〇萬代悠『三井大坂両替店(みついおおさかりょうがえだな):銀行業の先駆け、その技術と挑戦』(中公新書) 中央公論新社 2024.2
三井高利が元禄4年(1691)に営業を開始した三井大坂両替店は、両替店を名乗りながら両替業務にはほとんど従事せず、基本的に民間相手の金貸し業を主軸とした、大型民間銀行の源流である。本書は、三井に残る膨大な史料群を読み解くことで、江戸時代の銀行業の基本業務がどのように行われていたかを解明する。
本書は、はじめに三井大坂両替店の店舗の立地や組織・人事の概要を示す。おもしろかったのは、奉公人の年齢構成・昇進・報酬などの分析である。少し前に読んだ、戸森麻衣子氏の『仕事と江戸時代』にも書かれていたが、奉公人は住み込みで独身の共同生活を強いられた。そこを辛抱すれば、退職金(元手銀)を得て、家庭を持ち、自ら商売を営むことができた。住み込み生活は10~13歳の子供時代から始まるが、共同生活に合わない者は、早々に脱落して辞めていく。あまり辞められても困るので、店側は昇給や報酬制度によって、真面目に長く勤務したほうが得になることを示す。さらに熟練の奉公人を引き留めるため、勤続24年目前後(役職つき、30代後半)には退職金が大きく上昇する仕組みをつくっていた。やっぱり勤労意欲を引き出すのは、抽象的なスローガンではなく、こういう賃金モデルだよなあ、と感心した。
家庭を持てない男たちは、遊所通いで憂さを晴らした。三井の大坂呉服店と大坂両替店は、道頓堀の芝居茶屋を出入り茶屋として指定していたことが分かっている。京都呉服店では遊興人数に応じて定額を茶屋に支払っており、奉公人にとっては、通勤・家賃補助ならぬ遊興補助だったという。この話は、2020年の歴博『性差(ジェンダー)の日本史』でも取り上げられていたと記憶するが、現代日本人の労働スタイルのよくない原型を見るようで、うんざりもし、悲しくも思った。
次に金貸し業には必須の、顧客の信用調査について説明する。大坂両替店には「日用留(にちようどめ)」「聴合帳(ききあわせちょう)」などと記された、享保年間(1730年代)から明治に至る信用調査書13冊が残っているという。借入希望の顧客が現れると、平の手代たちが情報を聞き込みに行って、その人柄・身上柄(家計状態)・担保物件の実態などを書面で上司に報告するのである。人柄は「実体(じってい)」「篤実」「質素」などが好まれ、「不身持」「派手」「山師」「我儘」などが嫌われるのは納得できる。
家庭内のゴタゴタが詳細に記録された報告書もあり、その中に、隠居した母親が、不品行の当代家長から財布(金遣いの権限)を取り上げてしまった家族の例があった。著者の説明によれば、近世の家長は「家」の一時的な代表者に過ぎず、先祖から譲り受けた財産を子孫につないでいく義務があった。その義務を果たせない、不適格な家長の場合、親族たちは「家」の代表権限を取り上げ、強制的に隠居させることができた。「男性家長の権限が強くなり、強制隠居の執行などが公認されなくなったのは、家長個人に家産の所有権を認めた明治民法(1898年施行)以降のことである」という記述を読んで、なるほどと腑に落ちた。いわゆる「家父長制」って、実は近代の産物なんだな。
担保の不動産に関する報告書は、家屋敷の評価基準が分かって、おもしろかった。もちろん老朽(築古)物件よりは新築(築浅)物件のほうがよい。しかし新築でも粗雑で出来栄えの劣る建物はよくない。土蔵の有無と状態はとても重要(へええ)。角屋敷や橋筋、あるいは繁華な地域に位置した家屋敷は、商売が始めやすく、すぐに買い手がつくので好ましい。遊郭に近いことも、夜の商いができる好条件と見られた。徹底して商いの都なのだ。
このような信用調査は、大坂両替店だけでなく、他の金貸し業者(御為替組)でも行われていた。大坂商人たちは、厳しい信用調査に通らなければ、御為替組の低利融資を受けれられないので、日頃から誠実かつ品行方正である必要があった。いわば巨大な「防犯カメラ」のある監視社会のようなものである。一部で唱えられる「江戸時代、日本人の多くは誠実であった」という言説に対して、本書は、なぜ人々は、周囲から誠実な人柄と見られなければならなかったかを明らかにする。最後は意外な着地点だが、おもしろかった。
2023年の三井記念美術館『三井高利と越後屋』展には、契約文書や帳簿が山ほど出ていて、見た目は地味だけど、三井のアーカイブすごい!と心ときめいたものである。まだまだ研究が進めば、江戸時代の社会風俗について、分かることがたくさんあるんじゃないかと思う。楽しみである。