○五味文彦『絵巻で読む中世』(ちくま学芸文庫) 筑摩書房新社 2005.8
1994年10月、ちくま新書の1冊として刊行されたものの文庫版。はじめに概論的に『鳥獣人物戯画』と『年中行事絵巻』の2作品を論じ、『伴大納言絵巻』と『信貴山縁起絵巻』は各巻1章をあてて、じっくり読み込む。最後に今昔物語集に見える「猫怖(ねこおじ)の大夫」の説話をもとに、架空の絵巻『猫怖大夫草紙』の創作にチャレンジ(!)する。各章は、著者の一人称による記述と、語り手「A」「B」の対話仕立ての解説が交互にあらわれるという異色の著述スタイル。学術的に「濃い」内容にもかかわらず、いろいろと果敢な試みが見られて、非常に面白い。
まず『鳥獣人物戯画』について、私が驚いた著者の解釈を「ネタバレ」で書いてしまうと、「どうも猿が蛙を殺したものらしい。その殺された蛙が仏となって僧に供養されていたと考えられる」という。葉っぱの光背を背に結跏趺坐のポーズをとる蛙の後ろには梟が描かれており、これは「死」の象徴なのだそうだ。そんな…ほのぼの動物マンガが、一挙に陰惨な殺人絵巻になってしまって、驚愕した。梟の視線は絵を見る読者に向かっており「茶番劇は見透かしているぞ、といった風に僕には見える」と著者(話者A)は語っている。
『伴大納言絵巻』は、菅原道真の御霊を素材とした『北野天神縁起絵巻』と同様、伴善男の御霊の鎮魂を目的として作成されたものだという。そうかー、絵画作品としての完成度があまりに高すぎるので、制作意図=御霊の鎮魂なんて考えたこともなかった。いま、Wikiで『伴大納言絵巻』を見ると、参考文献として本書は挙がっておらず、御霊信仰についても触れられていない。あまり賛同を得なかった説なのだろうか。いみじくも話者Bの言葉どおり、善男の謀略をあばく内容で「鎮魂になるの?」と疑問を呈したくなるのが、現代人の感覚だろう。これに対し、話者Aは、鎮魂というのは、御霊の訴えを聞くことであって、「真相は異なる」ということを語るものではないんだ、と答えている。たとえば、清盛の悪事を書き並べた『平家物語』にも鎮魂の意図があるという。これは、納得できる解釈だけど、古代や中世の人々も本当にそんなふうに思っていたのかしら…。
また、著者はこの絵巻には「訴え」の三類型が描かれていると見る。善男の公への訴訟(最も一般的)、良房の天皇への直訴、信の天道への訴え(庭で訴える庭中とも。寺院の大衆の強訴にも通じる。天から神を下ろして訴える)である。それから、検非違使の主要な仕事(火事の警護から検断、追捕)が全て描かれているという指摘も興味深い。
『信貴山縁起絵巻』は、聖と王権というキーワードで読み解く。里に住む平凡な僧、都に住み、内裏に参ずる顕密の僧との対比で、山の聖・命蓮の生き方こそが理想として表現される。また、最終巻には、旅する女性(尼公)と、多くの女性たちの姿が、生き生きと描かれている点に注目する。
最後の『猫怖大夫草紙』の創作は本当に面白い。説話に書かれた事柄、しかも具体的な事物でないこと(猫嫌い)をどう表現するか。鼠がわがもの顔に走り回っているとか、犬が飼われていて猫が入ってこられないとか、説話の詞章を補って、いろいろなアイディアが示される。猫を見つけた主人公が冠を放り投げて逃げる図とか。既存の絵巻を例に挙げて、『伴大納言絵巻』の源信の邸宅を参考に、とか、『絵師草紙』の構図を利用しよう、等の構想も、いちいち肯かれる。誰か、実際に描いてみてほしいなあ。読解は創作に極まるのかもしれない。
ところで、「文庫本へのあとがき」によれば、2002年に出た黒田日出男著『謎解き 伴大納言絵巻』は、絵巻に描かれた「謎の人物」に関して、本書の説を「自由気儘な解釈」と批判しているという。おやおや。私は黒田先生の本も好きだが、本書も面白かった。どちらも、きちんと筋の通った学術研究だと思うが、確かに黒田先生が「絵画ひとすじ」であるのに対し、著者のほうが、さまざまな材料を自由に援用して解読を試みている感はある。
○橋元良明『メディアと日本人:変わりゆく日常』(岩波新書) 岩波書店 2011.3
2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震発生以来、メディアについて考えることが多かった。動画サイトでは、衝撃的な動画を何度も見た。出所はさまざまだったが、もとをたどれば、プロのジャーナリストではなく、被災者や、災害現場に居合わせた人が記録したものが多かったように思う。こうした「災害報道」を体験したのは、初めてのことだ。
一方、こんなに長時間テレビを見たのも久しぶりだった。本書によれば、「いちはやく世の中のできごとや動きを知るメディア」として、テレビは、まだまだ「揺るぎぎない地位を保っている」という。今回の震災体験がなかったら、私はこの分析を懐疑的に受けとめたと思うが、今は非常に了解できる。インターネットは、自分から能動的に情報にアクセスできる点が強味だが、そこから知り得る「世論の雰囲気」は、自分の趣味や希望的観測で、独自に編集している可能性が強い。その危険性を、どこかで察知している人間は、「様々な争点に対する大まかな国民的感情」を知りたいとき、テレビを選ぶのだ。
しかし、NHKの震災報道番組が、Ustreamやニコニコ動画に開放されていることが分かると、一人暮らしの私は、テレビの受像機よりも、動画サイトで放送を見ることを好んだ。ひとりで災害報道に向き合うのは、つらい。感情的につらいというより、情報の是非判断の負担が大きいのだ。Ustやニコ動だと、コメントやtwitterの書き込みが流れるので、ほかの視聴者が放送内容に対してどんなスタンスを取っているか、「ほう」「なるほど」と納得しているのか、「嘘くせえ」「何か隠してる」と批判的に見ているのかが分かる。このノイジーな付加情報がけっこう貴重だったと思う(サイトが検閲を加えていたかもしれないが、何もないよりはいい)。
本書は、1995年以来5年おきに『日本人の情報行動調査』を実施している著者が、そのデータをもとに、主要メディア(新聞、雑誌、テレビ、インターネット等)の利用実態の変化を論じたもの。その前提として、近世以来の日本人独特のメディアに対するメンタリティ(技術受容のすばやさ、器用さ)も紹介されている。
なので、本書には、この1、2年の新たなメディアの出現をもって、古いメディアが今すぐ消滅する!?というような「煽り」はない。「煽り」がないので、読みものとしては、正直、あまり面白いとは言えなかった。しかし、世代差をならしてみれば、人の行動は意外と保守的なもので、信頼できる実証的な研究とは、こういうものかもしれない。
インターネット利用について「マタイの法則」が指摘されているのは面白かった。聖書の「富む者はますます富み、貧しい者はますます奪われる」を踏まえたもので、外向的な人はネット利用によって、さらに社会参加が活発になり、ますます情報資源を拡大して豊かになっていく。逆に内向的な人は、ネット利用によってますます孤独感が増すという。それから、これはネットに限らないが、集団討議は、個人が単独で決定を行うより、より勇ましい結論になりやすい(逆もあり。正確には、個々のメンバーの持っている特性が強められた結論が出やすい)と言われており、ネット議論の特性になっているという。
それから、「クラウド・コンピューティング」志向は、われわれの知識のありかたに変更を迫るだろう、という指摘も面白かった。有史以来、知識の記憶力は、知力を構成する大きな要素であった。しかし、今後は、いかに早く目的とする情報にアクセスできるか、その情報を編集できるかが、重要な社会的スキルとなってくる。にもかかわらず、いわゆる学力が、相変わらず記憶力で測定されている現状は(わけのわからない人間力とか言っているのと同じくらい)大きな問題であると思う。
また、インターネットは何も新しいものを付加していないという指摘も、今回の震災報道で実感した。マスメディアの取材力によらなければ、現場の情報の入手や編集(信頼できる解説委員の配置など)は困難だったと思う。その点でも、インターネットという「回路」のビジネスモデルを早急につくらなければ、われわれの情報環境は荒地化を避けられないと思う。
2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震発生以来、メディアについて考えることが多かった。動画サイトでは、衝撃的な動画を何度も見た。出所はさまざまだったが、もとをたどれば、プロのジャーナリストではなく、被災者や、災害現場に居合わせた人が記録したものが多かったように思う。こうした「災害報道」を体験したのは、初めてのことだ。
一方、こんなに長時間テレビを見たのも久しぶりだった。本書によれば、「いちはやく世の中のできごとや動きを知るメディア」として、テレビは、まだまだ「揺るぎぎない地位を保っている」という。今回の震災体験がなかったら、私はこの分析を懐疑的に受けとめたと思うが、今は非常に了解できる。インターネットは、自分から能動的に情報にアクセスできる点が強味だが、そこから知り得る「世論の雰囲気」は、自分の趣味や希望的観測で、独自に編集している可能性が強い。その危険性を、どこかで察知している人間は、「様々な争点に対する大まかな国民的感情」を知りたいとき、テレビを選ぶのだ。
しかし、NHKの震災報道番組が、Ustreamやニコニコ動画に開放されていることが分かると、一人暮らしの私は、テレビの受像機よりも、動画サイトで放送を見ることを好んだ。ひとりで災害報道に向き合うのは、つらい。感情的につらいというより、情報の是非判断の負担が大きいのだ。Ustやニコ動だと、コメントやtwitterの書き込みが流れるので、ほかの視聴者が放送内容に対してどんなスタンスを取っているか、「ほう」「なるほど」と納得しているのか、「嘘くせえ」「何か隠してる」と批判的に見ているのかが分かる。このノイジーな付加情報がけっこう貴重だったと思う(サイトが検閲を加えていたかもしれないが、何もないよりはいい)。
本書は、1995年以来5年おきに『日本人の情報行動調査』を実施している著者が、そのデータをもとに、主要メディア(新聞、雑誌、テレビ、インターネット等)の利用実態の変化を論じたもの。その前提として、近世以来の日本人独特のメディアに対するメンタリティ(技術受容のすばやさ、器用さ)も紹介されている。
なので、本書には、この1、2年の新たなメディアの出現をもって、古いメディアが今すぐ消滅する!?というような「煽り」はない。「煽り」がないので、読みものとしては、正直、あまり面白いとは言えなかった。しかし、世代差をならしてみれば、人の行動は意外と保守的なもので、信頼できる実証的な研究とは、こういうものかもしれない。
インターネット利用について「マタイの法則」が指摘されているのは面白かった。聖書の「富む者はますます富み、貧しい者はますます奪われる」を踏まえたもので、外向的な人はネット利用によって、さらに社会参加が活発になり、ますます情報資源を拡大して豊かになっていく。逆に内向的な人は、ネット利用によってますます孤独感が増すという。それから、これはネットに限らないが、集団討議は、個人が単独で決定を行うより、より勇ましい結論になりやすい(逆もあり。正確には、個々のメンバーの持っている特性が強められた結論が出やすい)と言われており、ネット議論の特性になっているという。
それから、「クラウド・コンピューティング」志向は、われわれの知識のありかたに変更を迫るだろう、という指摘も面白かった。有史以来、知識の記憶力は、知力を構成する大きな要素であった。しかし、今後は、いかに早く目的とする情報にアクセスできるか、その情報を編集できるかが、重要な社会的スキルとなってくる。にもかかわらず、いわゆる学力が、相変わらず記憶力で測定されている現状は(わけのわからない人間力とか言っているのと同じくらい)大きな問題であると思う。
また、インターネットは何も新しいものを付加していないという指摘も、今回の震災報道で実感した。マスメディアの取材力によらなければ、現場の情報の入手や編集(信頼できる解説委員の配置など)は困難だったと思う。その点でも、インターネットという「回路」のビジネスモデルを早急につくらなければ、われわれの情報環境は荒地化を避けられないと思う。
○サントリー美術館 開館50周年記念『美を結ぶ。美をひらく。』「I 夢に挑む コレクションの軌跡」展(2011年3月26日~5月22日)
サントリー美術館の開館50周年を記念する展覧会シリーズその1。同館は、1961年に東京・丸の内に開館して以来、1975年の赤坂見附への移転を経て、2007年に六本木へ移り、今年、開館50周年を迎えた。丸の内パレスビル時代はさすがに知らなかった。展示されていた完成イメージ図を見ると、格調高いが華はない、いかにもオフィスビルの中の展示施設で、ちょっと神田の天理ギャラリーを思わせる。
開館記念展の図録の表紙に使われていたのが、かなり大ぶりの織部四方蓋物。白地に黒の幾何学模様に明るい緑釉をさっと刷いた青織部である。何度か見ている作品だが、これが開館記念展の目玉だったのか…と思うと、感慨深い。
「生活の中の美」を基本理念に掲げた同館で、最初に充実を見たのは、漆工のコレクションだったという。小さな蒔絵香合の優品がたくさん並んでいて、もの珍しかった。『兎蒔絵茶箱』も初見のような気がする。育ち過ぎたようなウサギがブサ可愛い。こういうコレクション展は、ふだん二番手、三番手に控えていて、あまり見られない作品が見られて、おもしろい。
「屏風と御伽草子」の説明に「掛軸に対する屏風の比率が高い」ことが、同館コレクションの特徴として挙がっており、なるほどと思った。数が多いと、どうしても登場回数は減る。金泥の雲と渓流に咲く桜を描いた『吉野図屏風』は、晴れやかで美しかった。2007年の開館記念展に出ているが、展示替えがあったので、見ているかどうか。奈良絵本『かるかや』、絵巻『鼠草子絵巻』、白描『善教房絵巻』など、一見するだけで微笑まれる作品が多いが、注目はサルを擬人化して描いた『藤袋草子』絵巻。現在(~4/18)は、擬音の多い場面が開いていて楽しい。変体仮名には自信がないのだが、酒をつぐ音は「つぶつぶ」かな?(狂言では「どぶとぶ」だが…。)笛、太鼓、鼓を奏するサルたちのまわりにも、擬音らしきものが書き込まれているので、ぜひ読み解いてほしい。
同館の誇るコレクションのひとつに「ガレと世紀末のガラス」があるが、実は、これまで興味がなくて、一度も見たことがなかった。ランプ『ひとよ茸』がこんなに大きいとは、衝撃的。
それから茶道具を見て、最後が「新収蔵品初公開」のセクション。伝・狩野元信の『雪中花鳥図屏風』(特に左隻)は、どこかで見たことがあるような気がする…。胸の赤い大きな鳥が記憶に残っているのだが、類品を見たのかな。解説に「吐綬鶏」とあって、何のことかと思ったら、シチメンチョウをいうのだそうだ。
参観中に館内放送で地震警報が流れて、ちょっと緊張した。しばらくこんな感じなのかな。嫌だなあ。
サントリー美術館の開館50周年を記念する展覧会シリーズその1。同館は、1961年に東京・丸の内に開館して以来、1975年の赤坂見附への移転を経て、2007年に六本木へ移り、今年、開館50周年を迎えた。丸の内パレスビル時代はさすがに知らなかった。展示されていた完成イメージ図を見ると、格調高いが華はない、いかにもオフィスビルの中の展示施設で、ちょっと神田の天理ギャラリーを思わせる。
開館記念展の図録の表紙に使われていたのが、かなり大ぶりの織部四方蓋物。白地に黒の幾何学模様に明るい緑釉をさっと刷いた青織部である。何度か見ている作品だが、これが開館記念展の目玉だったのか…と思うと、感慨深い。
「生活の中の美」を基本理念に掲げた同館で、最初に充実を見たのは、漆工のコレクションだったという。小さな蒔絵香合の優品がたくさん並んでいて、もの珍しかった。『兎蒔絵茶箱』も初見のような気がする。育ち過ぎたようなウサギがブサ可愛い。こういうコレクション展は、ふだん二番手、三番手に控えていて、あまり見られない作品が見られて、おもしろい。
「屏風と御伽草子」の説明に「掛軸に対する屏風の比率が高い」ことが、同館コレクションの特徴として挙がっており、なるほどと思った。数が多いと、どうしても登場回数は減る。金泥の雲と渓流に咲く桜を描いた『吉野図屏風』は、晴れやかで美しかった。2007年の開館記念展に出ているが、展示替えがあったので、見ているかどうか。奈良絵本『かるかや』、絵巻『鼠草子絵巻』、白描『善教房絵巻』など、一見するだけで微笑まれる作品が多いが、注目はサルを擬人化して描いた『藤袋草子』絵巻。現在(~4/18)は、擬音の多い場面が開いていて楽しい。変体仮名には自信がないのだが、酒をつぐ音は「つぶつぶ」かな?(狂言では「どぶとぶ」だが…。)笛、太鼓、鼓を奏するサルたちのまわりにも、擬音らしきものが書き込まれているので、ぜひ読み解いてほしい。
同館の誇るコレクションのひとつに「ガレと世紀末のガラス」があるが、実は、これまで興味がなくて、一度も見たことがなかった。ランプ『ひとよ茸』がこんなに大きいとは、衝撃的。
それから茶道具を見て、最後が「新収蔵品初公開」のセクション。伝・狩野元信の『雪中花鳥図屏風』(特に左隻)は、どこかで見たことがあるような気がする…。胸の赤い大きな鳥が記憶に残っているのだが、類品を見たのかな。解説に「吐綬鶏」とあって、何のことかと思ったら、シチメンチョウをいうのだそうだ。
参観中に館内放送で地震警報が流れて、ちょっと緊張した。しばらくこんな感じなのかな。嫌だなあ。
○NHK土曜ドラマ『TAROの塔』(2011年2月26日~4月2日、全4回)
テレビドラマはあまり見ないのだが、年に1作くらいは良作にあたることがある。この作品は、岡本太郎とその両親(かの子、一平)に関心があったこと、万博の1970年という時代に興味があったこと(私は小学生だった)、そして、脚本が『風林火山』の大森寿美男氏であることから、見てみようと判断した。
前半は、芸術家の業に生きた岡本かの子の恐ろしさと魅力を、寺島しのぶが怪演。夫・一平の情けなさと懐の深さを演じた田辺誠一もよかった。2話と3話の間で東北地方太平洋沖地震が起き、放送が2週間延期され、3話はL字画面に地震速報テロップも出るという、惨憺たる有様だったが、それでも一本芯の通ったドラマは、びくともしないものだ、と感じた。後半は、敏子を演じた常盤貴子が好演。特に、母・かの子の存在に捉えられていた太郎を開放し、新たな岡本太郎を生み出す「戦友」として、二人の関係が決定づけられる3話の演技は鳥肌ものだった。
「結局、人の愛し方というのは、その人間の意志というより能力によって決まるんだ。たとえどんなに努力をしようと、その人間にしか出来ない愛し方をするより、仕方ないんだ」というのは、かの子を失った後の一平が、平凡な幸せを捨てて、太郎と共に生きる決意をした敏子に語ったもの。何か書かれた材料があるのかと思って聞いていたが、大森脚本のオリジナルなのだろうか。4話は、世間に誤解され、難病に苦しんだ晩年の太郎と、それを必死に支えた敏子の関係が中心となり、万博のエピソードはやや後景に退く。そのため「俗に流れすぎ」という批判もネットで見たけど、ひととき「戦友」を超えて、介護される夫と介護する妻の、平凡な愛情が垣間見えたあたり、胸がつまった(太郎の没後、敏子は再び戦闘モードに入っていくのだけど)。
かの子と敏子という二人の女性に祝福され、支えられ、創造された岡本太郎という芸術家。ドラマの冒頭が、なぜ沖縄の巫女集団の神事イザイホーのフィルムでなければならなかったかの意味が、しみじみと分かってくる。ああ、いいドラマだった。主役・岡本太郎を演じた松尾スズキが、ドラマの公式サイトに「あのなにもない日本のまっただなかで、火だるまになりながら、それでも芸術の必然性を主張し続けてくれていた」と書いている。「火だるまになりながら」というのは、表現者でなければ分からない共感だと思う。
三輪明宏の歌う主題歌『水に流して』もよかった。歌詞が作品のテーマにぴったり合っている。かの子の死に際のポーズが、太郎の最後の絵画作品『雷人』に重なっているなんていう演出も芸が細かい。でも、ドラマの伏線って、本来こういう、何度も見なおしたり科白を聞き直して初めて気づくものを言うんだよなあ。NHKに受信料を払う意味が見いだせるドラマだった。
テレビドラマはあまり見ないのだが、年に1作くらいは良作にあたることがある。この作品は、岡本太郎とその両親(かの子、一平)に関心があったこと、万博の1970年という時代に興味があったこと(私は小学生だった)、そして、脚本が『風林火山』の大森寿美男氏であることから、見てみようと判断した。
前半は、芸術家の業に生きた岡本かの子の恐ろしさと魅力を、寺島しのぶが怪演。夫・一平の情けなさと懐の深さを演じた田辺誠一もよかった。2話と3話の間で東北地方太平洋沖地震が起き、放送が2週間延期され、3話はL字画面に地震速報テロップも出るという、惨憺たる有様だったが、それでも一本芯の通ったドラマは、びくともしないものだ、と感じた。後半は、敏子を演じた常盤貴子が好演。特に、母・かの子の存在に捉えられていた太郎を開放し、新たな岡本太郎を生み出す「戦友」として、二人の関係が決定づけられる3話の演技は鳥肌ものだった。
「結局、人の愛し方というのは、その人間の意志というより能力によって決まるんだ。たとえどんなに努力をしようと、その人間にしか出来ない愛し方をするより、仕方ないんだ」というのは、かの子を失った後の一平が、平凡な幸せを捨てて、太郎と共に生きる決意をした敏子に語ったもの。何か書かれた材料があるのかと思って聞いていたが、大森脚本のオリジナルなのだろうか。4話は、世間に誤解され、難病に苦しんだ晩年の太郎と、それを必死に支えた敏子の関係が中心となり、万博のエピソードはやや後景に退く。そのため「俗に流れすぎ」という批判もネットで見たけど、ひととき「戦友」を超えて、介護される夫と介護する妻の、平凡な愛情が垣間見えたあたり、胸がつまった(太郎の没後、敏子は再び戦闘モードに入っていくのだけど)。
かの子と敏子という二人の女性に祝福され、支えられ、創造された岡本太郎という芸術家。ドラマの冒頭が、なぜ沖縄の巫女集団の神事イザイホーのフィルムでなければならなかったかの意味が、しみじみと分かってくる。ああ、いいドラマだった。主役・岡本太郎を演じた松尾スズキが、ドラマの公式サイトに「あのなにもない日本のまっただなかで、火だるまになりながら、それでも芸術の必然性を主張し続けてくれていた」と書いている。「火だるまになりながら」というのは、表現者でなければ分からない共感だと思う。
三輪明宏の歌う主題歌『水に流して』もよかった。歌詞が作品のテーマにぴったり合っている。かの子の死に際のポーズが、太郎の最後の絵画作品『雷人』に重なっているなんていう演出も芸が細かい。でも、ドラマの伏線って、本来こういう、何度も見なおしたり科白を聞き直して初めて気づくものを言うんだよなあ。NHKに受信料を払う意味が見いだせるドラマだった。
○府中市美術館 企画展『江戸の人物画-姿の美、力、奇』(前期:2011年3月25日~4月17日)
東北地方太平洋沖地震の影響で、首都圏の美術館・博物館も多くが休館を余儀なくされていたが、先週末あたりから少しずつ開き始めた。
同展は、これまで「百花の絵」(→見ていない)「動物絵画」「山水に遊ぶ」と、テーマ別に江戸絵画を扱って来た同館が、今度は描かれた「人のかたち」に注目した展覧会。展示リストを見ると「個人蔵」が多くて、ああ、めずらしい作品を集めてくれたんだなあ、と嬉しい。
冒頭は、春木南湖(よく知らない)の『項羽図』と円山応挙の『布袋図』で始まる。デカいなあ、と思ったけど、なぜ人は「等身大」の人の姿を描きたがるのか、という問題提起を読んで、あ、そうかと思った。デカくはないんだ。人間を人間のサイズで描こうとするのは、自然なことなのかもしれない、と。
美人画では、司馬江漢描く鈴木春信ふうの『夏月・冬月図』に驚いた。よく見ると、着物の皺の影が立体的だけど。蘆雪の『唐美人図』は、細い肩の美人で、ちらりと見せた赤い靴先以外は、清楚を通り越し、無表情で取りつく島もなさそう。蘆雪って、おもしろいなあ、こういう女性が好きだったんだろうか。あとで出てくる『唐子睡眠図』の、あまりにも無防備にブサイクな顔をさらしているところも好きだ。椿椿山の『高久靄像』は、病に苦しむ薄汚い中年男の図で…どうも私は、美男美女図より、そうでない人物図に魅力を感じてしまうようだ。呉春の『松尾芭蕉図』も、ケレンのない、正面向きの爺さん顔が好きだし。
いや、私の趣味ではなくて、主催者のせいだと思う。中国の聖賢、仙人、布袋さん、妖怪、西洋人、みんな癖のある、もとい、味のある表情をしている。京博の『舞踊図』は金地屏風に、思い思いのポーズを決めた6人の女性が描かれており、美人図の範疇に入るだろう。ただし、よく似たサントリー美術館の『舞踊図』に比べると、着物の柄や女性の顔立ちの田舎くさいところが、私はこっちのほうが好き。
解説によれば、まさに3月11日、仙台市博物館および栃木県立博物館で展示品を借り受けた直後に、あの地震に遭遇したそうである。延期があったとはいえ、本展が開催になってよかった。後期(4/19~)は大幅展示替えなので、また来たい。展示品の一部(蕭白の蝦蟇仙人とガマとか)をアレンジにしたゴム印で、屏風をつくるコーナーが楽しかった。
東北地方太平洋沖地震の影響で、首都圏の美術館・博物館も多くが休館を余儀なくされていたが、先週末あたりから少しずつ開き始めた。
同展は、これまで「百花の絵」(→見ていない)「動物絵画」「山水に遊ぶ」と、テーマ別に江戸絵画を扱って来た同館が、今度は描かれた「人のかたち」に注目した展覧会。展示リストを見ると「個人蔵」が多くて、ああ、めずらしい作品を集めてくれたんだなあ、と嬉しい。
冒頭は、春木南湖(よく知らない)の『項羽図』と円山応挙の『布袋図』で始まる。デカいなあ、と思ったけど、なぜ人は「等身大」の人の姿を描きたがるのか、という問題提起を読んで、あ、そうかと思った。デカくはないんだ。人間を人間のサイズで描こうとするのは、自然なことなのかもしれない、と。
美人画では、司馬江漢描く鈴木春信ふうの『夏月・冬月図』に驚いた。よく見ると、着物の皺の影が立体的だけど。蘆雪の『唐美人図』は、細い肩の美人で、ちらりと見せた赤い靴先以外は、清楚を通り越し、無表情で取りつく島もなさそう。蘆雪って、おもしろいなあ、こういう女性が好きだったんだろうか。あとで出てくる『唐子睡眠図』の、あまりにも無防備にブサイクな顔をさらしているところも好きだ。椿椿山の『高久靄像』は、病に苦しむ薄汚い中年男の図で…どうも私は、美男美女図より、そうでない人物図に魅力を感じてしまうようだ。呉春の『松尾芭蕉図』も、ケレンのない、正面向きの爺さん顔が好きだし。
いや、私の趣味ではなくて、主催者のせいだと思う。中国の聖賢、仙人、布袋さん、妖怪、西洋人、みんな癖のある、もとい、味のある表情をしている。京博の『舞踊図』は金地屏風に、思い思いのポーズを決めた6人の女性が描かれており、美人図の範疇に入るだろう。ただし、よく似たサントリー美術館の『舞踊図』に比べると、着物の柄や女性の顔立ちの田舎くさいところが、私はこっちのほうが好き。
解説によれば、まさに3月11日、仙台市博物館および栃木県立博物館で展示品を借り受けた直後に、あの地震に遭遇したそうである。延期があったとはいえ、本展が開催になってよかった。後期(4/19~)は大幅展示替えなので、また来たい。展示品の一部(蕭白の蝦蟇仙人とガマとか)をアレンジにしたゴム印で、屏風をつくるコーナーが楽しかった。