険を感じた顔氏は、昆明から飛行機でタイに出国を試みる。空港で逮捕。故郷の長沙に護送されてホテルに軟禁される。見張りの隙をついて窓から脱出し、昔の同級生のもとに転がり込み、岳陽、武漢、太原を経て北京に戻る。しかし妻子に会うことはかなわず、再びタイ亡命の意思を固める。いわく「すべては黄粱一炊の夢」か。中国には、どんな時代にもぴったりの故事成語があるものだ。
2015年1月、雲南省の景洪から陸路で、仲間たちとともにミャンマーへ密入国。ラオスを経て、メコン河を渡り、タイに入国する。どこかで命を落としていてもおかしくないような、危機の連続。中国の民主化がどうとか、体制の民衆弾圧がこうとか言う前に、ハードボイルド・スパイ小説を読むような面白さがある。
本書の編著者は顔伯鈞の物語を「『水滸伝』や『三国史演義』を想起させるほどの」と形容している。確かに、習近平の絶大な権力は専制帝国の皇帝のようだし、組織化された官吏の獰猛で苛烈なことも、過去のいくつかの王朝を思わせる。一方で、顔伯鈞氏のタフネスと、それを助ける「江湖」の互助組織がきちんと存在していることも、中国だなあと思う。それから、経験した苦難を「記録」しておこうという執念も。というわけで、民主化は進めるべきとして、これだけ酷い話を読んでも、やっぱり私は中国嫌いにはならない。
中国の民主化運動にかかわったある男性の逃亡手記。ルポライターの安田峰俊氏は、バンコクで取材した亡命中国人から「俺の友達」を紹介される。これが顔伯鈞氏。当局の追及を避けて、2年間にわたり中国各地で逃亡・潜伏を続け、9日前にバンコクにたどりついたところだった。顔氏は発表のあてもないまま、30万字に及ぶ手記を書き溜めていた。この手記の一部を日本の読者向けに編訳したものが本書である。
顔氏は、もともと中国共産党の中央党校で学んだ体制内エリートの卵だったが、行政の現場に失望し、大学教員に転出。人権活動家の許志永が主催する「公盟」に加わり、新公民運動(弱者救済をめざす穏健な社会化改革運動)に参加してきた。しかし、2013年3月に発足した習近平政権は、公盟に対する弾圧を開始し、主力メンバーは次々に拘束されていく。2013年4月、顔氏は妻と息子を北京に残し、しばらく身を潜めることを決意する。バスで天津に到着した後、自宅の妻に連絡すると、以前から顔氏を監視していた楊という国保局(国内安全保衛局)の役人が十数人で乗り込んできたことを知らされる。
盗聴されている恐れのある携帯電話を捨て、ネットカフェやサウナを利用し、公盟の支援者をたよりながら、長い逃亡生活が始まる。天津から済南、太原、邯鄲、覇州。済南では郊外の村で回族(ムスリム)の馬おじにかくまわれ、太原ではインテリアデザイナーの蕭ちゃんのもとに身を寄せて仕事を手伝う。6月に一度、北京に戻るが、国保局に監視されている自宅に近づくことはできなかった。再び北京を離れ、ひたすら南下。鄭州、武漢を経て、湖南省ミャオ族自治州の吉首では蟲術の儀式に遭遇する。峻険な山岳地帯をバスで抜けて雲南省へ。曲靖では、期待していた支援者がただのオポチュニストで(リアルだなあ)失望を味わい、シーサンパンナ・タイ族自治州の景洪へ向かうことにする。ここまでの地名には、けっこう私が行ったことのある都市も多くて、ちょっと旅情を感じながら読んだ。
シーサンパンナはラオス、ミャンマーと国境を接する中国南部の辺境である。顔氏は、ミャンマー領内にシャン州第四特区という紅衛兵の残党の地方政権(!)があり、景洪で志願兵のリクルートを手伝っている人物の連絡先を控えていたことを思い出す。連絡してみると(初対面にもかかわらず)事情を察して、力を貸してくれることになった。武侠ドラマなら大侠客、江湖の好漢というところだろう。顔氏は、彼の紹介で国境を越え、軍閥の老将軍に引き合わせてもらったりする。しかし、ミャンマー東北部に、こんな不思議な地域があるとは、初めて知った。
2013年7月、顔氏は景洪から昆明を経て深圳(セン)へ。夜間に小さな漁船で香港に潜入するが、期待した支援は得られず、広州へ逃れる。10月、昆明、大理を経てチベット自治区に向かう。崖っぷちの隘路をバスで進み、最後は徒歩。しかし、インド入国はあきらめ、2014年1月末、チベット族とともに冬山を下り、雲南省に戻った。北京に戻り、息子と再会したところを、ついに逮捕される。拷問すれすれの尋問の末、拘置所に拘留され、囚人に対する非人間的な扱いと、囚人との人間的な交流を体験する。このとき、日本でもよく知られた人権派の弁護士・浦志強氏が隣りの房にいたらしく、時折、看守が名前を呼ぶ声を耳にしたという。
2014年7月、釈放。しかし、香港の雨傘運動への支持を理由に仲間が拘束されると、危険を感じた顔氏は、昆明から飛行機でタイに出国を試みる。空港で逮捕。故郷の長沙に護送されてホテルに軟禁される。見張りの隙をついて窓から脱出し、昔の同級生のもとに転がり込み、岳陽、武漢、太原を経て北京に戻る。しかし妻子に会うことはかなわず、再びタイ亡命の意思を固める。いわく「すべては黄粱一炊の夢」か。中国には、どんな時代にもぴったりの故事成語があるものだ。
2015年1月、雲南省の景洪から陸路で、仲間たちとともにミャンマーへ密入国。ラオスを経て、メコン河を渡り、タイに入国する。どこかで命を落としていてもおかしくないような、危機の連続。中国の民主化がどうとか、体制の民衆弾圧がこうとか言う前に、ハードボイルド・スパイ小説を読むような面白さがある。
本書の編著者は顔伯鈞の物語を「『水滸伝』や『三国史演義』を想起させるほどの」と形容している。確かに、習近平の絶大な権力は専制帝国の皇帝のようだし、組織化された官吏の獰猛で苛烈なことも、過去のいくつかの王朝を思わせる。一方で、顔伯鈞氏のタフネスと、それを助ける「江湖」の互助組織がきちんと存在していることも、中国だなあと思う。それから、経験した苦難を「記録」しておこうという執念も。というわけで、民主化は進めるべきとして、これだけ酷い話を読んでも、やっぱり私は中国嫌いにはならない。