見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

今年はウシ年/2021博物館に初もうで(東博)

2021-01-11 23:50:20 | 行ったもの(美術館・見仏)

東京国立博物館 本館・特別1, 2室 特集『博物館に初もうで ウシにひかれてトーハクまいり』(2021年1月2日~1月31日)

 実は三が日に東博に行こうと思っていたら、入館予約が完売になっていて入れなかった。そうこうするうち、緊急事態宣言が発せられたので、また博物館が閉まらないうちに見ておこうと思って、週末に慌てて行ってきた。

 「博物館に初もうで」は毎年かかさず見に行っている。12年前はどんな内容だったかな?と自分のブログを調べたら、『北野天神縁起絵巻(建治本)断簡』や『駿牛図巻断簡』や宗達筆『牛図』が出ていたようだ。今年は冒頭が「牛にまつわる信仰史」で、チベット仏教の金剛仏(中国・清時代)が並んでいて、そう来たか!とびっくりした。水牛の頭をした男神と女神が抱き合う父母仏とか。牛の背中に横向きに乗った焔魔天坐像は、何人だか分からない顔立ちが不思議。清代の仏教って面白いなあ。

 「牛と共同した暮らし」では広重の『高輪牛町』が出ていた。家光が土木工事や物資運搬のため、京都の四条車町などから呼び寄せた牛持人足を高輪付近に住まわせ、最盛期には牛が1000頭以上もいたので「牛町」と俗称されたのだそうだ。黒田日出男先生が都市景観図(屏風絵など)のチェックポイントとして、馬と牛の数を挙げていたことを思い出したが、江戸後期の浮世絵でも、それなりに牛は描かれている。

 銀地に茶色と黒の牛二頭を描いた屏風『牛図』は森徹山の作品。リアルな存在感に近代的な感性を感じる。よいものを見せてもらった。『伴大納言絵巻』『平治物語絵巻』『辟邪絵(天刑星)』など、有名な絵巻の摸本が出ていたのも、新春からお得感があった。

■東洋館・8室 特集『清朝書画コレクションの諸相-高島槐安収集品を中心に-』(2021年1月2日~2月28日)

 東洋館のリピーターにはおなじみの名前・高島菊次郎こと高島槐安(1875-1969)が収集した清朝書画を展示。同氏は東洋館が開館を控えた昭和40年(1965)に中国書画・碑拓法帖等277件を寄贈し、さらに没後、遺族から寄贈されたものを加えると、総数345件に及ぶという(2007年『高島菊次郎氏寄贈中国書画-槐安居コレクションー』の概要から)。

 私は中国絵画を見始めた当初、古ければ古いほど価値があると思っていたが、だんだん清朝の山水画(墨画または淡彩)がいちばん好みになってきた。王宸の『山水図軸 』とか董其昌の『渓山仙館図軸』とか、ひろびろした空間の感じられる作品が好き。奚岡筆『倣董源秋山煙靄図軸』は、ちょっと浦上玉堂を思い出す山のかたち。

 ↓これもなかなか好きな作品、永瑢筆『山水図軸』を見て、知らない画家だと思って解説を読んだら、乾隆帝の第六皇子だという。

 思わずスマホで調べたのは、乾隆帝の後宮を舞台にした中国ドラマ『延禧攻略』『如懿伝』に登場していたかどうか。どちらにも登場はしており、『如懿伝』では如懿に同情的な純妃(蘇綠筠)の二人目の息子で、おばあちゃんの皇太后に可愛がられる場面などがあったらしい。童年、少年、成年の配役が振られているので、何度か登場したはずなのだが、あまり本筋にかかわらない役だったか、記憶に残っていない。1744年生-1790年没だから、父の乾隆帝ほど長命ではなかったようだが、心休まらない宮廷で、せめて絵画に楽しみを見出していたのだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

門前仲町で新春初吞み

2021-01-10 20:32:10 | 食べたもの(銘菓・名産)

 1月三連休は、例年どおりなら大阪の文楽新春公演を見て、関西でぶらぶら遊び歩いているところ、今年は二目の緊急事態宣言が発令された東京に居残っている。連休中日は近所の居酒屋「まるお」で友人と二人で呑み。まだ外の明るい午後4時から呑み始めて、8時前に切り上げてきた。

 日本酒と魚介料理が中心のお店。美味しかった!

 以前から気になりつつ、入ってみる機会がなかったのだが、これは誰かにお奨めしたいお店。コロナに負けないでほしい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

法の正義を求めて/中華ドラマ『沈黙的真相』

2021-01-07 23:07:01 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇『沈黙的真相』全12集(愛奇藝、2020)

 レビューサイト「豆瓣」で2020年中国ドラマ2位にランクインした人気作。お試しで見てみたら面白くて、年末年始でイッキに視聴してしまった。

 2010年、江潭市(杭州市がモデル)の地下鉄の駅に大きなキャリーバッグを引きずりながら現れた中年男が「これは爆弾だ!」と騒ぎ出す。男は警察に確保され、バッグの中からは、爆弾ではなく、若い男性の絞殺死体が発見された。中年男は、もと大学教授で現在は弁護士の張超。遺体で見つかった男性は、教え子の江陽と判明した。自分が江陽を殺したと認めていた張超は、裁判で供述を覆し、犯人は他にいると主張する。

 同じ頃、江潭晩報(新聞)の女性記者・張暁倩のもとに写真の断片が届く。匿名の投書には、これから24日以内に送る9枚の断片を組み合わせて1枚の写真にすれば「江陽を殺した真犯人が分かる」とあった。江潭晩報は、写真の断片を受け取るたびに第一面に掲載しなければならない。そうしなければ市内で大爆発が起きて多数の死傷者が出るだろう。投書はそう予告していた。

 この事件を担当することになった江潭市の警官チームは、江陽が平康県の検察官だった当時、大学の同級生だった李静に頼まれて、ある事件にかかわったことを知る。

 発端は2000年。李静の恋人の侯貴平は、平康県の苗高郷中学に支援教員として派遣された。理想に燃える侯貴平は、子どもたちだけでなく、村の縫製工場で働いている若い女性たちにも学習の機会を提供することにした。やがて侯貴平は、女工たちが性被害に遭っていることを知り、証拠を捉えて告発しようとするが、逆に婦女強姦の罪を被せられ、溺死体となって発見される。侯貴平の死は自殺として処理された。

 2003年、平康県の検察官となった江陽は、李静の頼みに動かされ、検死医の陳明章、警官の朱偉とともに侯貴平事件の再調査を開始する。しかしチンピラの所業と思われた事件の背後には、公安局の大隊長や江潭市のトップ企業の経営者など、高い社会的地位と権力の持ち主たちが絡んでいることが判明する。やっと掴んだ手がかりや証言者は次々に抹殺され、気がつけば江陽は、恋人も、家族も、検察官の地位も失い、さらに収賄罪を着せられて、刑務所を出たのは2009年のことだった。獄中で覚えた携帯電話の修理技術で細々と暮らし始めた江陽は、ようやく侯貴平事件の真相に迫る証拠写真を手に入れる。

 しかし江陽の身体は癌に犯され、余命6ヶ月と告げられていた。以下が本格的【ネタバレ】。告発を絶対に成功させるには、この事件に対する社会の関心を強く喚起しなければならない。江陽、陳明章、朱偉、そして江陽の恩師である張超、もと侯貴平の恋人で今は張超の妻となっている李静、さらに平康県で性被害に遭っていた女工の李雪。彼らは張超のシナリオに沿って、奇想天外な計画を実行に移す。江陽は自ら命を断つことによって、社会の不正を訴えたのだ。その告発は成果を収めた。張超、陳明章、朱偉は偽証罪などの罪に問われたが、7年後、刑期を終えた彼らは江陽の墓の前に集う。全ては終わった。

 前半は、2000年、2003年、2010年の3つのドラマが同時に進行していく描き方がスリリングで面白かった。2003年の登場人物がドアを開けると2010年の登場人物が顔を出すとか、かなり込み入った作劇なのに、不思議と混乱しないのである。

 はじめは貧しい農村の小さな性被害事件だと思ったのが、大きな社会不正(政界と財界と公安の権力がつるんでいる)の告発につながっていくのは、中国ドラマらしい展開だと思った。それと、日本なら巨悪に立ち向かうヒーローは一匹狼タイプが好まれると思う。このドラマでは、江陽、陳明章、朱偉という、年齢も性格も異なる3人の男たちが、7年にわたって固い結束(友情?)を保ち続ける。最後は、張超、李静らも加わり、みんなで(警察さえも欺き)社会不正と戦うのだ。ドラマ『摩天大楼』でも思ったが、この熱く濃密な人間関係こそ中国文化なのではないかと思う。

 江陽役の白宇は、明るい未来を信じる青年検察官として颯爽と登場するが、数々の辛酸を舐め、最後は何もかも剥奪された人間の哀しさをにじませ、法の正義を希求して殉教者のように死んでいく。ジェットコースターのような変化をきちんと演じ分けていて見事だった。警察官の厳良(廖凡)、女性隊長の任玥婷(呂暁霖)もキャラの肉付けがしっかりしていてよかった。

 中国語Wikiには、ドラマと原作小説『長夜難明』の違いについて、原作では性被害を受けたのは幼女であるとか、原作では最大の黒幕は周永康(汚職で失脚した政治家)であることが暗示されているとか、気になる記述がある。ドラマもよいが、現代中国の社会派ミステリー、もっと翻訳で読みたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明治天皇盗撮写真も/日本初期写真史:関東編(東京都写真美術館)

2021-01-05 22:51:01 | 行ったもの(美術館・見仏)

東京都写真美術館 『日本初期写真史 関東編 幕末明治を撮る』(2020年12月1日~2021年1月24日)

 写真美術館のこのシリーズが大好きで、ずっと見ている。と書いて、自分のブログを「日本初期写真史」で検索したら何も出てこないので慌ててしまった。以前のシリーズは「知られざる日本写真開拓史」で、「I. 関東編」が2007年、「II. 中部・近畿・中国地方編」が2009年、「III. 四国・九州・沖縄編」が2011年(東日本大震災の直後だった)、 「IV. 北海道・東北編」の2013年に完結した。新シリーズは、あらためて関東編からプレイバックということだろうか。

 展示は三部構成で、一章では歴史を概観し、欧州における写真発祥から日本への輸入や普及するまでの歴史と写真技術を俯瞰する。文久元年(1861)の横井小楠の肖像写真や元治元年(1864)の第二回遣欧使節の一行がパリのナダール写真館で撮った写真など、教科書に載るような有名作品が多い。まだ写真そのもののを大量プリントできないので、写真をもとにした絵画が制作され、それが印刷出版メディアに載る時代だった。

 二章では制作者に焦点をあて、関東地方を訪れたり、この地を基盤として活動した写真家や写真技術者たちの作品を展覧するとともに、一都六県それぞれで開業した初期の写真家たちも紹介する。下岡蓮杖、フェリーチェ・ベアト、小川一真、横山松三郎など。あまり知らない名前もあった。当時の写真家が用いたさまざまな小道具、たとえば人物写真の周囲をぼかすための枠(コピーマスク)とか、写真着彩用の絵具、写真の納品袋、それにプリント用紙裏面の写真館のロゴや広告も興味深く、写真そのものよりも見入ってしまった。浅草奥山にあったという江崎写真館の外観写真も珍しかった。

 最終章は、有名無名の人物写真、名所旧跡など、バラエティに富んだ幕末明治の写真群を一堂に集める。子守りや按摩や相撲など、日本らしい風俗を写した写真は、外国人のお土産とするため、スタジオで作為的に撮影されたと思われるものが多い。鎌倉の大仏や神社の境内など、名所旧跡の写真も、実は、人物は意図的に配されたのではないかとちょっと疑っている。

 それに比べると、あまり作為の感じられないパノラマ写真が私は好きだ。東京・横浜など、高い位置から広い範囲を一望した連続写真である。不連続に重なり合う屋根、屋根と屋根の間の空き地など、細部に目を凝らしていると飽きない。いまの大手町方面とか聖橋あたりとか、当たりがつくのも面白い。洛中洛外図屏風を見る楽しさに通じるものがある。こんなものが残っているのかと驚いたのは、明治22年の『足場を組んだニコライ教会堂』の写真、および明治44年の『中央停車場建築』の写真。後者は建物と屋根の鉄骨がほぼ組み上がって、見慣れた東京駅の全体図(骨組みだけ)が浮かび上がろうとしている。

 しかし、一番驚いたのは、明治4年(1871)(※本展リストの記載による)にオーストリアの写真家ライムント・フォン・シュティルフリートが撮影した『天皇陛下と御一行』(明治大学所蔵)である。白っぽい衣の宮中装束の明治天皇が地面(石畳?)にしゃがみ込んでおり、まわりに洋装の人々(和装も数名)が立ったりしゃがんだりして休んでいる。横須賀造船所の開所式に行幸した際、船の中から(?)盗撮したものと推測されるそうだ。この展覧会のリーフレットにも掲載されているが、たぶん私は初めて見た。

 調べてみたら(展示品と同じ品であるか不明だが)2000年に英国の美術品オークションに登場して話題になり、クリスチャン・ポラック氏を通じて日本にもたらされ、2014年に横浜の県立歴史博物館で展示されたそうだ。

参考:朝日新聞デジタル(2018/2/14)神奈川の記憶(100)明治天皇盗撮された<幻の写真>

 まだまだ知らないことはたくさんあるなあ。この新シリーズ、アップデートされた他の地方編も楽しみである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

忘れられた感染症/日本を襲ったスペイン・インフルエンザ(速水融)

2021-01-03 21:29:15 | 読んだもの(書籍)

〇速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ:人類とウイルスの第一次世界戦争』 藤原書店 2006.2

 スペイン・インフルエンザは、1918(大正8)年の春から1920(大正10)年にかけて世界的に大流行した感染症である。日本では「スペイン風邪」と呼ばれることが多いが、風邪(一種の症候群)とインフルエンザ(ウイルスが媒介する感染症)は全く異なるという立場から、本書ではこの用語を使用する。

 スペイン・インフルエンザは1918年3月にアメリカで発生したのが最初の記録とされている。その後、ヨーロッパ、アジア、アフリカに伝播し、日本でも軍隊を中心に多くの罹患者が出た。しかし致死率は低く「春の先触れ」はあまり関心を呼ばずに消えてしまった。

 ところが1918年の秋以降、第一次世界大戦の戦勝ムードに湧くアメリカ、イギリス、フランスなどで感染が再拡大し、日本では同年10月から翌1919年春まで大流行した。これを「前流行」という。そして終息したかに見えたものの、1919年暮れから翌2020年春まで「後流行」が襲来する。本書は、この2つの期間の各地の感染・死亡状況を、当時の新聞記事や統計資料から、細かく復元して解説する。

 勉強になるのは、統計資料の数字を全て信用するのではなく、論理的に慎重な検証を加えている点だ。たとえば死亡者数について、死亡原因に「流行性感冒」と記されている数ではなく、平常年の死亡者数と比較した「超過死亡数」を算出してみるのもその一例である。ただし比較対象とする「平常年」の死亡数が本当に平常か(別の病気が流行していないか)とか、海軍の場合、船舶事故の有無によって死亡数が大きく変動するなどの注釈がついている。合理的な説明のつかない数字に「ミスプリントではないか」と疑義を呈している箇所もあった。

 そのような検証を経て見えてきたことのひとつは、「前流行」の激しい地域と「後流行」の激しい地域がほぼ逆転していることだ。著者はこのことから、両者は同じH1N1型ウイルスで、「前流行」で人々が免疫を獲得した地域は「後流行」が軽くて済んだのではないかと推測している。ただし「前流行」は感染性は高いが死亡率は低く、「後流行」は感染性は低いが罹患者の死亡率が高い、という明らかな性質の違いはあった。これは、現在の新型コロナが「前流行」タイプであることを思うと、今後の変異がちょっと怖い。

 スペイン・インフルエンザは若者や壮年の罹患者・死亡者が多かったというのは意外だった。軍隊で感染が多発したのは、青壮年層の集団であることに加え、行動に「強制」が伴うこと(少し具合が悪いからと訓練を休むわけにいかない)にもよる。さらに人の往来が感染を加速するのは当然のことで、12月1日の新兵入営日のあと、罹患者が続出している。現在の立場では、次の新学期が不安になる教訓である。

 しみじみ胸にこたえるのは、当時の政府が、マスクの使用、うがいや手洗いの励行、人ごみを避けることなどを繰り返し促してはいるものの、「興行の閉鎖は関東州(外地)だけで、他のところではなされなかった」とか「神仏に救いを求めて殺到する満員電車の乗客には、車内での罹患の可能性が非常に高かったにもかかわらず、何の規制も加えられなかった」等の記述。与謝野晶子は『横浜貿易新報』に寄稿し、なぜ政府は「大呉服店、学校、興行物、大博覧会等、多くの人間の密集する場所の一時的休業を命じなかったのでせうか」と問い、休業は命じないが「なるべく人ごみに出るな」という政府の意思の不統一に怒りを表明している。「日本人に共通した目前主義や便宜主義の性癖」(=将来のことを考えない、当座しのぎ)という晶子の批判は、今でも当たっているように思う。

 このほかにも、看護婦の払底、医療崩壊(入院お断り)、マスク不足など、どこかで聞いたような話が続々と出てくる。ひとたび流行が下火になると恐怖心が薄らぎ、マスクを持ちながら使用を怠る人が増えており「困ったものだ」という新聞記事も、いつの話かと苦笑させられた。

 総括として、著者はスペイン・インフルエンザによる日本の死亡者を内地45.3万人、外地28.7万人と推計する。現代人には、想像を絶する巨大な数字だ。にもかかわらず、スペイン・インフルエンザが「忘れられた」歴史経験となり、論文や研究書がほとんど書かれてこなかったのはなぜか。死亡率が(ペストやコレラに比べて)高くなかったこと、短い期間で終息したことなどの理由に加え、直後(1923年9月)の関東大震災の影響という指摘を興味深く思った。震災の死者は約10万人でスペイン・インフルエンザよりずっと少ないのだが、「風景」の変化は圧倒的だった。「絵になる」震災の一撃によって、スペイン・インフルエンザの記憶は薄れてしまったというのだ。歴史の「記憶」を考える場合に、留意すべき点だと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする