見もの・読みもの日記

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彦根藩士たちの執念/井伊直弼と横浜(神奈川県立歴史博物館)

2020-02-12 23:32:53 | 行ったもの(美術館・見仏)

神奈川県立歴史博物館 特別展・掃部山銅像建立110年『井伊直弼と横浜』(2020年2月8日~3月22日)

 ちょっと変わった、マニアックな特別展だと思いながら、気になっていたので行ってきた。横浜市西区掃部山公園には、幕末の大老・井伊直弼の銅像が建っている。井伊直弼(1815-1860)は日米修好通商条約に調印し、日本の開国・近代化を断行したが、強権をもって反対勢力を弾圧したため、安政7年(1860)桜田門外で水戸浪士らに暗殺された。

 開国という選択は結果的に正しかったが、華やかな維新の志士たちに比べると、井伊直弼の評価や人気はパッとしない。私は東京育ちだが、近年まで横浜に彼の銅像があることを知らなかった。たぶん初めて認識したのは木下直之先生の『銅像時代』(岩波書店、2014)で、直弼の銅像建立を思い立った旧彦根藩士らが、上野公園、芝公園、靖国神社、日比谷公園等に願い出るが受け入れられず、執念で横浜に建立するまでが紹介されていた。『木下直之を全ぶ集めた』(晶文社、2019)にも、ランドマークタワーと向き合う衣冠束帯姿の直弼像の写真が収録されていて、時空がねじれたようなミスマッチ感に強い印象を持った。そうした「予習」の上で、私は本展を見に行ったのである。

 旧彦根藩士の間で井伊直弼の顕彰活動が動き始めたのは明治14年(1881)頃。中心となった相馬永胤(1850-1924)は、旧彦根藩士で専修大学創立者、横浜正金銀行頭取でもある。本展には、専修大学が所蔵する相馬永胤の日記(小さなメモ帳に細かいペン字でびっしり書いている)や手紙、写真などが多数出陳されていて興味深かった。

 相馬らは、はじめ上野公園内に記念碑を建設することを願い出たが許可されなかった。国立公文書館に残る太政官文書によれば、「公園の風致が乱される」ことが理由とされている。明治26年には、横浜の根岸村に遺勲碑を建てることを願い出たが、直弼の政治上の是非は「識者の非難」を免れないという理由で却下されている。いったん下された同時代の評価を覆すことは厳しいんだなあ、と感じる。

 横浜の私有地を候補に選定したあとも、藩閥政府の横槍やら反対派世論の圧迫やら、いろいろあったが、明治42年(1909)銅像除幕式が行われた。作者は藤田文蔵。同じく藤田が製作した1メートルほどの小型の井伊直弼銅像が世田谷の豪徳寺に伝わっている。古めかしい束帯姿だが、面貌は個性的で、重厚感がある。なお、銅像と敷地は横浜市に寄付されて、同市が永遠に維持保存することになった。

 これでめでたしめでたしなのかと思ったら、苦難は続く。大正12年の関東大震災で被災し、台座ごと向きがずれてしまった姿が写真に残っている。復旧はしたものの、昭和18年には金属供出のため撤去されてしまった。再建されたのは昭和29年(1954)のことである。よかった!

 現在の再建像を製作したのは鋳金家の慶寺丹長。試作品(?)として、小さな全身像の模型と、巨大な頭部像が残っている。首だけすぱりと斬り落としたような井伊直弼頭像にはびっくりして肝を冷やした。何しろ、死に方がアレだから。

 不在の時期もあったが、井伊直弼像が横浜のイメージ・シンボルとして定着したことは、横浜開港百周年(1958)の記念切手や崎陽軒の弁当の掛け紙(1970年代くらい)からもうかがえる。しかし、近年は、少しずつ忘れられているのではないかと思う。

 本展には、彦根城博物館や埋木舎から、井伊直弼の茶の湯や能狂言、和歌に関する資料も多く来ていた。このひと、元来は仕事より趣味に生きていたんだな、と思うと親しみが湧いた。実は来月、彦根を訪ねる計画を立てている。昨年も同じ時期に計画を立てていたのに果たせなかったリベンジである。直弼ゆかりの埋木舎もぜひ行ってみたい。掃部山の直弼に会いに行くのは、そのあとの予定。

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