見もの・読みもの日記

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死に臨む覚悟/病牀六尺・墨汁一滴(正岡子規)

2010-01-01 23:57:44 | 読んだもの(書籍)
○正岡子規『病牀六尺』(岩波文庫) 岩波書店 1927.7
 同『墨汁一滴』(岩波文庫) 岩波書店 1927.12

 年末にNHKドラマ『坂の上の雲』の第1部全5回を面白く見た。原作を読んだのはずいぶん昔のことで、読み返したいという気持ちは起こらないのだが、香川照之の演じる正岡子規が非常にいいので、有名な晩年の随筆を読んでみたくなった。

 私は『病牀六尺』→『墨汁一滴』の順で手に取ったが、書かれた順序は逆である。『墨汁一滴』は新聞『日本』に明治34年(1901)1月16日から7月2日まで連載された。『病牀六尺』は同じ新聞に明治35年(1902)5月5日から9月17日まで127回にわたって連載された。連載が百回を越えた8月下旬、子規はしみじみと意外な喜びを語ってるが、それから1ヶ月後の9月18日に昏睡状態に陥り、19日に息を引き取った。いや、すさまじい記録である。

 高校生の頃、現国の教師が、プリントで子規の随筆を少しだけ読ませてくれた記憶がある。多少、授業を面白くしようという気もあったのだろう、寝返りもできない重病人なのに、一食に粥四椀、鰹のさしみとか、間食に菓子パン十個、塩せんべい三枚とか(これらは『仰臥漫録』に詳しい)大食いぶりに呆れたことだけを覚えている。しかし、あらためて全体を通して読むと、食べることを通じて「生」に執着した子規の精神の強靱さが感じられて、粛然とする。

 公開を予定していなかった日記『仰臥漫録』(いま読んでいる最中)に対して、この二編には最後まで「創作者」の気構えが感じられる。文章の無駄のない美しさ。人手を借りずには身動きもならず、しばしば癇癪を起こし、錯乱し、号泣する状態にありながら、意地汚い病人の自分を、持ち上げもせず、露悪的にもならず、風景のように淡々と叙述している。文語と口語の中間くらいの文体は少し古めかしいが、読めばすらすらと頭に入る。子規が、俳句・短歌評の中で、一読して情景が明瞭に浮かばない作品は駄目だ、と論じていることが思い合わされた。

 無駄のない、とは言ったけれど、ときどき意外なユーモアが仕掛けられているのも嬉しい。まあ、これは読んだ者だけが知るお楽しみ。『墨汁一滴』では、江戸後期の万葉振りの歌人・平賀元義を論じたり、「月並み」とは何かを解説したり、文学談義がわりあいに多いが、『病牀六尺』になると、枕頭に画集を開いて、古画の鑑賞に慰めを見いだすことが多くなる。子規の好んだ画家として、河村文鳳、渡辺南岳、張月樵の名前は覚えておくことにしよう。ほかにも、上野の森のフクロウから、能楽、歴史、新聞で知る世界の情勢まで、病床にあっても、さまざまに好奇心が働いていたことが分かる。今の世だったら、絶対、ネット見てただろうなー。でも、メールも携帯もないからこそ、三日と措かず、友人たちが訪ねてくる様子を見ていると、いい時代だったんだなあ、と思う。

 いよいよ死期が迫り、下半身に浮腫の症状が現れたときの「足あり、仁王の足の如し」という描写は、的確すぎて、言葉を失う。そういえば、漱石は死ぬ間際に「死ぬと困るから…」と言ったために、非難・失笑されたという話を聞いたこともあるが、悟りすました死に際なんて贋物だろう。

 と、人の死に際について考える2010年元旦。以上は、昨年読んだ本の後始末。

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