見もの・読みもの日記

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王朝から近代まで/隅田川の文学(久保田淳)

2023-02-05 22:56:32 | 読んだもの(書籍)

〇久保田淳『隅田川の文学』(岩波新書) 岩波書店 1996.9

 「アンコール復刊」の帯をつけて書店に並んでいた1冊である。私はいま、縁あって隅田川の近くに住んでいるので題名に目が留まった。中を開けたら、近代俳句に始まり、芥川龍之介や川端康成に言及がある。著者名を確かめて、え?と驚いた。久保田淳先生といえば、中世和歌の大家という認識だったので。本書は、著者が1年間西ドイツに出て、日頃の研究テーマを離れてみた経験から生まれたことが「あとがきに代えて」に述べられている。

 はじめに登場するのは石田波郷(高校の国語の教科書で習った)で、東京大空襲から1年ほど後、江東区北砂町に移り住んだという。「百万の焼けて年逝く小名木川」などの句があることを初めて知った。神田生まれの水原秋櫻子(やっぱり教科書で習った)は「夕東風(ごち)や海の船ゐる隅田川」など近世の美意識に連なる隅田川を詠んでいる。そして川端康成の『浅草紅団』は、関東大震災後の浅草界隈にたむろする不良少年少女たちを描いた。この作品は未読なのだが、梗概が的確にまとめられていてありがたく、かなり通俗小説的なおもしろさを感じた。

 築地に生まれ、本所で育った芥川龍之介にとって、大川端が原風景であることは、大学時代、近代日本文学の講義で習った(浅井清先生から)。日本橋蛎殻町生まれの谷崎潤一郎にとっても隅田川は親しい存在だったが、谷崎が後年、関西に移住すると、東京の文化や東京人に批判的な目を向けるのに対して、芥川は、そのようなしたたかさに欠けていた、という対比に納得した。

 隅田川とのゆかりを全く知らなかったのは、木下杢太郎とパンの会。パンの会の会合には、永代橋のほとりの永代亭という西洋料理屋が使われた(※ネットで情報を見つけた)。杢太郎には「往き暮れしろまんちっくのわかうどは永代橋の欄干に凭る」という歌もある。吉井勇は紅燈の巷としての大川端を詠み、高村光太郎は男性的な隅田川を詩に歌った。

 永井荷風の『夢の女』には深川洲崎の遊郭が登場する。最近、木場駅の東の大門通りで飲む機会があったが、あれは洲崎遊郭の大門の跡なのだな。もとは本郷の根津にあり、帝国大学のそばにあっては風教上よろしくないという理由で移転してきた遊郭である。泉鏡花も洲崎遊郭付近の深川を一種のアジールとして描いている。

 近世は、歌舞伎の河竹黙阿弥と鶴屋南北。どちらも江戸っ子。伊賀上野生まれの松尾芭蕉は上京して隅田川のほとりに三回住んだ。山国生まれの芭蕉にとって大川のほとりは、異郷にあるという自覚を抱かせたに違いない、という著者の指摘は鋭いと思う。

 中世は、後世に大きな影響を与えた能「隅田川」を論ずる。それよりも、著者自身が、ある年の4月14日に矢来能楽堂で「隅田川」を見て、そのまま地下鉄に乗って、隅田川のほとり木母寺の梅若塚へ向かったという一段が印象的だった。文学研究者は、こうであってほしい。『太平記』や『吾妻鏡』に登場する戦場としての隅田川、『とはずがたり』の後深草院二条が見た隅田川も紹介されている。

 そして最後の王朝時代は、紙数こそ少ないが、さすが著者の本領発揮で興味深い。順徳天皇が企画した「建保内裏名所百景」を題材に、中世歌学における「すみだ河」の所在国の問題を考える。のちに順徳院が完成させた『八雲御抄』には、すみだ河を「下総」としながら「駿河とも。いほさきも」と注しているという。駿河というのは、万葉集に「まつち山夕越え行きていほさきの角太河原に独りかも宿む」という歌があるためだ。

 もうひとつ、あっと思ったのは、崇徳院に仕えた藤原教長(法名・観蓮)が、保元の乱の後、常陸国へ流罪となり、隅田川を渡っていたことだ。「教長集」には長い詞書とともに「すみだ河今も流れはありながらまた都鳥跡だにもなし」という歌が残されているという。知らなかった。能書家としても知られ、私はこのひとの書跡がとても好きなのだ。教長は、後に許されて高野山に入っているが、彼が東国で詠んだ和歌は、讃岐で生涯を終えた崇徳院の目に触れただろうか。触れなかっただろうか。

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