見もの・読みもの日記

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64年大会を問い直す/五輪と戦後(吉見俊哉)

2021-06-02 17:32:43 | 読んだもの(書籍)

〇吉見俊哉『五輪と戦後:上演としてのオリンピック』 河出書房新社 2020.4

 あとがきの日付は2020年2月24日、まだ著者は2020年の東京オリンピック開催を疑っていない。そのあとに追加された短い「補記」は3月24日、「もはや誰も今年七月に東京五輪が開かれ得るとは思っていない。TOKYO2020は来ない――この驚くべきどんでん返しを、わずか一ヵ月前に誰が予想していただろうか」とある。それから1年後、ますます深まる混迷の中、東京五輪という問題を長期的な展望で根本から考えなおすのに本書はとてもよい参考書である。

 序章は、2020年東京五輪構想が石原慎太郎都知事の思いつきに始まり、東日本大震災からの復興を口実にIOCの委員たちに取り入ることによって招致に成功したこと、新国立競技場やエンブレムをめぐる問題の数々を振り返る。その上で著者は、2020年五輪の問題の根本は、1964年五輪の呪縛にあることを指摘する。果たして64年の東京大会は成功に満ち溢れたものだったのか、あらためて批判的考察がなされなければならない。さらに、いま東京で起きていることは、日本の失敗だけでなく、近代オリンピック自体の「終わりの始まり」という側面も持っているという。

 第1章は「舞台」としての東京五輪に焦点を当てる。64年五輪の競技施設の多くは軍用施設の転換だった。興味深いのは、1940年の五輪構想のときから、軍用地をスポーツ施設に転換していく計画があったことだ。また、64年においては、米軍施設用地の返還問題が絡んでいた。当初、日本側は朝霞にオリンピック選手村を建設する予定だったが、米国は代々木のワシントンハイツの返還を申し出る。米国には、東京都心から米軍施設を撤去することで、日本社会の反基地感情・反米感情を抑えたいという狙いがあったようだ。

 第2章は「演出」の側面から聖火リレーに注目する。64年五輪の聖火リレーを沖縄からスタートさせ、本土復帰ムードを盛り上げることは、米国務省の意向に添っていた。米国は、沖縄統治の主導権を米軍から国務省に転換させ、日本全土を安定的に米国の覇権体制に組み込みたかった。五輪はつねに政治権力の思惑とともにあることを思う。64年当時は、聖火の「分火」が許されていたこと(逆に今は許されていないこと)は初めて知った。あと、聖火が著しく「日本化」され、日本民族の起源や天皇信仰と容易に融和してしまうという観察は現在にも通じる。

 第3章は「演技」と題し、マラソンランナー円谷幸吉と「東洋の魔女」と呼ばれた女子バレーボールチームを論ずる。女子バレーについては、戦後の日本経済の復興を担った繊維産業の女子労働者管理術から考える視点がおもしろかった。64年五輪は、今日と異なり、まだ農村出身の貧しい若者たちが世界から喝采される舞台たり得ていた。

 第4章は東京モデルの「再演」すなわちソウル、北京、札幌、長野の五輪大会を論ずる。88年のソウル、2008年の北京は、政治的安定と経済成長との結びつき、大規模なインフラ建設と都市の高速化など、64年の東京を反復する点が多い。これは、欧米列強で発明された近代オリンピックが、オリンピック・エリート国家を超えて、東アジアで開催される場合の通例になっている(たぶん、欧米諸国にとってのオリンピックは全く違うものなのだろうなあ)。他方、重要なのは開発主義から環境主義への転換である。著者は、札幌五輪で支笏洞爺湖国立公園の恵庭岳に残された滑降スキーコースの無残な爪痕と、長野五輪の白馬・黒菱山滑降コースをめぐる自然保護団体の強い抵抗を対比させて、この変化を語る。

 終章。いま二度目の東京五輪を開催する意味があるとしたら、「速く、高く、強く」という成長主義を脱却し、ポスト成長社会にふさわしい「緩やかに、低く、しなやかに」というドラマトゥルギーを提示することではないか、と著者は提言する。その萌芽は、実は64年五輪にもあった。第2章に登場する高山英華の駒沢オリンピック公園のデザインは、初めから「オリンピック以後の使い方」を重視したもので、その結果、今日でも市民に活用されているという。第3章で語られる市川崑監督の映画『東京オリンピック』は、日本人の活躍場面が少ないことから、政治家や関連組織から修正圧力をかけられ、配給会社が文部省推薦の申請を取り消すなどのドタバタを引き起こすが、国際的には高い評価を得た。つまり、64年五輪にも、多様な語り、多様なドラマトゥルギー(劇作法)が存在した。当時は、その中で成長主義的な語りが支配的であったのは明らかだが、今や大きな位相転換が起きている。

 この変化は、そもそものオリンピックの自己否定になるのではないか。「ひどく19世紀的な西洋中心主義から出発し」(そして84年のロサンゼルス五輪以降、商業主義と結託し、底なしの拝金主義にまみれた)「オリンピックが、ポストコロニアルでグローバルな21世紀の地球社会で長く権威を持ち続けるのは容易ではない」という著者の予測は、いくぶん期待で水増しされている感じもする。しかし、もう21世紀なのだ。成長主義の呪縛は、本当に、もう棄て去るほうがいいと思う。

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