見もの・読みもの日記

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王政復古の混乱を経て/氏名の誕生(尾崎秀和)

2021-06-24 21:32:00 | 読んだもの(書籍)

〇尾崎秀和『氏名の誕生:江戸時代の名前はなぜ消えたのか』(ちくま新書) 筑摩書房 2021.6

 SNSで評判を見て読んでみた。評判どおり面白い上に分かりやすくて、いろいろなことが腑に落ちた。われわれ現代日本人は、人名とは「氏」と「名」で構成されるものだと思っている。実はこの「常識」は、約150年前、明治新政府によって創られた。本書は、江戸時代(18世紀後半以降)から明治初期にかけての人名(男性名)の変化を詳述する。

 江戸時代の下の「名前」は、(1)正式な官名 (2)擬似官名 (3)一般通称に分類できる。(3)一般通称は何種類かのお決まりの”お尻”を持つ。〇衛門、〇兵衛、〇蔵などだ。社会的な慣習として、幼名には幼名らしい、隠居には隠居らしい名前が用いられた。(1)正式な官名(武家官位)は、武家では大名と一部の旗本にのみ許されていた。これは本人が選択して申請し、将軍の許可を得て名乗った(幕府は定期的にまとめて朝廷に位階と官を申請していた。なんという空疎な慣習!)。なお、武家にとって「〇〇守」等の官名を得ることは「改名」と認識されていた点に注意が必要である。

 (1)と(3)の間にあって、上級武士など、一般通称よりは偉そうだが、正式な官名を名乗るほどではない場合に用いられたのが(2)擬似官名で、京百官・東百官と呼ばれる種類がある。国名も、〇〇守の「守」等を省いたという意味でこの一群に入る。そうか、弾正とか修理は京百官で、左膳とか求馬は東百官なのか。歌舞伎や文楽、時代劇に登場する人名をいろいろ思い出して納得した。

 武家には(通常)漢字二字の「名乗」も設定されていたが、これは「名乗書判」というサインにのみ用いるものだった(町人も名乗を設定しておくことは自由)。名乗は本姓(源平藤橘など)と接続する。一方、いわゆる通称(下の名前)と接続するのが苗字だった。町人や百姓の場合、普段は通称だけを用いたが、証文の宛名などに苗字を使うこともあり、苗字でなく屋号を通称の上に接続することもある。

 朝廷社会にも「苗字」らしきもの(称号:近衛、九条など)があり、官名を名前に用いる場合もあった。しかし彼らは、武家や町人の常識と真逆で「姓名」こそが人名だと考えていた。朝廷方式の人名表記には、さらに細かい規定があり、位階によっては官または位に名前をつける(参議篁)、もっと偉いと遠慮して姓名を記さない(河原左大臣)など、小倉百人一首を見ると分かるという。公家は実名を呼び合っていたというのもおもしろい。

 さて、王政復古が実現すると、ただの名前と化した「官名」の始末が問題になった。江戸時代にも伊勢貞丈など、実を伴わない官名を名前とすることの誤謬を指摘した学者はいたが、彼らは敢えて現状を変えようとはしなかった。しかし明治新政府は、真面目に「名」と「実」を一致させようとして大混乱を招く。

 まずは新たな職名-官等による秩序を設定したが、(旧官制では)無位無官の高官の下に、大納言とか将監とか仰々しい官名の部下が並ぶことになって格好がつかない。次に徴士(無位の人材)に位階を与えて通称に用いさせようとするが、辞退者が続出してうまくゆかない。明治2年7月には、旧来の官制・官名を全廃し、官員名簿は「位・姓・尸(カバネ=朝臣など)・名」で書くことになった。政府は官員の「姓名」を把握する必要が生じたが、人々は名乗るべき自分の名前が分からずに大混乱。結局、「苗字+実名」という人名の新たな表記方法が創出され、通称と実名の同質化が進んだ。ついに明治5年(1872)「一人一名」が布告され、現在の「氏名」という形が成立したのである。

 いや~学校制度や暦もそうだが、とにかく明治初年はあれもこれも大混乱だったことが分かる。本書は『武鑑』『雲上名鑑』『館員録』など、名簿の実例が写真図版で多数掲載されていて分かりやすい。ずっと通称で登場する後藤象二郎とか、清々しいなあと思った。

 なお、平民については、明治3年に「苗字自由令」が発せられたが、苗字を設定する者は多くなく、明治8年にあらためて「苗字強制令」が布告された。端的には徴兵令に基づく兵籍調査を徹底するためだった。百姓たちは先祖代々の苗字を用いたが、都市部の裏長屋の住人など、新たに自己設定した者も多かったという。そして、効率的な国民管理の都合から、改名や複数本名も原則禁止となり、現在の「常識」が形成されていく。

 な~んだ、そうだったのか、というスッキリした読後感。でもこの、現在の常識を相対化する視点はとても大事だと思う。細かい、もっと面白い話題がたくさんあるので、ぜひ全文を読んでほしい。

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