〇石井洋二郎『危機に立つ東大:入試制度改革をめぐる葛藤と迷走』(ちくま新書) 筑摩書房 2020.1
東大の経営事情に特別な関心はないし、著者の名前も知らなかったが、たまたま貸してくれる人がいたので読んでみた。著者の専門はフランス文学で、東京大学大学院総合文化研究科(教養学部)に籍を置き、2015年から2019年まで五神真総長の下で理事・副学長をつとめた。
本書には4つの大きなトピックが取り上げられている。その1は、濱田純一前総長の任期中に生じた「秋入学問題」。外国人留学生の受入れと東大生の留学を増やすため、大学の学事暦を国際標準に合わせようというものだ。著者によれば、この問題は30年以上前から政府の審議会等で議論されており、新しいアイディアではないという。東大では、2011年4月に秋入学検討のための懇談会が立ちあげられていたが、一般の教員は何も知らないまま、同年7月、新聞が「東大、秋入学へ」を報道するに至った。このニュースを見たことは覚えており、私はただの野次馬として、東大も思い切ったことをやるなあ、と感心したものだった。
しかし、秋入学への移行だけで大学の国際化が進むわけではなく、合格から入学(授業開始)までのギャップタームのケアがなければ、学生は無駄に遊び暮らすのではないか等、著者が指摘する懸念はもっともである。最終的に秋入学構想は後退し、代わって「総合的教育改革」が議論されるようになった。
以下は五神体制下で著者が理事・副学長として経験したトピックになる。その2、2015年6月のいわゆる「文系軽視」通知。これに対して著者は、文系/理系という二分法に疑問を呈し、科学知(自然科学・社会科学・人間科学)/人文知という学問分類を提唱している。
その3「英語民間試験問題」について、2014年9月の有識者会議の報告書に始まる経緯を振り返る。ここで奇妙に感じられるのは、文科省以上に民間試験利用に積極的な(と見える)国立大学協会の動きである。東大は、2018年3月に入試担当理事が民間試験利用は「拙速」という表明をしたにもかかわらず、4月には、国立大学協会のガイドラインに従って民間試験を活用するという「方針転換」を発表する。本件は、本書の4つの事例の中で最も分かりにくかった。
その4「国語記述式問題」。私は、このことについては政府の方針があまりに馬鹿馬鹿しくて、本気で情報収集し分析する気になれなかったが、2017-2018年に実施された記述式プレテストについて紅野謙介氏が『国語教育の危機』という著書で綿密な批判的分析を行っていることを知った。本書の「記述式」批判は、「人文知」を支える「言葉にたいする敬意」に基づく理念的なもので、共感はできるけれど、むしろ紅野先生の分析を読んでみたい。なお、その3とその4の問題が、昨年末、思わぬかたちの暫定的結論に至ったのは周知のとおりである。
どの事例についても、著者の批判はたいへん真っ当だと思う。だが、著者が現状批判の鑑とする「あるべき大学(東大)の姿」が、私にはとても心もとない。「国の政策なのだから従うのが当然である」という諦念・思考停止を表明する人々が学内外(重要なのは学内)にいることに、著者は「驚かずにはいられなかった」というけれど、過去の大学はそうでなかったということ? そんな雰囲気はいつまであったのだろう?
最後に著者は、大学の本来の使命は「思考を熟成させる静謐なゆとりの時間(スコレー)と、自由に言葉の飛び交う白熱した空間(フォーラム)を醸成し、可能な限り多くの人々に提供すること」だと述べている。東大の先生方、特に人文知にかかわる方々が、同様の理念を掲げ、実現に努力してこられたことを思い出す。一方で、年々貧しくなるこの国を、経済的に豊かにしなければ、医学や工学の金のかかる研究も、修学支援も実現できないことも明らかだ。稼げるタネがそこにあるなら、大学は、この国の未来のために稼がなければならないのだと思う。著者のいう「変わらぬ良識と矜持」「知的興奮と感動」だけでは、もはや学生を世に送り出し続けることはできないのではないか。