見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

奈良のうまいもの

2016-04-13 20:38:59 | 食べたもの(銘菓・名産)
今回の週末旅行は、近鉄奈良駅前の東横インに泊まった。最近、開業したらしい。立地も設備もいいので、奈良の定宿にしたいが、観光シーズンになると混んで、予約は取れないんだろうな。

夕食は東向き商店街の入口の新しいお店「風神」で食べた。お茶漬けとお酒のお店なので、ひとりでさっと済ますこともできるし、友人が一緒なら居酒屋としても使えそう。覚えておこう。



朝食はパンとコーヒーにしたかったので、ホテルの並びのリトルマーメイドのカフェへ。ここも比較的新しいお店だと思う。近鉄奈良駅周辺は、いつの間にかずいぶん都会的に(!)なった。



帰りの新幹線の中で柿の葉ずし。これは変わらない、私の大好物。



※大阪・造幣局「桜の通り抜け」の写真を、久しぶりにフォトチャンネルにしてみた。→こちら
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2016造幣局・桜の通り抜け

2016-04-12 21:27:28 | なごみ写真帖
関西旅行の予定を決めて、ふと調べたら、大阪・造幣局の「桜の通り抜け」(2016年4月8日~4月14日)が行われる週末にあたることが分かって、行ってみた。関東人の私は初体験である。

地下鉄・天満橋の駅から、大川(旧淀川)にかかる天満橋を渡って、造幣局の南門を入り、北門まで約560メートルの通り抜けである。門を入るところから人の数がすごかったので、どうなるかと思ったが、人に劣らず、桜の数もすごい。

関西人好みなのか、盛り盛りの八重咲きが多い。花の色は、純白に近いものもあるが、



かなり濃いピンクの品種もある。



めずらしい薄黄緑色の「鬱金(うこん)」。



背景は造幣局のメイン・ビルディング。巨大な貨幣マークが付いている。



造幣局の桜には、1本ずつ、名前と原産地や由来を記した札が立っている。この「松前」は「北海道松前町の浅利政俊氏が糸括(いとくくり)の実生から選抜した美しい里桜である」云々。松前町ゆかりの品種は、このほかにもあって、一度だけ行った旅行を思い出して、懐かしかった。



松前城のまわりでいちばん多い品種は「南殿(なでん)」だと聞いたことと思い出し(※私は木札をお土産に持って帰ってきた)注意深く探す。すると、あった! しかし松前町とのゆかりは特に説明になくて「京都御所紫宸殿の南庭にあったことから、その名がつけられたといわれ、一名左近桜」云々と記されていた。ちなみに造幣局のホームページには「桜樹一覧表(大阪)」というメニューがあり、133品種349本(今年の桜)が紹介されている。「南殿」は349本中1本しかないというから、見つけられてラッキーだった。



もう1本、気になったのは「幸福」という品種。名前に引かれて写真を撮っている人が多かったが、説明によると「北海道松前町法幢寺にあった八重桜の種子から誕生した桜」だそうだ。法幢寺、行ったよ~。松前藩主松前家の菩提寺である。



まさか大阪で、こんなに北海道を懐かしむことになろうとは思わなかった。楽しかった。

※参考:2013年8月の松前旅行記

天満橋に戻るつもりだったが、勘をたよりに歩いていたら、見覚えのある風景に行きあたった。大川の蛇行に気づかず、都島区の藤田美術館に出てしまった。これも縁だと思って、開催中の展覧会『絵ものがたり』(2016年3月5日~6月12日)を見て帰途につくことにした。
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後白河法皇の宝蔵から/国宝 信貴山縁起絵巻(奈良国立博物館)

2016-04-11 23:22:47 | 行ったもの(美術館・見仏)
奈良国立博物館 特別展『国宝 信貴山縁起絵巻-朝護孫子寺と毘沙門天王信仰の至宝-』(2016年4月9日~5月22日)

 平安絵巻の傑作として名高い『信貴山縁起絵巻』の全貌(全三巻・全場面)を一挙公開し、あわせて信貴山朝護孫子寺の寺宝の数々を紹介する展覧会。『信貴山』はもちろん大好きな絵巻のひとつである。ブログを検索したら、2007年に『院政期の絵画』で尼公の巻を見ており、2008年に「飛倉(山崎長者)の巻」を見た記録がある。どちらも奈良博。実際は、「延喜加持の巻」を含めて、もう少し頻繁に見ていると思う。しかし、全三巻・全場面の一挙公開というのは記憶にない。

 前日は奈良泊まりだったので、朝、早めに博物館に出かけた。まさか並んでいる人はいないだろうと思っていたのに、開館30分前に15~20人くらいの人影があったので、慌てて列に並んだ。開館と同時に入ったが、荷物をロッカーに預けたりしていたので、会場に入ると、第1巻の前には列ができてしまっていた。ちょっと考えたが、まだ誰もいない第2巻(延喜加持の巻)から見ることにした。『信貴山』は各巻の物語の独立性が強いので、順不同の鑑賞をしても、あまり違和感がない。第3巻もゆっくり見て、それから第1巻に戻った。

 ああ、第1巻(山崎長者の巻)って、何のプロローグもなく、いきなり大騒動の場面から始まるんだな。序破急も起承転結もあったもんじゃない。倉の扉から飛び出した鉢が、縦に転がっているのも躍動感がある。倉はすでに斜めに傾いでいて、ヘンな突起が描かれていると思ったら、軒の丸瓦が滑り落ちて、まさに空中を落下していく瞬間を描いているのだった。倉の床下と微妙な距離を保ちながら悠然と飛んで行く鉢からは、昭和の特撮の空飛ぶ円盤の効果音が聞こえてきそう。この画家(というより、現代風な親しみを込めて絵師と呼びたい)動きの緩急を描くのが本当に巧い。

 第2巻(延喜加持の巻)は、歩いているのか止まっているのか分からない、勅使の一行の姿から始まる。貴族の姿が多く、どの登場人物も動きが少ない中で、長い長い距離を一気に駆け抜けてくる剣の護法童子の躍動感が際立つ。風になびく多数の剣が触れ合う、リズミカルな金属音が聞こえてくるようだ。

 第3巻(尼公の巻)は、久しぶりに細部をじっくり見ることができて面白かった。市井の人々の暮らしぶりに気になる点がたくさんある。家の中には猫、家の外には犬の姿も。あと東大寺の大仏殿には、扉の影に四天王の足(と踏まれる邪鬼)や菩薩像(?)の膝とてのひらも描かれているのが心憎い。大仏の光背の化仏や回廊の屋根の鬼瓦もしっかり描かれている、というのは会場内の巨大・高精細写真を見て分かったこと。

 『信貴山』は、これまでいくつかの模本がつくられているが、驚いたのは、平成20年度から5か年に渡り、文化庁で制作された最新の復元模写。赤や緑や青の鮮やかな色彩が復元され、やや「興ざめ」の感もあるが、風になびく木々の葉やはためく衣など、ものの動きが鮮明になった点もあり、非常に興味深かった。

 『信貴山縁起絵巻』は、ほかにも多くの絵巻の制作にかかわった後白河法皇の関与が想定されている。そこで西新館の第1室では、後白河法皇と蓮華王院宝蔵にゆかりのある絵画史料が展示されていた。なんと『地獄草紙』(後期は『辟邪絵』)に『粉河寺縁起絵巻』に『彦火々出見尊絵巻』(福井・明通寺。原本は失われており、展示は江戸時代の模本)。全く予想していなかったので、嬉しくてテンションが上がった。

 さらに信貴山朝護孫子寺の寺宝の数々。バラエティに富んだ毘沙門天像(彫刻、絵画)が面白かった。中国・元代の毘沙門天像(絵画)もあるのだな。信貴山は聖徳太子信仰と縁が深かったことから、太子信仰に関する絵画等も。また、東大寺の裏の若草山から見た信貴山の写真パネルがあって、両者が遠いようで近いことを感じさせた。

最後に、博物館の入口前に来ている信貴山名物の張り子の虎(開館時間になると警備員さんがセットする)。



入場ゲートをくぐったところのディスプレイ。これはけっこう好きだけど…米俵はもっと編隊を成すくらい、たくさん飛ばしてほしかった。本気度が足りない!


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2016吉野の桜と蔵王堂

2016-04-10 23:38:16 | なごみ写真帖
週末は弾丸旅行で関西の桜を見てきた。まず、吉野。いつ以来だろう?と思って、ブログ検索をかけたら、2005年1月2005年6月の記事が出て来たので、そうか~もう10年も行っていなかったかと、いま愕然としているところである。

東京を朝7時過ぎの新幹線で出発し(金曜は秋葉原に泊まった)、名古屋から近鉄特急に乗り換える。もちろんこの時期であるから、特急は事前予約済。大和八木→橿原神宮と乗り継いで、昼過ぎに吉野駅に着いた。しかし駅前は、バスもケーブルカーも大行列。私はケーブルカーに並んだが、ここで予定外の1時間をロス。あとケーブルカーが見るからに古くて、鉄塔も錆びついているので、ちょっと怖かった。

山上は細い一本道が観光客で埋まって、上野公園か鎌倉の小町通りみたいな大混雑。両側にはこじゃれたカフェや土産物屋が途切れず並んでいて、え?こんなところだったっけ?と面食らう。まあ10年ぶりだから仕方ない。



蔵王堂(金峯山寺)に到着。秘仏本尊・金剛蔵王権現に久しぶりに会いたくなって、やって来たのだ。初めて拝観したとき(2005年1月)の衝撃はよく覚えている。しかし、その「巨大さ」は記憶の中で膨れ上がり過ぎていたみたいで、今回は、あれ?思っていたほど巨大じゃない、という印象だった。「発露の間」に入ったのも初めて。最初のご開帳のときは、こういうシステムはなかった。いま金峯山寺のホームページを見たら「本地仏の釈迦如来(過去世)、千手観音(現在世)、弥勒菩薩(未来世)が権化されて」とあるけど、このセットは珍しい気がする。前面の壁に掛仏がかかっていたけど、弥勒と釈迦の区別がつかなかった。

吉水神社の境内から中千本・上千本の遠望。言葉にならない絶景である。



街道の売店にはこんなものも。売り物なのか?



上千本まで行くのはあきらめ、如意輪寺に向かう。このあたりで、ようやく人波が途切れる。なだらかな坂を少し谷に下り、また登る感じ。



如意輪寺では、本尊の如意輪観音菩薩像が特別ご開帳(4月7~9日)されていた。桜に如意輪観音は似合うなあ。そして庭園では足元に降り積もった花びらの美しかったこと。



東京で桜といえば純白に近いソメイヨシノだが、関西はベニシダレザクラなど、色の濃い品種が多い気がする。
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正統と異端の間/天使とは何か(岡田温司)

2016-04-08 00:24:11 | 読んだもの(書籍)
○岡田温司『天使とは何か:キューピッド、キリスト、悪魔』(中公新書) 中央公論新社 2016.3

 岡田温司さんの西洋美術講義が大好きなので、著者の名前を見ると迷わず購入してしまう。特にこの中公新書のキリスト教美術の図像学シリーズ(と勝手に思っている)は大好きなので、新たな1冊が加わったことは本当に嬉しい。本書の主題は「天使」であるが、巷に流布する天使の画集や解説書とは「少し趣きを異にする」と著者は述べている。本書の狙いは「隠れた天使や異端的とされてきた天使を現代に救い出す試み」だというのだ。

 まず、よく混同される「天使とキューピッド」から。天使(エンジェル)はユダヤ教やキリスト教における神の使者のことで、キューピッドは異教の愛の神のことというのが無難な答えであるが、実は歴史的に見てもイメージは錯綜している。天使が神の愛の矢で聖人を貫こうとしている図像があったり。ルネサンスの美術では、天使とは別の「有翼の童子」が頻繁に登場する。彼らは「プット―(裸童)」とか「スピリテッロ(小精霊)」と呼ばれ、古代の異教美術に起源を持つと考えられている。風や雲、火や光などの自然現象、ストイケイア(四大元素)、プシュケー(魂)あるいはプネウマ(霊)、ゲニウス(守護霊)あるいはダイモンなど、さまざまな信仰が、天使のイメージと交錯していることが示される。

 次に「天使とキリスト」の章によれば、かつてイエス・キリストは天使(のようなもの)と見做されていたことがあるそうだ。まあ父なる神から人の世に遣わされたわけだから、説明を聞けば、納得できないでもない。興味深いのは、大天使ミカエルとキリストの関係。キリスト教美術の「最後の審判」の図像では、主役の裁き手は再臨したキリストであり、ミカエルはその下でキリストを手伝っているに過ぎない。しかし旧約聖書では、裁きの主役は大天使ミカエル本人であるという。おお、そうだったのか。キリストとミカエルが同一視されているとまでは言えないが、両者は類似した性格を持つ。エルサレムを起点に聖ミカエルゆかりの地をつないでいくと、西北西に一直線の「聖ミカエル-アポロン・ライン」が現れるというのも初めて知った。西洋にもこういう、科学とも偽科学ともつかない考え方があるのだな。

 「天使と聖人」(むしろ「天使と音楽」と呼ぶべき)で閑話休題。続いて「天使と悪魔」を考える。ここは、とりわけ興味深い美術作品がたくさん収録されている。16世紀前半の画家ロレンツォ・ロットの『ルシフェルを退治する悪魔』は空中で、悪魔ルシフェルを叩き落す大天使(ミカエル?)の図であるが、二人はまるで双子の兄弟のように瓜二つに描かれている。ルシフェルは、もと「光をもたらすもの=明けの明星=ルキフェル」から来た。悪魔(サタン)とルシフェルは同じものとみなされ、「悪魔はかつて光であった」と解された。深いなあ、この哲学。悪魔に憑かれた人間の典型は裏切り者のユダである。しかし、初期キリスト教には、ユダこそイエスに最も愛された弟子で、イエスの肉体を犠牲にすることで、イエスの霊魂を完全にした、という解釈もあったことが、近年(1970年代)発見されて読み直されている。歴史学って、文献学ってすごい。

 最終章「天使と近代人」は、モローやルドン、そしてクレーの描いた天使を取り上げ、映画『ベルリン・天使の詩』にも多くの頁を割いている。美術ではないが、ボードレールやリルケの詩編に現れる天使についても。天使とは、さまざまな宗教や神話の間のみならず、正統と異端の間の線引きすらも、その翼で軽々と飛び越えていく、というむすびのことばが胸に沁みた。私は、たまたまプロテスタント系の学校に通っていたので、新約聖書には親しんだが、旧約はあまり読んでいない。一度、文学ないし文献として読んでおきたいと思う。それと、昔から思ってきたのだが、聖書の外伝も読んでおきたいなあ。
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へそまがりの好きなもの/日本おとぼけ絵画史(金子信久)

2016-04-07 00:45:51 | 読んだもの(書籍)
○金子信久『日本おとぼけ絵画史:たのしい日本美術』 講談社 2016.3

 電車の中で読んでいると、まわりの視線が気になる。かなり破壊力のあるカラー図版が満載だからである。日本には、古くから、普遍的で「見事な」造形作品がたくさん生み出されてきた。ところが、人の心には「へそまがり」な一面があって、決してきれいとは言えないものに魅力を感じたり、完璧ではない、不恰好なものや不完全なものになぜか心引かれたりすることがある。うん、分かる分かる。以上は「まえがき」からの拾い書きだが、近年、この手の正統からはみ出した美術史の本では、いちおう初めに著者が言い訳する(?)ことになっているのが微笑ましい。

 とりあえずページをめくっていく。「禅画」「俳画」「南画」は美術史でもおなじみのジャンル立てだ。著者の金子信久さんは府中市美術館の学芸員なので、同館の江戸絵画展シリーズで見たことのある作品が散見される。三浦樗良の『双鹿図』は、2015年の『動物絵画の250年』で、あまりのすっとぼけぶりが強烈な印象を残したもの。一方、本書で初めて知った作品に、京都・麟祥院(妙心寺塔頭)の海北友雪筆『雲竜図襖』がある。実際に本堂で襖として使われている状態の写真が「おとぼけ絵画のある部屋」と題して掲載されているが、このインパクトが素晴らしい。まるまる襖一枚分もある巨大な龍の顔。しかし、強さや凄さではない、説明不能の何かに心を捉まれそうな光景である。これは本物を見たい!現場を体験したい!と思ったが、ふだんは公開されていない寺院のようだ。次の特別公開を逃さないようにしなければ。

 狩野山雪の『松に小禽・梟図』はかわいい。山雪がこんな「かわいいもの描き」とは認識していなかった。江戸の画家は、みんな活動範囲が広いなあ。じわじわくるのが黙雷宗淵の『雪達磨図』。逆に一見して、ヤメテと吹き出すのが風外本高の『虎図』『猛虎図』。白隠と仙のおとぼけぶりは言うまでもない。しかし、白隠が画家の絵の描き方を知らず、そういう方法で描こうという意識もなかったのに対して、仙は普通の絵の描き方もよく身につけた上で、わざと手を抜いたようにみせたり、形を崩したりしていたのではないか、というのは、さすが専門家の眼力。仙の絵には時折実に素晴らしい筆づかいが現れると著者は指摘している。

 「かたち」の章では、造形による心のゆるませかたを考える。「しっかりしていない形」や「細部を無視した単純な形」を「造形のズッコケ」と著者は呼ぶ。具体例の中村芳中『鹿図』には思わずニンマリ。耳鳥斎に林閬苑(ろうえん)は、こんな絵も描くのだなあと驚く。それから「苦い」江戸絵画。確かに江戸絵画には、積極的に「いやーな感じ」になろうとしているような「苦い」絵がある。蕪村の作品が3件あって、全くどれも嫌な感じだ。特に片肌脱いで乳首を見せている『寿老人図』は嫌。ここは、呉春の『福禄寿図』、高田敬輔の『寿老白鹿図』など、苦さの中に微かな甘さを感じさせて、癖になりそうな作品ばかり。でも光琳の『福禄寿図』は、あまり苦さを感じなかった。そして思ったのだが、府中市美術館、今度、江戸絵画の「老人」特集をしてみてはどうだろう。

 「苦い」の章に曽我蕭白も取り上げられている。『後醍醐帝笠置潜逃図』(個人蔵)は知らない作品だった。本書には、多くの個人蔵作品が取り上げられていて、調査能力の高さに感心した。そして「素朴」。次が「お殿さまの絵ごころ」で、これはずるい。江戸時代には、本職顔負けの絵を描くお殿様もいたが、本書に取り上げられている作品は、巧拙を超えて、異次元の領域にある。臼杵藩のお殿様、稲葉弘通の『鶴図』(個人蔵)すごいわ~。

 最後に「大正時代」と現代の「ヘタウマ」の章が設けられている。明治時代に正統派の西洋美術を躍起になって取り入れた日本だったが、大正時代になると、新しいスタイルとして、わざと下手に描く画家たちが現れる。彼らに熱狂的に迎えられたのがアンリ・ルソー。洋画家だけでなく日本画家まで「ルソー風」が大流行したという。なるほどなあ。私もアンリ・ルソーは大好きで、何か日本人の琴線に触れるものがあるのだと思う。こういう美術史を頭に入れて作品を眺めるのも面白い。本書に掲載されている、倉田三郎という画家の風景画はいいと思った。府中市美術館所蔵とあるけど、見た記憶がない。次回、常設展示を見るときは注意しておこう。
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絵画史料の読みかた/洛中洛外図屏風(小島道裕)

2016-04-06 00:34:06 | 読んだもの(書籍)
○小島道裕『洛中洛外図屏風:つくられた〈京都〉を読み解く』(歴史文化ライブラリー) 吉川弘文館 2016.4

 京都の名所と市街、そして人々の風俗を描いた「洛中洛外図屏風」は、室町から江戸にかけて、多くの作品が描かれた。本書の巻末には、主な洛中洛外図の一覧があって、「室町~安土桃山」の最初期に6件、「江戸初期」に28件、「江戸中期以降」に10件、参考として「洛外名所図系」に4件が挙がっている。作者や特徴、所蔵者を付記した、たいへん有用なリストである。

 はじめに画中に室町幕府を描いた(模本を含む)「初期洛中洛外図屏風」(第一定型)の四本「歴博甲本」「東博模本」「上杉本」「歴博乙本」について、誰(発注者)が何を描こうとしたのかを詳しく読んでいく。これが、いちいち面白い。室町幕府というと「花の御所」をすぐに思い出すが、実際にはかなり頻繁に移動してる。「上杉本」に描かれたのは「花の御所」だが、「歴博甲本」は「柳の御所」が細川高国邸の近くにあった、きわめて短い時期の風景を描いたものと考えられている。細川邸や将軍邸には屋敷の主人らしき姿があるが、近衛邸は母屋の戸を開け放って、従者の姿だけが描かれている。著者はこれを「留守表現」と呼び、屋敷の主人は画面の別のところに描かれていますよ、というサインと考える。そして、将軍邸前の直垂・風折烏帽子で顔の白い二人連れを、近衛家の父子に比定する。なんと、楽しくて鮮やかな推理!

 「上杉本」には華麗な花の御所(今出川御所)が大きく描かれているが、屏風の制作時期や伝来についての研究が進んだ結果、これは上杉謙信が、当時、実際には存在しなかった花の御所に足利義輝を訪ねる架空の情景という、黒田日出男氏が提案した解釈が支持されている(あ、黒田先生の『謎解き洛中洛外図』は読んでいないんだった!)。なお、当時、実際に幕府があった斯波邸(二条御所)には、赤毛氈覆いの馬が二頭描かれていて、権威を表しているという。ちなみに花の御所も斯波邸も粉本に基づく描写で、実態に即していないというのも面白い。

 さらに著者は、描かれた都市風俗にも細やかな目を向ける。「歴博甲本」には床屋が描かれているが、元来、剃刀は用いず(剃るのは出家のときだけ)、月代の手入れには毛抜きが使われたというのは初めて知った。同本には、地理的に狩野図子と見られるあたりに狩野屋敷が描かれており、扇に絵付けする絵師(元信か)の姿も描かれている(跡地を訪ねたことあり)。「歴博乙本」では商いの看板が目立っており、実際の京都が、中世都市から近世都市に変化する様子を反映していると考えられる。近世には、都市風俗への関心を中心テーマとする特異な屏風「舟木本」が描かれた。この屏風は、店舗や看板、遊里、芸能、喧嘩など、どの場面を切り取っても面白い。

 また「洛中洛外図屏風」が四季絵(月次屏風)の様式を持っているというのも、あまり考えたことがない視点だった。だから祭礼などの年中行事が画中に描かれるのか。中には、四季の行事がぐるりと一周するように配置されたものもある。「上杉本」は、上京の町屋の部分で、歳末から正月にかけての光景を全面展開しているという。

 寛永三年(1626)後水尾天皇の二条城行幸は、その後ずっと「洛中洛外図屏風」の定番風景となった。つまり、これ以降「洛中洛外図屏風」はアップデートをやめてしまい、「美しい京都」の絵として量産され、消費されるようになる。実は江戸の風俗(一人立ち獅子舞)が紛れ込んでいたり、有職故実研究の結果、あるべき古代の姿に戻す試みが行われたり、この時代の作品もなかなかに面白い。

 とにかく「絵画を読む」ことが好きな人間には、息つくひまのないほど面白い本だった。著者は国立歴史民俗博物館(れきはく)の先生で、かつて歴博で、洛中洛外図屏風(甲本)の複製品を使って、左隻と右隻が向き合わせになるように展示した(実際の京都の地理と合致する)ことについて書いている。本書の図版は、2012年の『都市を描く』展の会場風景のようだが、私はもっと古く、2007年の『西のみやこ、東のみやこ』展でも同様の展示を体験したような記憶がある、私は、このとき初めて「洛中洛外図屏風」の見方を理解したのである。

 また、著者は、2015年の京都文化博物館の特別展『京(みやこ)を描く』にも関わられたとのこと。あれも記憶に残る、たいへん面白い展覧会だった。絵画史料の読み方は、私が学生だった頃に比べると、格段に精緻になり、かつ最新の研究成果を一般市民も享受できるのは、本当にありがたいことだと思う。
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暴走のプロセス/愛国と信仰の構造(中島岳志、島薗進)

2016-04-05 02:51:00 | 読んだもの(書籍)
○中島岳志、島薗進『愛国と信仰の構造:全体主義はよみがえるか』(集英社新書) 集英社 2016.2

 愛国心と信仰心が暴走した果てに全体主義になだれ込んでいった戦前。近年の日本は、戦前とよく似たプロセスを歩んでいるようにも見える。そこで、著者たちは、明治維新までさかのぼって、日本のナショナリズムと宗教について考えてみる。はじめに(27頁)近代日本の150年を戦前/戦後に分け、それぞれ25年ずつに区切ってみると、奇妙によく似た構図が見えてくる。

◆明治維新からの75年
・第1期(1868-1893):富国強兵
・第2期(1894-1917):アジアの一等国~大戦景気
・第3期(1918-1944):戦後恐慌~昭和維新運動~全体主義
◆敗戦からの75年
・第1期(1945-1969):戦後復興~高度経済成長
・第2期(1970-1994):ジャパン・アズ・ナンバーワン~バブル景気
・第3期(1995- ):バブル崩壊の影響の深刻化

 まず戦前。中下級武士たちは「一君万民ナショナリズム」によって、江戸幕府を倒した。しかし明治政府ができると、「上からのナショナリズム」が「下からのナショナリズム」を乗っ取っていく。体制に批判的な自由民権運動を担ったのは天皇主義者が多かった。この中から、玄洋社のような「国民の主権」と「天皇の大権」の一致を目指す右翼団体が現れ、親鸞主義や日蓮主義と深い関係を結んでいく。

 親鸞に傾倒したのは三井甲之。蓑田胸喜の師匠である。彼は、自力で世界や日本を作り上げようとしている帝大教授や政治家の賢しらを認めず、天皇の大御心を信じ、あるがままに任せることを説いた。一方、田中智学は、法華経と国体の一体化を説き、煩悶青年たちを超国家主義に結びつける道を開いた。「世界と一体化したい」という欲求は親鸞主義と共通するが、日蓮主義のほうが「変革志向」が強く、多くの革新右翼を引きつけた。

 しかし、なぜ伝統的宗教や教団が、国家神道に取り込まれ、全体主義に傾斜してしまったのか。島薗氏は、1890~1910年頃(第2期)に国家神道の制度やシステムが確立し、民衆が自発的に国家神道の価値観で行動するようになったと分析する。そして、1918年以降(第3期)民衆の苦悩は深まり、国体論と結びついた宗教が支持されるようになった。島薗氏いわく「明治国家を作り上げた元勲たちは、国家神道がここまで国を覆い尽くすことは予想しなかったはずです」という分析にぞっとした。誰もこんな運命を望んだわけではないのに、歴史はさまざまな逆説を生み出す。

 そこで戦前の不幸な経験を繰り返さないために、中島氏は、自力(日蓮)と他力(親鸞)のどちらのユートピア主義も否定するが、親鸞主義に大きな魅力があることは認める。親鸞の「自然法爾」の思想を全体主義に向かわせないためにはどうしたらよいか。保守主義を通じて考えるという一応の解答は示されるが、これは難問である。さらに現代の宗教と科学、現代の宗教とナショナリズムの問題が問われる。島薗氏は、現在の日本社会では、災害支援、貧困者支援、教育と医療などの領域で宗教的なものが求められている一方、国家神道の復興のきざしがあることに注意を喚起する。中島氏は「つまり、近年見られる偏狭なナショナリズムは、一見、宗教とは無関係に見えるけれども、実はその背後には国家神道の姿が見え隠れしているということですね」と応じる。

 宗教ナショナリズムや原理主義の台頭は、日本だけではなく、世界的に共通の現象なのだという。特に日本は、東アジア的な権威主義体制に戻ろうとしているように感じられる。この危機を乗り越えるために想起されるのは、柳宗悦の「多一論」。多元的なものは多元的なままで一元的であるという思想である。現代人は、宗教についてしっかり冷静に考える経験をあまり持っていないので、非常に足をすくわれやすい気がする。宗教の魅力と可能性を謙虚に受け止めながら、その暴走の危険性も十分認識しておく必要があると感じた。
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2016鎌倉の花と仏像

2016-04-03 23:26:42 | なごみ写真帖
今年は比較的、天候が落ち着いているのと、自分の身辺にも変化がないので、あちこち出かけて桜を楽しんでいる。先週は、少し早かったけれど上野の国立博物館の裏庭の桜、今週は皇居北の丸の桜と、鎌倉の桜も楽しむことができた。満足。

鎌倉では、まず西口のロンディーノのツナトマトスパゲッティで昼食。実は、2006年にもこのブログに写真を掲載している。10年ぶりか。いや、その間にも1回くらい行っていると思うけど。



最近、改修工事が完了した段葛を歩いてみる。鬱蒼としていた桜並木が切り払われて、スッと背の高い若木に植え替えられていた。まだ枝が広がっていないので、見通しがよい。段葛の歩道を歩いていても、左右の商店街がよく見える。これが、あと10年か20年くらいすると、以前のような風景に変わるのだろうか。見届けてみたい。

海蔵寺も久しぶりだった。海棠の花の季節にはまだ早くて、蕾が多く、花の頃よりピンク色が濃かった。この名木にも長く親しんでいるけど、昔より枝ぶりが小さくなった気がする。樹木も、ゆっくり老いていくのだな。



亀ヶ谷の切通しを抜けて、東慶寺へ。松岡宝蔵で仏像展をやっていて、通常は予約拝観の水月観音菩薩半跏像が出ている(2016年2月3日~4月3日)ので、最終日にお会いしてきた。ちんまり小さなケースに収まって、畳の敷き物に安置されているのが、自宅でくつろいでいるみたいで可愛らしかった。



東慶寺の庭は、どちらを向いても「日本の春」の美しさそのもの。塀の外の喧噪を忘れさせてくれる。
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