見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

流転を潜り抜けて/中国絵画の精髄(中国中央電視台)

2014-06-11 23:19:46 | 読んだもの(書籍)
○中国中央電視台編;岩谷貴久子、張京花訳『中国絵画の精髄:国宝に秘められた二十五の物語』 科学技術社東京 2014.5

 原本は、中国で人気の情報番組《国宝档案》の書籍化シリーズ第二弾『国宝档案 弐:絵画案』の日本語訳であるという。日本なら『日曜美術館』とか『美の巨人たち』の書籍化と思えばいいのかな。したがって、中身はそれほど学術的に厳正・厳密を期した記述ではない。ほんとかなあと眉に唾しながら、楽しんで読める逸話の紹介で終わっている章段もある。

 取り上げられている絵画は25作品。冒頭に、北宋の風流天子・徽宗(在位1100-1125)の真筆と関連作品5点を第1部とし、あとは時代順に、第2部「晋・唐・五代十国」5点、第3部「宋」3点、第4部「元」5点、第5部「明」3点、第6部「清」4点を紹介する。ただし「晋・唐・五代十国」の筆頭に上げられているのは、顧之(こがいし)(4世紀後半)の『洛神賦図』であるが、今日に伝わっているのは宋代の模本である。このへんは、原本と摸本の関係のとらえかたが、やや日本と異なるかもしれない。

 かつて「中国絵画」と聞くと、私は反射的に水墨画を思い浮かべていた。しかし、本書に収録されている絵画で、モノクロの墨画は少ない。宋・范寛の『谿山行旅図』は墨画に見えたが、所蔵先である台湾故宮博物院のサイトに「淡彩」と説明があった。元・黄公望の『富春山居図』は「水墨画」らしいが、あとは色彩豊かな作品が多い。制作年代を考えると、驚くほど色彩鮮やかな作品もあり、どれもカラー図版で紹介されているのは嬉しい。

 本書を読んで、ひたすら呆れ、驚き続けたのは、多くの作品がくぐりぬけてきた数奇な運命。たとえば、あの有名な『清明上河図』は、画家・張択端から宋の徽宗皇帝に献上された。北宋滅亡後、作品は金軍に持ち去られ、民間に流出したが、元代に再び宮中に収められた。しかし、元朝内務府の表具師が盗み出したことで、再び民間流出。明代の奸臣・厳嵩(げんすう)の手に渡ったが、失脚と財産没収により、明朝内務府のものとなる。しかし、またまた民間に流出し、清朝の初めまで所在不明となっていた。1797年、清・嘉慶帝の時代に四度目の宮中入りをする。清王朝が滅亡すると、最後の皇帝・溥儀は、『清明上河図』を含む貴重な書画を、満州国の長春に移動させた(えええ~一時は満州国にあったのか!)。1945年、日本の敗戦で満州国が消滅すると、長春の皇宮は大混乱となり、多くの文物が民間に流出したが、翌年、人民解放軍によって取り戻された。

 私は、2012年に東京国立博物館の『北京故宮博物院200選』展で『清明上河図』の本物と対面することができたが、今日にこの作品が伝わったのは、奇跡のようなものだとあらためて思った。そして、この作品が日本のものになっていなくてよかったと思った。どんなに正当な取引の結果であっても、やっぱり美術品は、その生まれた土地が、理想の落ち着き場所ではないかと思う。

 本書には、義和団事件や円明園の破壊によって、西洋人の手に渡りかけた作品や、渡ってしまった作品も登場する。皇帝の気まぐれで失われかけた作品、大陸と台湾に分かれたものもある。1945年秋、画家の張大千は、北京の古美術店で南唐(五代十国時代)の名画『韓熙戴夜宴図』を金五百両という破格の値段で買い取る。王府(高級住宅)が1軒買える値段だったが、名画の海外流出を食い止めるための決断だった。面白いのは後日談で、海外移住を決めた張大千は、所蔵の美術品を、市場の評価額よりずっと安く祖国に売却することにした。周恩来らは、乏しい国家財政から資金を捻出し、これらを買い取った。単純に「祖国に寄贈」という美談でなく、お互いに汗をかいて妥協点を見つけようというのが中国らしい。

 『臨韋偃牧放図巻』は、1286頭の馬を描いた4メートルに及ぶ画巻。唐代の画家・韋偃の『牧放図』を、宋代の李公麟が模写したものだ。ただし、原本の忠実な模写でなく、「白描」技法を用いた(と原文にあるが図版では淡彩)李公麟の創造性に敬意を表して、第3部「宋」に収録されている。この作品は、宋の徽宗に愛され、明の朱元璋に愛され、清の乾隆帝に愛された。朱元璋の記した跋文に対して、乾隆帝がいくぶん諧謔を交えた応答をしているのが面白い。

 純粋に絵画として好きな作品を挙げて行こう。まず徽宗の真筆とされる『瑞鶴図』。すごいなあ、この自由な発想。見た瞬間に、これは橋本雄さんの著書『中華幻想』の表紙だ!と思い出せる自分の記憶力もどうかしている。范寛の『雪景寒林図』は天津博物館にあるのか。二回行ったけど、見てないよなあ、たぶん。あと『憲宗元宵行楽図巻』のかわいいこと~。明代って、あまり偉大さを感じない時代なんだけど、こういう明朗な通俗主義が微笑ましくて好きだ。「憲宗元宵」で画像検索すると楽しい。

※表紙画像はAmazon.co.jpに無いが、ほかの通販サイトにはあり。
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父子の確執と和解/近藤重蔵と近藤富蔵(谷本晃久)

2014-06-10 22:46:01 | 読んだもの(書籍)
○谷本晃久『近藤重蔵と近藤富蔵:寛政改革の光と影』(日本史リブレット人058) 山川出版社 2014.4

 近藤重蔵(1771-1829)とその息子、近藤富蔵(1805-1887)について、要領よくまとまった1冊である。近藤重蔵(1771-1829)の名前は、はじめに北方探検家として覚えた。それから国立公文書館の展示で、紅葉山文庫の書物奉行をつとめた時期があることを知って、びっくりすると同時に妙な親近感を覚え、逢坂剛の小説『重蔵始末』を1巻だけだが、読んでみたりもした。

 しかし、その息子・富蔵の墓所が八丈島にあることは知らなかった。富蔵は重蔵の最初の妻(正確には側室、のちに離縁)梅の子として誕生するが、自分は歓迎されない出生だったという思いが、父子の確執の原因となる。たび重なる富蔵の出奔、勘当、一度は勘気を解き、富蔵を近藤家の若殿として迎え入れるが、鎗ヶ崎(いまの渋谷区)の抱屋敷で刃傷沙汰を引き起こす。その結果、父の重蔵は近江国高島郡に護送されて、獄舎で生涯を終えた。

 富蔵は八丈島に流罪となったが、配流先で『八丈実記』69巻という膨大な地誌書を著すことになる。本書の記述は、学術書らしく淡々としているが、あれほど嫌っていた父親の霊魂が、乗り移ったかのごとくで、非常に面白い。いろいろ小説的想像力を掻き立てられる。

 富蔵は、明治13年(1880)赦免を申しわたされて島を出たが、上京、そして父の墓参ののち、明治15年に再び八丈島に戻っていった。え、なんで?と思うのだが、現実の人間の行動というのは、小説的想像力を超えているように思う。そして、小さな観音堂の堂守となって、自著『八丈実記』の増補改訂を続けつつ、生涯を終える。

 本書の記すところによれば、父・近藤重蔵は、日露戦争による樺太領有を背景に「北進の先駆者」として政府に顕彰され、今日も「北方領土」領有の根拠として(エトロフ島探検)注目され続けている。一方、息子の富蔵は(一般にはあまり知られていないが)八丈島民有志による顕彰事業が繰り返されているという。死後の評価と顕彰、記憶のされかたも対照的な父と息子。ふたりは「和解」したのだろうか、「確執」は続いているのだろうかと、しばらく考えをめぐらせてみる。

 最後に、いつか行く旅のためのメモ。八丈島に行く機会は当分ないだろう。重蔵が蝦夷地第一次踏査の帰路に建立した義経神社(沙流郡平取町)はちょっと行ってみたいが、公共交通機関で行けるのかな…。結局、近江高島の近藤重蔵の墓所が、いちばん行きやすそうである。
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足裏で感じる/日本の身体(内田樹)

2014-06-08 00:04:24 | 読んだもの(書籍)
○内田樹『日本の身体』 新潮社 2014.5

 「素晴らしい身体」を持つ12人と著者の対話集。そういえばNHKに、超ハイスピードカメラ撮影をはじめとする最新の映像技術でトップアスリートの肉体に迫る「ミラクルボディー」という番組がある。あれはあれで面白いが、著者の求める「素晴らしい身体」というのは、ちょっと、いやかなり違うことが、読んでいるうちにだんだん分かってくる。

 本書に登場するのは、茶道家、能楽師、文楽人形遣い(勘十郎さん!)、合気道家、尺八奏者、元大相撲力士、マタギ(!)など。日本の武道や芸能に精通している方が多い。表紙の折込みに小さな活字で記された短文には、著者の目的が「日本人には日本固有の身体観があり、それに基づく固有の身体技法があるという仮説を検証する」ことだったと明かされている。

 ただ、あまり初めから「日本」を意識して読まないほうがいいのではないかと思う。どの達人の話にも「なるほど」と納得できる面白さがある。たとえば、人間には傍らにいる人間と同期して、一種の共同の身体みたいなものを成り立たせる力がある。このことを、著者は、さまざまな達人との対話で繰り返し、確認する。主人が楽しみながら、その楽しみを客に伝える茶道の「もてなし」。三人の人形遣いが、人形の身体感覚を共有する文楽。敵対的な状況から相手に同期していく武道。優れた武将は配下の兵士をまさに手足のように使う。配下の見ているものが自分にも見え、自分の見ているものを配下全員に伝えられる。そういう体感の制御に秀でた人物が、華々しい武勲を立て、また統治者となっていったのではないか。このへんは、かなりの程度まで、人類共通に応用できる仮説だと思う。

 その中で、尺八奏者の中村明一さんとの対話で「それぞれの風土に生きるにふさわしい身体と仕草」の問題が出てくる。中村さんのアメリカ留学中のエピソードで、アジア人の見分け方の話になり、中国人は仕草が大きく違うので立った瞬間に分かる。日本人と韓国人は少し歩くと分かる。韓国人のほうが膝から下の動きが大きい(足が長く見える)という話は面白かった。この違いは両国の気候・風土から説明されている。足運びの問題は、雅楽家、元大相撲力士、マタギとの対話でも繰り返され、著者の「少し長すぎるあとがき」にまとめられている。この列島では、湿潤な気候と生い茂る照葉樹林が「すり足」を生んだ。豊かな大地と足裏を通して触れ合い、感謝を捧げ、祝福を促す「すり足」的な身体と知性の構えを、日本人は、もう一度取り戻すべきではないか。

 豊かな自然をこの国の「負けしろ」と見る著者の思考が私は好きだ。必死で金儲けをしなくても、なんとか我々を生かしてくれそうなこの大地。しかし、国や地域の経済活動に順位をつけて、どうしても勝ち負けを争いたい政治家・経済人には、実に目障りな思考法なんだろうな、こういうの。

 対談相手の中で、異彩を放っているのは、マンガ家の井上雅彦氏。剣豪・宮本武蔵を主人公にしたマンガ『バガボンド』を描いているということもあるけれど、「絵を描く」こと自体が「身体」の鍛練であることが窺えて、非常に面白かった。それから、最後の元ラガーマンでスポーツ教育学者の平尾剛さんとの対話は、共感的な「日本の身体」の鍛え方とは対極にある、体罰によるスパルタ指導の功罪を真剣に問うていて、読み応えがある。確かに短期的な「富国強兵」を成し遂げるには、いったん「兵」の自我を壊して型にはめていく体罰指導は効率がいい。しかし、それは「兵」を消耗品と考えるメソッドである。「試合とか順位とか点数とかいうのは、上手くなるための『スパイス』だから」という、この対談から考えさせられたことは、とても多かった。

 大相撲の双葉山や朝青龍の身体が非常に柔らかで、ウェイトトレーニングでつくる筋肉と「人間に触ること(ダンサーでも武道家でも)」でつく筋肉は違う、というのも面白かった。この対話シリーズ、ぜひもう少し範囲を広げて続けてほしい。個人的に、フィギュアスケーターの話が聞きたいなあ。あと、日本人であって、異国の舞台芸能(フラメンコとか京劇とか)で活躍している人の話も聞きたい。

 最後になるが、雅楽演奏家(宮内庁楽部)の安倍季昌さんが「秘曲」について語っているのは貴重な証言である。明治以降、各楽家の秘曲はほとんど公開されたが、大嘗会や伊勢の式年遷宮で奏されるものは、いまも「秘曲」扱いで、楽譜は金庫に保管されている。役に当たった者は、楽譜を見て頭に入れ、音を出さず、頭の中で譜面のとおり演奏するのだという。天皇家、すごい…。あと、天皇陛下、皇后陛下は海外にご外遊の際、出発前と帰国後は、必ず衣冠束帯・十二単の正装で宮中三殿にお参りされるのだという。外遊自体より、お疲れになるのではないかなあ。
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お昼ごはん@北大祭・その2

2014-06-07 17:47:07 | 北海道生活
昨日(金曜日)のランチは、台湾人留学生のお店で、焼餅(甘味噌つき)と包子(ラー油つき)でした。



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お昼ごはん@北大祭

2014-06-05 22:08:55 | 北海道生活
今日のランチは、北大祭の模擬店で調達。

大きい大学の学祭は、留学生によるエスニックフードの模擬店が充実していてうれしい。明日も行ってきます!




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古本市でお買いもの(芸術新潮バックナンバー)・その2

2014-06-04 22:56:46 | 読んだもの(書籍)
■『芸術新潮』1999年2月号 特集・来日450周年記念「ザビエルさん、こんにちは」 新潮社 1999.2

 古本市で『芸術新潮』バックナンバーの安売りを見つけて、最初に「買う!」と決めたのが、この号。南蛮美術、好きなんだもん。ちょうど開いたページに、先月、東京で見て来た永青文庫の『洋人奏楽図屏風』が載っていたのも、何かの縁に感じられたので。南蛮漆器も世界地図も面白いなあ。香雪美術館の『レパント海戦図』とか(図版がきれいだ~特に金色の輝き!)神戸市立博物館の『都の南蛮寺図扇面』とか、日本の南蛮美術は、見たことのある作品が多かった。

 むしろ驚いたのは、ヨーロッパに「日本におけるザビエル」を描いた作品がたくさんあること。ヴァン・ダイクもプッサンもルーベンスもゴヤも描いている。そして、作品中には、何国人だか分からない外見の、あやしげな日本人も多数登場している。面白いわー。

 特集以外で気になったのは「高麗美術館を襲った窃盗団」の記事。1998年11月13日未明、同館から陶磁器の優品15点が盗まれ、1点が破壊されてしまった。「優秀なコレクションを持ちながら、警備は比較的手薄」という私設美術館の弱点を突いた犯行、と記事は指摘している。全く知らなかったので、高麗美術館のホームページを見にいったら、1999年7月、犯人が逮捕され、盗品の10点は戻ってきたが「5点がまだ発見されておりません」という情報提供の呼びかけが継続されていた。嫌な話だなあ。

■『芸術新潮』1994年3月号 特集「日本近代美術の10章 常識よ、さらば!」 新潮社 1994.3

 猛烈なインパクトのある表紙。これは見覚えがあった。そうか、2006年に国立近代美術館で開催された『揺らぐ近代-日本画と洋画のはざまに』のポスターになった小林永濯の『道真天拝山祈祷の図』である。原田直次郎の『騎龍観音』もこの展覧会で見た作品。山本芳翠の『浦島図』は、2008年の神奈川歴博『五姓田のすべて』がたぶん初見。見開きの大判図版のおかげで、浦島太郎が捧げ持つ玉手箱の繊細なデザインがよく分かる。と思えば、まさに今年、旬な話題の安藤緑山の牙彫や、佐藤玄々の『天女像』も登場する。90年代に『芸術新潮』が取り上げた作家や作品が、ようやく展覧会で一般の美術ファンの目に触れるようになったということだろうか。、

 高階秀爾氏いわく「ここ数年、近代美術史の変貌は実にめざましい」けれども「忘れられた作品や資料の発掘だけでも、まだまだなされなければならないことは多い」。あと、冒頭に「”異端図”たちの逆襲!」を寄稿されている丹尾安典氏の名前を覚えておくことにする。

 1994年のこの号と1999年の号には、橋本治氏の『ひらがな日本美術史』が載っていた。全7巻の4巻くらいまでは、単行本になると買っていたので、懐かしかった。別の連載企画、山口文憲氏の『日本ばちかん巡り』、この号は「生駒山系」を訪ねるのだが、生駒の谷筋にひっそりと根づいた朝鮮寺のルポがすごい。これは読みたいと思ったら、ちくま文庫になっていた。これは買いだね。

■『芸術新潮』1991年12月号 特集「美術マーケット日本史」 新潮社 1991.12

 1991年までさかのぼると、雑誌の雰囲気がかなり変わる。まず紙が薄いためか、軽い。保存耐性はよくないかもしれないが、このくらいのほうが読みやすい。それから、この号が特にそうなのかもしれないが、図版に比べて文字が多い。画廊の広告(多くは白黒)も多くて、読む雑誌だったんだな、と思った。本書は、まさに「美術マーケット日本史」で、根津美術館の『那智瀧図』や、東京国立博物館の梁楷筆『雪景山水図』が、政商コレクター赤星弥之助のコレクションだったとか、伝来とお値段の話がどれも面白かった。

 明治・大正の美術マーケット史は人間くさくて魅力的だが、私も同時代を体験した「70年代美術ブームの崩壊」や「90年代バブル市場のその後」となると、苦々しくて胃が痛む。

 この号には西村康彦氏の『天怪地奇の中国』が連載されている。中国の猫にまつわる伝奇・伝説を紹介する回で、挿絵は八大山人の猫石図。かわいい。単行本が出ているらしいので、これも探して必ず買う。それから「展覧会案内」のページに掲載されている『若狭国鎮守神人絵系図』(鎌倉時代)(根津美術館の『那智の瀧』展に出品)の小さな図版には、目が釘づけになってしまった。
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古本市でお買いもの(芸術新潮バックナンバー)

2014-06-04 20:54:59 | 街の本屋さん
お買いもの。



先週末、札幌地下歩行空間(チカホ)で古本市「チカホ・ブックマルシェ」が開催されていた。会場の「北大通交差点広場」ってどこ?と思っていたら、大通BISSEに上がるエスカレータ前の、さして広くもない空間のことだった。

流し見だけのつもりでワゴンの間に入ったら、「芸術新潮」の古本が1冊300円で売られていた。10~20年くらい前のバックナンバーだが、表紙を見ると、あれもこれも読みたくなる。10分くらいで、ざくざく掘り返して、あまり考えずに3冊買ってきた。そうしたら、いや面白いわ~。

感想は別稿で、たっぷりと。
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身体への配慮と統御/禁欲のヨーロッパ(佐藤彰一)

2014-06-03 23:22:26 | 読んだもの(書籍)
○佐藤彰一『禁欲のヨーロッパ:修道院の起源』(中公新書) 中央公論新社 2014.2

 これは面白かった。基礎知識の全くない分野に手を出して、こんなふうに面白い本が引っかかってくると、本当に嬉しい。Wikiによれば、修道院とは「イエス・キリストの精神に倣って祈りと労働のうちに共同生活(修道生活)をするための施設」であり、修道生活は「4世紀頃、ローマ帝国による迫害の終焉に伴い、より徹底したキリスト教徒の生活を求めた人々によって盛んになった」とある。

 本書の記述は、3世紀末から4世紀はじめ、ローマ帝国においてキリスト教が公認(313年)される直前から直後の時代に始まる。エジプトの村々から、小アジアやシリアから、そして帝国ローマの貴族の館から、自らの欲望の克服を求める人々が、エジプトやトルコの荒野に旅立った。その心性の背景には、古代ギリシア・ローマの身体鍛練法の伝統が見てとれる。

 ここで、著者はさらに時代をさかのぼり、古代ギリシアから帝政ローマ初期における医学と養生法をひもとく。古代ギリシアでは、休息、睡眠、身体訓練、散歩、知的活動などともに、適度の性行為は理想の身体を保つための生活規範の一部だった。ところが3、4世紀のローマ帝国の官僚たちは極度に多忙となり、禁欲が唯一実践可能な養生法となる。

 自らの性活動を抑制する手段を求めて、西ローマの貴族たちは、エジプトの砂漠に暮らす修行者の後に続いた。彼ら(男性)禁欲的修道士は、女性を遠ざけるだけでなく、同性愛の過ちを避けるため、外界の人間との接触を一切遮断した。それでも執拗に襲ってくる肉体の欲望を克服するには、生存ぎりぎりの節食(断食)が良しとされた。

 ポスト・ローマの後期古代(4、5世紀)には、エジプト起源の修道規範が南ガリアに伝えられた(レランス修道院)。これは、院長を指導者とし、戒律に従う修道士(モナクス)の共住制修道院(モナステリウム)であった。一方、5、6世紀には聖人崇敬という新たな心性が民衆の中に育つと、聖人を祀る墓廟(バシリカ)が市壁内部に建てられ、聖人に対する崇敬を共有する者たち(フラテール)が集まって、バシリカ型修道院が誕生する。都市型・バシリカ型修道院における、緩和された禁欲実践は、知的で平和な僧院生活とバランスを保っていたが、6世紀の終わりには弛緩・世俗化が進み、混乱と騒擾の時代が訪れる。7世紀のガリアの修道制の再建に決定的な役割を果たす、アイルランド修道士・聖コロンバスの登場が予告されて、本書の記述は終わる。

 以上の骨組だけでも、ヨーロッパの基本的な心性が、ギリシア、エジプト、アイルランドなど、多様な文明の影響を受けつつ形成されたことが分かって面白いと思うのだが、骨の間の脂身にあたる、豊富な挿話はさらに面白い。

 たとえば、古代ローマの新生児は、美しい体形と頭形(丸いのが良しとされた)に矯正するため、身動きできないぐるぐる巻きのバンデージ状態で2ヶ月半以上を過ごしたという。ふええ。ローマに生まれなくてよかった。また、女性は12歳をもって成熟した女性と見なされ、父親が選択した夫に嫁がされた。男性は一般に非常に若い妻を望み、妻がすぐに妊娠することを欲した。ううむ、現代日本のロリコンを批難できない。しかし、ヨーロッパ文明はいつから少女愛好趣味をなくしたのだろう。否、なくしていないのかな? 若すぎる結婚・出産は、しばしば女性の身体と精神に害を残した。しかし、少なくとも一人の嫡子出産の義務を果たすと、女性にもある程度、行動の自由が与えられた。悪夢のようだが、究極の少子化対策もこうなるのだろうか。

 荒野の修道士が最後まで苦しんだのが「コミュニケーションの切断に対する肉体の抵抗」であったという記述にも考えさせられた。まあコミュニケーションが不得手だと、まともな人間に見られない社会もいかがなものかと思うが、テレビ、ネットはもちろん、雑踏の中で聞く他人の会話とか、広告の文字とか、一切の他者の気配のない世界で暮らす孤独がどのようなものか。性欲や食欲、睡眠欲までは克服できても、他者を見たり、見られたり、人の話を聞いたりする欲望を消すことは、根源的に困難なのだろう。日本の隠者生活は、自然の風物に心を動かされて、楽器をつまびいたり、和歌を詠んだり、楽しそうなんだけどなあ。

 ガリア地方に修道院が伝播していく過程の、聖人信仰と病人治癒の奇跡をめぐる論考も興味深かった。キリスト教を思想史・哲学史としてではなく、民衆の心性史として読むのはたいへん面白い。
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顔と身体/篠山紀信展 写真力(札幌芸術の森美術館)

2014-06-01 23:06:20 | 行ったもの(美術館・見仏)
札幌芸術の森美術館 『篠山紀信展 写真力』(2014年4月26日~6月15日)

 このところずっと週末を札幌で過ごしている。気候もいいし、家事と買いものだけで週末が終わるのもつまらないので、出かけてみた。地下鉄・南北線の終点からバスに乗っていく。緑あふれる広大な敷地の中にある美術館。あんなに盛大なカエルの声を聞いたのは、津和野に行ったとき以来だ。

 多彩な活動を見せる写真家・篠山紀信の名前はもちろん知らないわけではないが、どんな展覧会なのかは、よく分からずに来てみた。はじめの展示室は、入口の暗幕をめくって中に入る。黒一色の闇の中に、神像のように巨大な人物写真が浮かび上がっている。「GOD」(鬼籍に入られた人々)の文字。正面には、筋骨隆々とした三島由紀夫の裸体写真(モノクロ)。1枚は例の「聖セバスチャンの殉教の」コスプレ(ほぼノーコスチュームだけど)。もう1枚も、自慢の肉体美をどうぞ見てくれというように挑みかける作家。いや見事だけど、私は三島がボディビルディングを始める前の写真を見たことがあって、その衝撃的にしょぼい肉体が目にちらついてしまう。いろいろと面白いなあ、三島って。彼が筋肉老人として生きていたら、いまの日本の右派勢力に何を言っただろうか。

 「GOD」の部屋には、ほかに勝新太郎、渥美清、きんさんぎんさん、大原麗子など。死してなお、多くの日本人の記憶に生き続けている人々だ。

 これ以降は、明るい白い壁の展示室で、第1室よりは幾分小さい、しかし、私が想像していたよりもかなり大きなサイズの写真が並ぶ。篠山紀信の写真というと、本や雑誌でしか見たことがなかったけど、原画はこんな拡大プリントにも耐える精度なんだな、ということに驚く。「STAR」は、1970年代に撮られた田村正和、舟木一夫、大竹しのぶ(の初々しい姿)からAKB48、壇蜜まで。私が芸能界に詳しくないせいか、誰だかすぐに分からない写真もあって、手元の資料で名前を確認し、あれ、知っている女優さんだ!と驚くものもあった。

 「SPECTACLE」では、主に東京ディスニーランドの写真と、歌舞伎俳優の舞台上の写真が向き合う構成で面白かった。坂東玉三郎の美しさは別格だなあ。「BODY」は全裸で跳躍するヴラジーミル・マラーホフ(バレエダンサー)、大相撲の朝青龍、白鵬、さらに刺青の男女など。大相撲協会の集合写真は、貴乃花、曙が横綱だった時代のもの。力士にも親方にも、今はなつかしい顔がちたほら。集合写真というのは、個人写真以上に「ある時代」の断面という感じがする。もちろん女性のヌード、セミヌードも。

 最後の「ACCIDENTS」は、2011年3月11日の東日本大震災で被災された人々を撮ったもの。幼な子の呆けたような沈鬱な表情は、見る者が「被災者の肖像」と思って眺めるからそう見えるのか。逆に、カメラを向けられたとたん、笑顔をつくろうとする人間の習性が見えたり(良し悪しではなく)、戦争や災害の「報道」写真の意味について、いろいろ考えさせられる。
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