〇丸橋充拓『江南の発展:南宋まで』(シリーズ中国の歴史 2)(岩波新書) 岩波書店 2020.1
「シリーズ中国の歴史」第2巻も面白かった。新石器時代の長江流域の諸文化、稲作の始まりから書き起こし、最後は南宋の滅亡で終わるという、超絶遠大な射程にもかかわらず、まとまりがある。「江南」というひとつの文化圏が、長い歴史の中を脈々と生き続けている姿を見るように思った。そして江南は周辺の海域世界と、文化的にも経済的にも強いつながりを持っており、日本もその文化経済圏の一部であることを実感した。黄河流域の「古典中国」をイメージしながら、日本と中国が一衣帯水とか同文同種とか言われても、ちょっと首をかしげたくなるが、日本と江南世界には、まさにそういう関係が成り立つと思う。
黄河流域と長江流域の南北関係史が本格的に幕を開けるのは、春秋戦国時代の楚、呉、越。特に楚は、中原王朝に対抗する勢力のシンボルと見なされるようになる。漢帝国の崩壊後、江南には孫呉政権が成立した。孫権は、海上を通じて遼東半島や朝鮮半島、さらに東南アジアからその先(ローマ帝国の商人も来朝)まで、視野の広い国際戦略を展開した。昨年の『三国志』展でも、そのような孫呉の姿が紹介されていた。そして、積極的な全方位外交は「江南立国の王道パターン」となる。
中原が五胡十六国の混乱期を迎えると、江南には亡命政権の東晋が成立する。東晋南朝は、次第に統一王朝の再建をあきらめ、江南を中華の中心として、海域諸国に朝貢をよびかけ、新たな華夷秩序を創出しようとした。そうか、梁の元帝が編纂した『梁職貢図』には倭国使の図があるのか(ただし倭国は梁に朝貢していない)。西方の胡蜜檀国の使者が梁武帝を「日出処大国聖主」と呼んだ記述があるというのも気になるのでここにメモ。
より重要なのは、日本の貴族たちが六朝貴族の典雅な世界に「心をわしづかみ」にされていたこと(この表現、とてもよい)。日本の「国風文化」と思われているもの、かなりのところは六朝貴族文化へのオマージュだと思う。
前漢後期に台頭した豪族は、累代にわたって朝廷の高官を独占し、地域一円に影響力を広げ、南朝(六朝)の貴族へと成長していく。ただし彼らが西欧中世のような、自立した「領主」にならなかったことに著者は注意を促す。中国の「貴族」とは、上は国家権力に依存し、下は地域社会の輿論に支えられる「領主未満の中間層」なのである。このことは、終章で、なぜ中国は近代的な諸価値(議会制民主主義や法治主義)と不調和を起こすのか、という問いを考えるときに再び参照される。ここには「世襲的身分制の解体が戦国時代から始まった中国社会には、利害調整・合意形成の当事者となるべき法共同体(中間団体)が存在しなかった」という一文を引いておく。
隋唐と江南について、特筆すべきは煬帝。煬帝の陵墓が2013年に発見されたことも初めて知った(私が2000年頃に見学した旧煬帝陵は誤りだったことになっているらしい)。唐太宗の王羲之偏愛も江南文化への憧れと言える。文化だけでなく、法制や礼制の面でも隋唐両朝は南朝の制度を取り入れた。
唐滅亡後、五代十国の混乱を経て北宋が成立する。貴族の没落、科挙官僚の台頭、皇帝権の強化、私的土地所有を前提とした両税法の定着など「唐宋変革」と呼ばれる大変革が行われた。江南では塩湖対策など技術的発展に後押しされて農業生産が増大し、商品経済も大きく発展した。しかし金の軍事侵攻によって華北を失い、杭州を仮の首都とする南宋が成立する。
金の朝廷の内紛もあり、有利な条件で和議を成立させた南宋は、名君・孝宗のもとで繁栄する。江南の開発は順調に進み、流通経済は活性化した。海外貿易の利益は貴重な収入源となり、海域諸国との間には、定期的に朝貢使節を送る「華夷秩序」が形成された。さらに金軍やモンゴル軍に対抗するため、強大な水軍(海軍)も編成された。正直、南宋がここまで積極的な対外政策を取っていたとは思わなかった。
唐帝国の後半から宋代にかけて、著者はときどき日本の歴史を参照している。たとえば南宋の孝宗は平清盛や後白河院と同世代という具合。海を隔てた両国の同時代性が分かって大変よかった。人物では、南宋の孝宗を初めて認識した。同時代の金の世宗も名君だったというのが興味深い。王安石の新法の説明も詳しくて面白かった。「構成員による広く薄いコスト負担のもと、労働とそれに対する報酬をガラス張りにする」と聞いて、ものすごく現代的な発想だと思った。
中国社会には、垂直的な一君万民の「国づくりの論理」に対し、水平的に人をつなぐ「幇(ほう)の関係」があるという整理には全く同意。そして東方や南方は「一君万民体制と相性の悪い人びと」の溜り場であったというのも、知っている歴史や文学作品を思い出すと、微笑みながら同意できる。