見もの・読みもの日記

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外交担当者と国内世論/近代日本外交史(佐々木雄一)

2023-02-14 23:45:02 | 読んだもの(書籍)

〇佐々木雄一『近代日本外交史:幕末の開国から太平洋戦争まで』(中公新書) 中央公論新社 2022.10

 本書は、サブタイトルのとおり、幕末の開国から太平洋戦争まで(巻末の年表では、1792年の露・ラクスマン来航から1945年の終戦まで)の日本外交の軌跡を通観したものである。特別に新しい発見があるわけではないが、雑に「共通理解」となっていることが、丁寧に見直されていて、歴史の解像度が上がる。

 たとえば、幕末の日本は西洋諸国から「不平等条約」を押し付けられ、明治政府はその改正に苦心する。やがて東アジアの緊張が高まり、日清戦争が勃発する。日本はこの戦争に勝利するが、三国干渉によって遼東半島の領有の放棄を求められ、国際社会でものを言うのは力だと学んだ、というのは、よく語られるストーリーだ。

 本書は以下のように解説する。まず、日本は戦争に負けて条約を押し付けられたわけではないので、比較的穏当な条件で西洋諸国と関係を結んだ。とは言え、明治政府は条件改善のため、文明国化を推進し、政治・法制度を整備することで、漸進的に日本の地位を高めようとした。ところが外交担当者が妥当と判断する内容では、国内の対外強硬論を抑えることができず、条約改正事業は何度も頓挫してしまう。対外強硬論というのは、近代日本の宿痾みたいなものかな。

 それでも最終的に日本は法権回復を果たした。この経験は日本の外交担当者たちに、国際秩序にはある種の公正さがあり、そこに積極的に適合していくことで日本は発展できる、という思考様式を与えた。この認識は、伊藤博文、西園寺公望、原敬、幣原喜重郎らに引き継がれていく。三国干渉を経験しても特に変わりはなく、力がものを言うのは自明だが、ルールや規範も確かに存在する世界として、日本の政治指導者や外交担当者は、国際社会を理解していた。ただし彼らと標準的な日本人の対外観には大きな差があった。

 日露戦争の勝利により、日本は大国の一角に参入する。外交担当者たちは、大国間で認められる正当性や公平性を強く意識して行動し、韓国併合でもイギリスやロシアの賛同を得ることに注意を払った。列強が公平に勢力を拡張することは、従属する側にとっては公平でも正当でもなかったが、これが帝国主義外交の規範意識だったのである。

 1910年代には、辛亥革命と第一次世界大戦が起きる。大戦争を遂行中のヨーロッパ諸国が中国方面に注意を向けられない状況で、日本は「標準的な帝国主義外交から逸脱した、突出した対外膨張政策」に足を踏み入れることになる。

 第一次世界大戦後の国際環境は大きく変わった。国際連盟が設立され、民族自決が唱えられ、帝国主義が批判された。規範の変容に伴い、現実が全て変わったわけではないが、列強は新たな対外膨張や軍事行動には慎重になり、より確かな口実・名分を探った。日本も例外ではなく、従来の帝国主義外交が批判の対象になってきたがために、かえって「満蒙は日本の生命線」という強い主張がひねり出される。ええー現実は逆説的に進行するのだな。

 このころ、日本移民の差別・排斥問題など、日本(人)は世界で不当な扱いを受けているのではないかという不満・不信感が強まる。国際秩序には公正さがあり、その中で日本は発展できると考えてきた、明治中期以来の外交担当者の認識に代わり、既存の国際秩序は不公正であり、日本にとって不利であるから、秩序を作り替えなければならないと主張して、世論の支持を集めたのが近衛文麿である。1930年代、日本国内の風潮は対外強硬論に振れ、日本は軍拡の時代を歩んでいくことになる。

 結局、近代日本の外交は、国外の因子よりも、国内世論に動かされてきた面が強いように思った。外交当局者(インサイダー)たちは部外者(アウトサイダー)との感覚のずれを認識していたが、当惑、軽蔑、諦めにとどまり、ずれを埋める方向には動かなかった。著者は歴史を振り返り、日本外交と国際社会に対する理解と信頼を国内に根付かせることは、より真剣に取り組まれてしかるべき課題だった、と総括しているけれど、これは今こそ必要な取り組みではないか。陰謀論やポピュリズムに流されて、再びこの国が道を誤らないために。

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