見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

骨肉の確執/南朝全史

2005-06-16 23:06:49 | 読んだもの(書籍)
○森茂暁『南朝全史:大覚寺統から後南朝へ』(講談社選書メチエ) 講談社 2005.6

 今年の1月、久しぶりに吉野を訪ねた。蔵王堂の特別拝観が目的だったが、如意輪寺、後醍醐天皇陵など、南朝ゆかりの旧跡もまわった。それから4月は河内長野の観心寺(後村上天皇陵あり)と天野山金剛寺に行く機会があり、この半年、なんとなく南朝づいている。そこに、ちょうどいい新刊が出たので、南北朝の歴史を復習するつもりで読んでみた。

 吉野も河内長野も、奥深い緑に囲まれ、煩瑣な日常生活を忘れて、心洗われるような景勝地だった。しかし、南北朝の歴史は、骨肉の確執の繰り返しである。なんと形容すればいいだろう。特別に「血なまぐさい」わけではないが、権力を前にした人間の業の深さが、どの時代よりも際立っていて、本気で付き合い始めると、かなり精神的に消耗する歴史である。

 まず発端の後深草(持明院統)、亀山(大覚寺統)の対立は、時節柄、若貴兄弟を思い出してしまう。そのあと、大覚寺統は分裂して激しい内部抗争を繰り広げ、非主流派は、対立する持明院統に接触して存命をはかる。これがまた、自民党の派閥抗争そっくりである。権力闘争の間隙を突いて、勝利を収めたのが後醍醐天皇だが、彼は「一代の主」すなわち、暫定政権としか目されていなかった(ちょっと小泉総理みたいだ)。

 この皇位をめぐる争いに対して、調停役の武家政権が、なぜか「両統迭立」の原則を崩さないことが、いっそう話をややこしくしている。片方を是、他方を非とすれば、源氏と平家、あるいは豊臣と徳川のように、戦闘の末、一方の集団が決定的な勝利を収め、他方は消えてしまうはずなのだが、そうならない。見せかけの和睦、くすぶる怨恨、再び訪れる離反、のような、まさに今日的「日本システム」の歴史が延々と続く。

 ただ一人、このシステムに真っ向から異を唱えた後醍醐天皇は、必然的に、武家政権と衝突せざるを得なかった。彼は自分の息子(皇子)たちを最大限に利用し、おびただしい数の綸旨を発して、天皇親政の徹底を試みたが、結局、志半ばに倒れる。

 しかしながら、本書によれば、南朝の朝廷は、初めから敗北必至の脆弱な抵抗勢力だったわけではなく、多数の人材が集っており、内裏には朝儀のための施設も備わり、「新葉和歌集」の編纂など、文化事業も行われていたという。さらに、海を渡って九州を制圧した懐良親王(後醍醐天皇の皇子)は、明の洪武帝から「日本国王」として遇された。

 実にややこしいが、面白い時代でもある。登場人物が、勇猛果敢な悪党から文弱の貴族までバラエティに富んでいるし、舞台も東国から九州まで、さらに海外にも広がりを持つところが豪快である。大河ドラマで扱わないかなあ、と思うが、戦前の南朝偏重のしこりがあって難しいのかも知れない。あるいは、天皇家が万世一系でも何でもないことが喧伝されると困る人たちが今でもいるためかしら。
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江戸幕府の奥絵師/池上本門寺

2005-06-15 22:17:13 | 行ったもの(美術館・見仏)
○池上本門寺霊宝館 特別展示『狩野常信・周信・養信の遺品』

http://www.honmonji.or.jp/

 池上本門寺には、江戸幕府に仕えた狩野派(奥絵師四家)の墓所があるのだそうだ。その縁で、本門寺に伝えられた狩野派の作品を展示しているというので行ってみた。

 行ってみてびっくり。確かに狩野派の作品が展示されていることに嘘はないのだが、それとともに、墓所の移転改葬調査の際に掘り出した、さまざまな副葬品が展示されている。作品と画家の遺品(たとえば絵筆でも日用品でも)を並べて眺める経験というのは、無いではない。しかし、地中からよみがえった副葬品となると、訴えかけてくるリアルさが違う。朽ちかけた煙管とか。ツルを失った眼鏡のレンズだけとか。銅製の筆箱はすっかり緑青を吹いているのに、硯だけはきれいだった。

 さらに会場には、常信・周信の墓所の概要図が掲示されている。これを見て、またびっくり。墓室が正方形というか、立方体なのだ。これって「屈葬」ってやつ?と思ったら、近世はさすがにそう呼ばず「座葬」と呼ぶらしい。ちなみに養信の場合は掘り出した甕棺が展示されている。うーん。窮屈そうだなあ...

 江戸時代の庶民って、座葬が一般的だったのだろうか。庶民はともかく、将軍に面会できたという奥絵師の身分でありながら、こんな埋葬法では、ちょっと浮かばれない気がするのは、現代人の偏見か。

★関連情報★

 私はこの展示会のポスターを見たとき、「狩野派+東京の有名寺院」という組み合わせに、ピンと反応してしまった。確か、東京のどこかのお寺が狩野○○(忘れた)の××羅漢図(忘れた)という、すごい作品を持っているはず。もしかしてアレが出てるのか?

 しかし、これは私の早とちり。「狩野○○の××羅漢図」は「狩野一信の五百羅漢図」が正解で、所蔵者は芝の増上寺であった。赤瀬川原平さんと山下裕二さんの『日本美術応援団:オトナの社会科見学』(中央公論社 2003.6)に載っているが、著者のおふたりは、現在非公開のこの作品(全百幅)の常時一般公開を強く要望されている。

 そうしたら、ネットで調べているうち、あれ?と思う情報が引っかかってきた。東京国立博物館の年間予定の先のほうに「幕末の怪しき仏画-狩野一信の五百羅漢図」(2006/2/14~2006/3/26)というのがあるではないか! まさしくコレである。アヤシイ仏画ですぜ~。さあ、来春を楽しみにしていよう。
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絵本のような地図/鎌倉国宝館

2005-06-14 22:53:11 | 行ったもの(美術館・見仏)
○鎌倉国宝館 特別展『鎌倉の古絵図-新重文・浄光明寺絵図公開-』

http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kokuhoukan/top.html

 鎌倉およびその周辺にかかわる絵図を集めたもの。有名社寺の境内図を中心に、村や荘園の地図、名所旧跡を記した遊覧用の絵図も展示されている。

 一目見たときは、これは地味な展示だなあ、と思った。はっと目を引くような、芸術的完成度の高い彫刻や絵画があるわけではないし。これは頼朝の...とか、北条時宗の...とか、有名人が由来書に登場するわけでもないし。

 しかし、じっくり見ていると、なかなか面白いものである。ひとつは、ある程度、鎌倉の社寺に馴染みのある人間なら、ほう、江戸時代にはこんなふうだったのか、と、今の姿に重ね合わせて比較する楽しみがある。現在はあまり知られていないお寺が、意外と大きな文字で載っていたり。私は「ワメキ十王跡」と「あらいのゑんま」が分からなくて、帰ってから調べて了解した。銭洗い弁天というのは新しいのだろうか。江戸の「鎌倉絵図」には「銭洗い池」(かくれ里、と付記)としか載っていなかったが。

 もうひとつ、古絵図は多くの場合、社寺や荘園の境界線を定めるという、実利的な目的のために作られた。だから見た目の美しさには、全く頓着していないはずなのだが、やっぱり絵を描けば色を付けたくなる。建物は屋根と壁を塗り分けてみたくなるし、山には松の木の1、2本も描いてみたくなる。その結果、無邪気な子供の絵のような、あるいは絵本の挿絵のような世界が出現するのだ。

 いや、もっと似ているものがあった。小学生の頃、近所の商店街にどんなお店があるかを調べて、自分で地図を作ったことがある。まるごと町を作っていくような、あの楽しさである!

 私は、いかにも肩の力の抜けた「極楽寺境内絵図」が好きだ。それから、繁茂する植物を丹念な抽象画のように描き入れた「神武寺境内絵図」も。「建長寺境内絵図」は、かなりがんばって地形や建物の外観を細密に描き込んでおり、細部を凝視する楽しみがある。というわけで、意外と心のなごむ展示会である。
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紫陽花の季節

2005-06-13 08:17:19 | なごみ写真帖
6月といえば紫陽花。紫陽花といえば鎌倉。
まだ少し早いかなと思いながら、成就院の様子を見に行った。

それにしても不思議だ。春はサクラ、秋はモミジというのは、万葉以来のニッポンの伝統だが、こんなふうにアジサイ見物にどっと人が繰り出すようになったのは、かなり新しい都市風俗ではないかしら。

まあ、私が子どもの頃は、東京都内だって庭付き一戸建てが主流で、アジサイなんて、どこの家にも一株や二株は植わっていたからなあ。


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縄文からモダンキッチン/天下無双の建築学入門

2005-06-12 09:34:21 | 読んだもの(書籍)
○藤森照信『天下無双の建築学入門』(ちくま新書)筑摩書房 2001.9

 藤森照信氏は、1980年代、近代洋風(および擬洋風)建築を語る「建築探偵」として、私の前に現れた。赤坂離宮、駒場公園の旧前田侯爵邸、松本開智学校など、有名どころの魅力再発見に加えて、小笠原伯爵邸(今はレストランになっている!)とか、会津のさざえ堂なども、藤森先生の著作を通して知った「物件」である。

 その後、著者は、京都の桂離宮、長野の仁科神明宮、韮山の江川邸の土間、福井の大滝神社の複雑な屋根の造りなど、伝統的な和風建築にも、新鮮な視点を持ち込んで、評論の対象を広げていく。

 一方、実際の家造りでは、漆喰・割り板などの自然素材を多用し、屋根や壁面に植物を植えるなど、自然と共生する建築を目指した。キーワードは、主宰する素人建築集団の名前にもなっている「縄文」である。

 本書は、そうした著者の履歴を総ざらえしたような建築学と建築史の入門書だ。さらに本書には、これまでの著者の単行書では比較的語られることの少なかった、新鮮な、そして重要な一連のエッセイが加わっている。それは、我々がいま、実際に住んでいる普通の近代住宅の出自について、問いなおすものだ。

 ダイニング・キッチンという日本独特の間取りは、いつ誰が発明したものか。ステンレス流し台は誰が作ったか。雨戸は日本以外の国にもあるものか? ヴェランダは? 日本人は引き戸とドアーをどう使い分けてきたか。日本のドアーと他の国のドアーの違いは何か。世界各国の冷房事情と暖房事情はどうなっているか。なぜ日本の近代住宅はこんなに「明るい」のか。等々。

 時には戦後の公団関係者の証言を引き、時には江戸、時には室町の書院づくりに起源をさかのぼり、時には縄文の記憶に想像をめぐらせ、縦横無尽に論が展開する。

 専門家にとっては初歩の初歩なのだろうが、建築学の門外漢にとっては、桂離宮や法隆寺などの「名建築」を論じたものよりも、かえって「目からウロコ」の感があって、面白かった。林丈二さんのイラストも楽しい(もう少し大きくてもいいのに)。
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《鉄歯銅牙紀暁嵐3》来了!

2005-06-11 20:19:33 | 見たもの(Webサイト・TV)
○48集電視連続劇 《鉄歯銅牙紀暁嵐3》

http://ent.sina.com.cn/v/f/jxl3/index.html

 さあ、お楽しみが始まった。スカパーで接続しているCCTV(中国中央電視台)で《鉄歯銅牙紀暁嵐3》の放映が始まったのだ。本国では2004年秋に放映され、同年、北京で視聴率No.1を獲得した超人気ドラマである。

 時代は清朝、主人公は乾隆皇帝、大学士・紀暁嵐、貪官・和珅のおじさん3人組。芸達者というか、濃いというか、日本だったら、江守徹に中尾彬に、あと誰だろう? いちおう要所に美少女キャラを配しているが、イケメンは皆無。韓流ドラマとは全く対蹠的な造りで、おじさん3人の軽妙な掛け合いが、最大の魅力である。

 実は、2003年の新春、初めてスカパーにつないだ頃、ちょうど前作の《鉄歯銅牙紀暁嵐2》が放映されていた。中国のテレビは、ドラマでもバラエティでも字幕(中国語)付きが多いのだが、このドラマには字幕がなかったので、私の語学力では無理だろうなあ、と思って、はじめは敬遠していた。しかし、見てみれば、なんとかなるものである。きちんと聞き取れる単語は2割もないうえに、時代劇特有の言い回しが頻出する。宦官の自称「奴才(nucai)」とか、お父ちゃんを意味する「爹(die)」も初耳だった。それでも面白さは伝わるものだ。

 夢中になって、いろいろ調べているうち、台湾で運営されている同番組のファンサイトを見つけた。BBSに、北京の住人から「大陸のドラマが台湾でこんなに人気を集めていると知ってびっくりした。とても嬉しい」という書き込みがあった。それを読んで、日本人の私が深くうなづいているわけで、東アジアにおけるポピュラーカルチャーの連鎖の伝統を強く感じてしまった(本格的な韓流ブームが起きる直前のことである)。

 さて、帰ってきた《紀暁嵐3》であるが、風流皇帝の乾隆は初回からやりたい放題。忍者まがいの黒服姿で、わけ有りの若い美女を紀暁嵐の屋敷に預けに来る。「四庫全書」の総編纂者として名高い大学者紀暁嵐も、本編では、ただのわびしい独身中年である。《紀暁嵐2》では、富貴のために殺人も辞さなかった貪官の和珅は、今のところ「老紀」のいい相棒を決め込んでいるが、果たして?
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雑学の祝祭/綾とりで天の川

2005-06-10 06:50:02 | 読んだもの(書籍)
○丸谷才一『綾とりで天の川』 文藝春秋社 2005.5.30

 私は丸谷才一ファンである。学生時代から読み始めて、かれこれ20年のつきあいになる。主要な著作はひととおり読んでしまったので、今は新刊を待つことが愉しみになった。

 まず書店の棚で、その洒落たタイトルと和田誠さんの表紙を賞味する。毎回、意味シンのような、ただの語呂合わせのようなタイトル(ふむ、今回はこう来たか!)には発句の趣きがあり、和田誠さんの表紙は、これを受ける付け句の味わいがある。さて買い求めて、中味はゆっくり時間をかけて楽しもうと思いながら、結局、一気に読んでしまう。

 もともと趣味が合うからファンになったのだが、知らず知らずに丸谷さんから受けた影響も大きいかもしれない。たとえば文体。まだまだ及びもつかないが、丸谷さんのエッセイは、私にとって文体の規範である。平易な言葉で、読者の耳に語りかける書きぶりだが、意味の正確な、伝統にのっとった言葉遣いを良しとする。背広姿で平然と閑談するおじさんの如し(靴下を脱いだり、ワイシャツの袖をまくるような無作法はしない)。

 新語、造語、自分でもよく分かっていないような難しい言葉、感情が先走るような大仰な表現は避ける。一方、(学校教育では必ず嫌われる)常体と敬体が混じることはあまり気にしない。ね、そうじゃないかしら。

 文学においては伝統主義者である。もう少し丁寧に言うと、「伝統」が生み出す価値と、それを「革新」する意義を正しく理解している。

 それから、「祝祭」が好き。

 もうひとつ、雑学が好き(やっと本書の話である)。しかも、かなりブッキッシュな(本に拠った)雑学である。「雑学百科100」みたいな、断片的な雑学本の話ではない。一般書店では見たこともないような、その道の専門家が書いた研究書をタネ本に、いちばん美味しいところだけを、分かりやすく料理し、手際よくサーブしてくれる。このとき、味付けの役割をするのが、著者の幅広い読書経験と、見事な記憶力で、この本の話題からあの本の話題へ、思わぬ橋渡しが見られるところが、丸谷エッセイの真骨頂と言っていいだろう。

 本書でいえば、『薔薇の名前』のウンベルト・エーコがイスラム原理主義とヨーロッパの対立について書いた新聞エッセイをまくらに、ベン・ロジャース『ビーフと自由』(邦訳はないみたい)に拠ってイギリス人と牛肉の関係を論じ、最後はロースト・ビーフは厚切りに限る、という持論を展開する。

 アランの『定義集』を読んで、ヘーゲルが『歴史哲学講義』で下した「英雄」の定義を思い出し、『フロント・ページ』という、20世紀の欧米諸国の雑誌の表紙を集め論じた本を紹介して、「スターとは雑誌の表紙になる人である」という定義を下す。等々。

 こんな要約では、本書の面白さを伝えようがないので、もう辞めておこう。巻末に置かれた「野球いろは歌留多」がとても楽しい。これぞ「祝祭」気分。
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利休の気持ち/町田市立博物館

2005-06-09 18:26:59 | 行ったもの(美術館・見仏)
○町田市立博物館『東南アジアの壺―仮面とともに―』展

http://www.city.machida.tokyo.jp/shisetsu/cul/d_cul02_y/cul02/index.html

 学芸員をしている知人から「こんなのやっているんですけど」と教えられて、初めて行った博物館である。町田駅からバスで15分くらい。平屋造りの博物館の隣には、深い雑木林が広がっている。縄文・弥生時代の住居跡が見つかったので、遺跡公園と呼ばれているらしい。

 東南アジアの焼き物を、こんなふうにまとめて見るのは初めてのことで、いろいろ興味深かった。展示は2室。最初の部屋にあるものは、最大径が40cm以上もあって、かなり大きい。水でも穀類でも、中味が半分も入っていたら、もう持ち上がらないのではないかと思う。最盛期の伊万里や中国の陶磁器にも、かなり大きいものがあるが、皇帝や貴族の大邸宅を飾った華麗な贅沢品とは、だいぶ趣きが異なる。これらは生活用品であると同時に、神の宿る霊的な財産(威信財と呼ぶ)でもあった。壺には雌雄があり、時には予言をし、時には壺どうしで結婚(!?)することもあるとか。

 私がその霊妙さを感じたのはミャンマー産の壺である。胴まわりに比べて背の低い、よく栄養を貯めたクロッカスの球根のようなかたちをしていた。色は黒褐釉(全体が濃茶色)とか白釉褐彩(薄茶に濃茶で文様を描く)とか、大地の恵みを凝縮したような茶色が多い。一方、ベトナムには青花と呼ばれる種類の壺もあるが、中国趣味の青花と違って、地の白と文様の青の境が定かでなく、いかにも南方の湿気の多い空気を思わせる。

 第2室には、花入れや茶入れになりそうな小型の壺が集められていた。そうそう、利休って、こういう南方の焼き物の美を愛でて、銘を付けたり、目利きをしたりして遊んでいたのではなかったっけ。

 手のひらに隠れるほどのミニサイズの壺は、檳榔(びんろう)を噛むのに用いる石灰を入れていたものだという。たぶん現地では使い捨てくらいの気持ちで大量に焼かれているのだと思うが、ひとつひとつ微妙な差異と風合いが楽しかった。
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建築家・関野貞/東京大学総合研究博物館

2005-06-08 08:20:32 | 行ったもの(美術館・見仏)
○東京大学総合研究博物館 特別展示『東京大学コレクションXX:関野貞アジア踏査―平等院・法隆寺から高句麗古墳壁画へ』展

http://www.um.u-tokyo.ac.jp/

 関野貞(ただす)という建築史家の名前は、どのくらい知られているのだろうか。総合研究博物館のニューズレターにこの特別会の紹介を寄稿した藤井恵介先生も、同様の疑問から文章を起こしている。

 関野貞は、明治28年、帝国大工科大学造家学科(現在の建築学科)を卒業し、奈良県や東方文化学院に籍を置き、最後は東大の教授となった。日本、中国、朝鮮半島をたびたび踏査して、東アジアの古文化財に関する膨大な調査資料を残している。

 このように要約すると、同時代の建築家・伊東忠太を思い出す人が多いと思う(2人は同じ1867年=慶応3年生まれである)。しかし、伊東忠太の名前が一般に知られるようになったのも、1997年、東京大学が創立120周年を迎えるに当たり、まさにこの総合研究博物館が催した展示企画『精神のエクスペディシオン』あたりが端緒ではなかったか。2003年、日本建築学会建築博物館が設立記念イベントとして企画した『伊東忠太展』は、建築関係者に限らず、さまざまな「物好き」たちを集めていた。だから関野だって、10年後には、けっこう知られた存在になっているかもしれない。

 もし、日本・中国・朝鮮の古文化財(建築でも仏像でも絵画でも)に興味があって、「関野を知らない」という人には、ぜひ覗いてみてほしい展示会である。点数は少ないが、ガラス乾板には、近代初頭の東アジアにおける古文化財の姿が、生々しく残されている。いまや世界中から観光客を集める韓国・慶州の仏国寺の、なんと荒れ果てた様であることか。模写も貴重である。大分県富貴寺の内壁に描かれた楽を奏する天女たちは、ふっくらした下膨れの面差し、柔和で小さな目鼻立ちが、はっきり写し取られている。現在の平壌近郊に位置する高句麗古墳(江西古墳)壁画の青龍は、畳1枚以上もある大判で、呪術的な迫力で迫ってくる。

 しかしながら、はっきり真実は言っておこう。この展示会は、関野貞の膨大な仕事の1割の紹介にもなっていない。日本と朝鮮半島に関しては、それなりの資料が展示されているが、中国は全く抜け落ちている(山西省の天龍山石窟の発見など、関野の功績は大きいはずなのに)。実は関野の残した膨大な資料は、まだまだ東大の各所に、手付かずで埋もれているらしいのである。

 だが、伊東忠太の有名な絵日記(フィールドノート)だって、1997年にこの博物館で初(?)公開されたときは、ごく一部の整理しか済んでいなかった。それから全点の整理が済んで、建築博物館に引き取られるまでは6年を要したのだ。関野の資料整理もまだ始まったばかりである。今後の進展を見守りたい。
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旅の終わりに/僕の見た「大日本帝国」

2005-06-07 00:16:49 | 読んだもの(書籍)
○西牟田靖『僕の見た「大日本帝国」:終わらなかった歴史と出会う旅』情報センター出版局 2005.2

 かつて日本の領土は広かった。北はサハリン(樺太)の南半分、南はミクロネシアにまで広がっていた。本書は、2000年の夏、原付バイクで走ってみたくてサハリンに渡った著者が、海沿いの村に遺された神社の鳥居を見つけ、正確な日本語を話す東洋系の老人に「今日は終戦記念日ですね」と話しかけられて愕然とした体験に始まる。

 それから、「あまり考えてこなかった、祖国、日本の過去というもの」を訪ねて、台湾、韓国、北朝鮮、中国東北部(旧満州)、ミクロネシア(南洋群島)を巡り、「大日本帝国」の元領土を踏破する長い旅が始まる。

 最近、日中韓三ヶ国の歴史学者が共同編集した『未来をひらく歴史』(高文研)という教科書が刊行された。教科書と言ってもかなり思想宣伝的な性格が(作る会の教科書とは別の意味で)強くて、「教科書にはとても使えない」「副読本ならいいんじゃないか」「いや、副読本にもならない」という論戦が、テレビの中で行われていた。

 この教科書への評価はさておき、もし私が中学か高校の教師だったら、本書を副読本に使ってみたい気がする。本書の著者は1970年生まれ。戦後民主主義教育の中で漠然と「戦争はいけないもの」と教えられ、しかしながら「戦争の実態」は何も知らずに育ってきた。これは、思想的に右でも左でもない、気のやさしい、しかし少しばかり意思の強い、普通の戦後生まれの青年の旅の記録である。

 リアルな「大日本帝国」の旧領土には、リアルな生活があった。あきらめ。捨てられない希望。反日と親日。当たり前だが、ひとりひとりが異なる、リアルな戦後を過ごしていた。心やさしい著者は、彼らのひとつひとつの人生に、できるだけ丁寧に向き合おうとする。ためらい。とまどい。忍耐。伝わらない思い。「論理」でも「感情」でも「政治」や「運命」でも割り切れない何かが、そこには残ってしまう。

 当たり前だが、戦前の日本人が全て鬼だったわけではない。誠心誠意、現地の人々の幸福を願って、社会インフラの整備や生活水準の向上に尽くした人々もいる。これを「侵略と謝罪」のような、たったひとつの態度で括って捨てることには、確かに問題がある。しかしながら、彼らの存在をもって、国家の犯罪を免罪してもらおうとするのは、やはりお門違いであると思う。

 2004年8月、旅の終わりに、著者は終戦記念日の靖国神社を訪れる。そこで著者は、しばし戦後日本のタブーから解き放たれたように、熱っぽく戦争体験を語り合う、元日本兵らしき老人の集団を境内のあちこちで目撃する。

 ふーむ。私はこのエピローグを読みながら考えた。戦後の日本社会において、声高に戦争体験を語ることは、長い間、タブーだった。戦争は「恐ろしいもの」「忌避すべきもの」であって、それ以外の形容は許されてこなかった、と言ってよい。だから、自分の言葉で戦争を語りたい、かつての戦友と旧交を暖め、共有体験を確認したい、と願う者にとっては、「靖国」だけが最後の拠り所だったのだ。

 もしかすると、いまの我々に必要なことは、戦中世代に対する「太陽政策」なのではなかろうか。北朝鮮という抑圧的独裁国家は、高圧的な制裁措置でなく、対話と協調という融和政策によってこそ、解体することができる、と韓国政府は言う。

 同様に、日本において、ナショナリストの結束を解体し、「靖国」の権威を失墜せしめるために必要なのは、実は彼らに対する拒絶と不寛容ではなく、いっそ日本の社会の中に、戦争についての語りを、あれもこれも、アナーキーに蔓延させてしまったら、どうなんだろう。そんなことを考えた。ただし、もちろん日本政府は、いずれの言論からも一定の距離を保つものでなくてはならないが。
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