見もの・読みもの日記

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須賀川に愛された画家/亜欧堂田善(千葉市美術館)

2023-02-06 20:25:56 | 行ったもの(美術館・見仏)

千葉市美術館 企画展・没後200年『亜欧堂田善 江戸の洋風画家・創造の軌跡』(2023年1月13日~2月26日)

 江戸時代後期に活躍した洋風画家、亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)の大規模な回顧展。現在知られる銅版画約140点を網羅的に紹介するとともに、肉筆の洋風画の代表作、同時代絵師の作品、田善の参照した西洋版画や弟子の作品まで、約250点を一堂に集め、謎に包まれたその画業を改めて検証する。

 開催概要に「首都圏では実に17年ぶりの回顧展」とあるのは、2006年に府中市美術館で開催された『亜欧堂田善の時代』展を指すのだろう。2004年から書いているこのブログに亜欧堂田善の名前が登場するのもこの展覧会が最初で、その2か月前、東京の天理ギャラリーで見た『幕末明治の銅版画』でこのひとの名前に出会ったことを私は記録している。以来、ひそかに推してきた画家なのである。

 亜欧堂田善(本名:永田善吉、1748-1822)は現在の福島県須賀川市の生まれで、須賀川市立博物館が豊富な関連資料を所蔵していることは知っていたが、なかなか訪ねる機会がなかった。今回、同館や須賀川市から多数の貴重な資料が出陳されていたのが、とても嬉しかった。たとえば、須賀川の白山寺に伝わる、田善が15歳で手掛けた絵馬。同郷の画僧・白雲による『岩瀬郡須加川町耕地之図』は須賀川町の全景図で、田善の生家も特定できる。

 油彩画、銅版画を習得する過程では、さまざまな模倣と模索の跡を見ることができて興味深かった。特に銅版画は、初期(寛政年間)の作品では線が単調だったり、人物デッサンが崩れていたり、稚拙な印象を免れないが、文化年間の大作『西洋公園図』や『ゼルマニヤ廊中之図』は、一見、日本人の作とは気づかないような完成度の高さである。これに並ぶのが、浅草寺の風景を描いた『大日本金龍山之図』で、西洋人が想像で描いた日本の風景みたいな趣きがある。

 一方、油彩画については、銅版画のような顕著な進歩が見られない分、夢の中のような、独特のあたたかさと静謐さが漂っていて、私は好きなのだ。『江戸城辺風景図』(藝大)『護持院ヶ原図』(東博)『三囲雪景図』(歸空庵所蔵と須賀川市博寄託の2件)など、後ろ姿の二人連れを描いたものが、なぜか多い気がする。なお、油彩画の名品は『浅間山図屏風』など、後期(2/7-)出品のほうが多いようだ。

 田善が『新訂万国全図』など地図の製作・出版に関わっていたことは知っていたが、医学書の図版にも貢献していたことは初めて知った。おもしろかったのは、銅版画を紙でなく布に摺ったものや、その布を用いた煙草入れや筒袋が展示されていたこと。田善が須賀川に帰郷した後、銅版画用具一式を譲り受けた門人で呉服商の八木屋半助が販売していたのだそうだ。その八木屋の看板「大日本創製 亜欧堂先生鐫 当所名産 鏤盤摺 円極庵」まで残っていて驚いた。

 晩年、須賀川に戻った田善は、洋風画とは異なる、ふつうの(?)山水人物画を多く残している。かつて師事した画僧・月僊の影響が指摘されているが、素人の目には、蕪村とか呉春の系統かなあと感じる(※月僊については、名古屋市博『画僧 月僊』の参観記録あり)。田善にとって、銅版画は松平定信の命令に応じた「仕事」で、仕事は仕事として成し遂げたのち、晩年は初心に戻って好きな絵を描いていたなら、幸せな人生だと思う。

 幸せはもうひとつあって、明治9年(1876)、明治天皇の東北巡幸の折、須賀川区会所に掲げられていた『水辺牽馬之図』が御買上となった(現・三の丸尚蔵館所蔵)。これにより、須賀川では田善への認識が新たになり、早くから顕彰と作品保存の機運が高まったという。千葉市美術館ニュース「C'n」106号に、担当学芸員の松岡まり江さんへのインタビューが掲載されているが、本展開催のきっかけも「福島県立美術館からのお声がけ」だったそうだ。「当館はこれまで、江戸絵画のなかでもマイナーなテーマも扱ってきたことがあり、お誘いいただいたのだと思います」とのこと。確かに(笑)。でも、美術史的にはマイナーでも、こんなふうに地元に愛され続けているのは、稀有なくらい、幸せな画家だと思う。

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