見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

引き裂かれる自己認識/アメリカとは何か(渡辺靖)

2022-11-15 22:11:39 | 読んだもの(書籍)

〇渡辺靖『アメリカとは何か:自画像と世界観をめぐる相克』(岩波新書) 岩波書店 2022.8

 アメリカといえば、リベラルな民主党と保守的な共和党が交代を繰り返す二大政党制で、比較的分かりやすい政治形態だと思っていた。それが最近いろいろと混沌としてきたのを、あらためて整理し直すのに役立つ本だった。

 まず「リベラル」や「保守」の意味は国や地域によって異なる、という注釈に目を開かれる。米国の独立宣言や憲法の基本にあるのは近代啓蒙思想、すなわちヨーロッパ流の「自由主義」で、近代そのものに懐疑的なヨーロッパ流の「保守主義」は希薄である。また強大な中央集権体制を通して社会全体の組織化を目指すヨーロッパ流の「社会主義」も受け入れられていない。ヨーロッパ政治が、社会主義・自由主義・保守主義の三すくみ構造であるのに対して、米国には、自由な市民による統治を肯定する自由主義しか存在せず、その左派を「リベラル」、右派を「保守」と呼んでいるに過ぎない。なるほど、なるほど。

 現在の米国の政治的イデオロギーを整理する際によく用いられるのは「ノーラン・チャート」で、個人の自由(社会的自由)と経済的自由を指標とし、以下の四象限に分類する。

個人の自由 経済的自由 イデオロギー
重視 重視 リバタリアン
重視 軽視 リベラル(左派)
軽視 軽視 権威主義
軽視 重視 保守主義(右派)

 共和党におけるトランプの台頭は、「権威主義」(民族、国家などの集合的アイデンティティを重視する)が「保守」の象限を侵食しつつあることを意味している。かたや「リベラル」の側のサンダース旋風を支えるのは若者たちである。冷戦時代を直接経験していない若い世代にとって「社会主義」への拒否感は少なく、資本主義こそ「強欲」や「不正義」の権化とみなされているという。ええ、なぜ日本にはこれと同調する動きが少ないのだろう。ともかく民主・共和両党とも主流派の求心力が低下しており、超党派の協力は一層困難になっている。左右のポピュリズムが、実はグローバリズムへの不信を共有しているのに対して、グローバルなヒト・モノ・カネの流れを肯定的に捉えるのがリバタリアニズム(自由至上主義)で、デジタル・ネイティブ世代との親和性を強めている。

 イデオロギーの対立は民主主義の健全な姿とも言える。しかし今日の米国は、政治的なトライバリズム(部族主義)に陥っている。「対立や分断がここまで深化した民主主義国家が協調メカニズムを回復した事例はなかなか思い浮かばない」という著者の予言がしみじみと怖い。

 具体的には、コロナ禍の下で先鋭化する陰謀論、「Qアノン」現象、BLM運動をめぐる攻防、キャンセル文化とウォーク文化、増加する国内テロ、等々。これがあの、幼い頃(父親の影響もあって)まぶしく見えたアメリカの現状かと思うと愕然とする。

 次に国際秩序の中の米国を考える。第二次世界大戦後、米国は、普遍的・協調的な「リベラル国際秩序」の構築を主導したと考えられている。私も教科書でそのように習った。しかし、それは本当に「リベラル」で「国際」的だったのか、そもそも「秩序」だったのかという批判が、欧米内部からも上がっているという。要するに「リベラル国際秩序」とは、米国の国益や覇権を正当化するための方便に過ぎなかったのではないか、という厳しい批判である。

 米国の自己認識(リベラル)の揺らぎを横目に、権威主義国家・中国は自信を深めている。なんというかこの構図、アテネとスパルタだな、と思った。米国国内が「リベラル疲れ」でぐだぐだになっている状況も、アテネ民主制の末期を思わせる。著者は米国の将来に関して「楽観的なシナリオ」と「悲観的なシナリオ」を示して本書を終える。どちらが妥当か、私にはよく分からない。むしろ本書を参考にして、私たちが真剣に考えなければいけないのは、「リベラル」が負け続ける日本の将来だと思う。

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迷妄を乗り越える/レイシズム(ベネディクト)

2022-11-14 22:30:54 | 読んだもの(書籍)

〇ルース・ベネディクト;阿部大樹訳『レイシズム』(講談社学術文庫) 講談社 2020.4

 書店で平積みにされていたので、思わず手に取ってしまった。原著は1942年の出版で、日本語翻訳は何度か出ているが、本書は学術文庫のための新訳である。原題「Race and Racism」に従い、第1部では人種(Race)について解説する。人種とは「遺伝する形質に基づく分類法の一種」である。この定義は明確だ。しかし、人はしばしば生物学的に遺伝するものと、社会的に学習されるものの区別を曖昧にする。たとえば「言語」は後天的な学習の結果である。「アーリア」は言語学上の概念で、遺伝的形質とは何の関係もないが、奇妙な誤用がはびこっている。

 学者たちは、皮膚の色、眼の色、鼻の形など、人種を決定的に分ける生物的な基準を打ち立てようと努力してきたが、うまくいっていない。また、ある人種や国籍グループが別のグループより優秀であることを証明しようとした比較研究にも疑義がある。インディアンは完全に自信と根拠をもっているのでない限り軽々しく質問に回答しないように躾けられるとか、ダコタ州の先住民族は「答えを知らないものがその場にいるときには答えをいわない」ことが伝統なのだという。いや面白い。結局、知能テストは学習成果を測るには有効でも、グループ間の先天的な能力差を測ることはできないことが合意となりつつある。

 優秀さは遺伝的に受け渡されるものではない。あるグループに大きな発展が生まれるのは、経済的な余裕と、活動の自由と、そしてこの2つを生かすための好機が揃ったときである。ここは赤線を引いておこうかと思った。国民の自由を抑えつけたり、富の再分配を怠って、格差を放置しているようなコミュニティに発展の余地はないのだ。

 第2部はレイシズムについて。著者はいったん、内分泌系や代謝機能の「平均値」が他と異なるという意味での人種が存在することを認める。しかしレイシズム、つまりエスニック・グループに劣っているものと優れているものがあるというのは迷信であると断言する。レイシズムは「ぼく」が最優秀民族(ベスト・ピープル)の一員であると主張するための大言壮語でしかない。

 以下、著者はこの「選ばれし人間」認識がどのような歴史をたどってきたかを、多少の推測も交えて描き出す。近代のはじめ、ヨーロッパ人は未知の大陸や島々を発見するが、先住民は人間外のものとされていた。なぜなら彼らがキリスト教徒ではなかったからだ。市民革命の時代が訪れると、貴族と平民の対立を人種の違いに求め、貴族の優等性を主張する言説が流行する。19世紀末にはナショナリズムの高まりにより、階級ではなく国家間の優劣に関心が集まった。ヒューストン・チェンバレン『十九世紀の墓標』は、顔の形も髪色も関係なく、絶対の忠誠心をもつ者はすべて「チュートン人」(ドイツ人の祖先)であると説いた。「ドイツ人にふさわしい行動をとる者は、だれでもあれ皆ドイツ人である」という。馬鹿馬鹿しくて笑ってしまった。これは寛容そうに見えて、自分たちの敵に対しても「〇〇に見える行動をとるものは〇〇」という判断を押し付け得るところが怖い。ヒトラーの第三帝国では、時々の政治情勢・利害関係にあわせて、レイシズムが利用された。「レイシズムは政治家の飛び道具である」という言葉も覚えておきたい。

 人種に対する迫害を理解するためには「人種」ではなく「迫害」の歴史を研究すべきことを著者は提唱する。少数者に対する迫害は、ずっと繰り返されてきた。かつて主戦場は宗教だったが、現在(本書の執筆当時)は人種となったように見える。しかし大事なのは、人種差別として表面化したものの根本に何があるのかを知ることだ、と著者はいう。社会の不公正や不平等をなくしていくこと、マイノリティの安全・市民権の保障を進めていくこと、それ以外に人種差別をなくす方法はない、という著者の提言に同意する。80年前の著作とは思われず、著者がまさに21世紀の世界を見て書いているのではないかという錯覚を誘うような1冊だった。この新訳で、あらためて日本の全世代に広く読まれてほしい。

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2022年11月関西旅行:正倉院展(奈良国立博物館)

2022-11-13 22:36:41 | 行ったもの(美術館・見仏)

奈良国立博物館 『第74回正倉院展』(2022年10月29日~11月14日)

 今年も正倉院展に行ってきた。前夜は奈良公園内のホテルに泊まったので、ぶらぶら歩いて、開館1時間前の8:00頃に到着したら、先頭から3組目だった。今年も完全予約制なので、もちろんチケットは入手済である。でも早い順番で入れると、会場内を自由に動けて効率がよい。

 今年のポスターになっているのは『漆背金銀平脱八角鏡(しっぱいきんぎんへいだつのはっかくきょう)』、それに『銀壺』や香木『全浅香』が見どころのようだが、いずれも平成以降に展示されており、初見ではない。銀壺は2010年に東博の『東大寺大仏』で見た。遠目には黒っぽい鉄か銅の壺のようだが、よく見ると弓矢を持った騎馬人物が羊や鹿、イノシシなどを追う狩猟図が生き生きと線刻されている。人物が漢民族の服装なのも逆に面白いと思った。私の好きな『鸚鵡﨟纈屛風(おうむろうけちのびょうぶ)』と『象木﨟纈屛風(ぞうきろうけちのびょうぶ)』(これも2010年に東博に出たもの)を久しぶりに見ることができたのも嬉しかった。

 『漆背金銀平脱八角鏡』は、寛喜2年(1230)に起きた正倉院宝物の盗難に際して破砕され、明治27年(1894)の修理で現在の姿になったという。図録に鏡面の写真が掲載されているが、すさまじい痛々しさである。ホチキスみたいに何十本もの鎹(かすがい)で破片を繋ぎ合わせている。

 正倉院宝物、実は奈良時代から全てが無事で伝わってきたわけではなく、近代以降に修理の手が入っているものも多数あるのだ。シックでかわいい『紫檀木画箱(したんもくがのはこ)』 も、蓋のみが伝来品で、身と床脚は後補だという。『黒柿両面厨子(くろがきのりょうめんずし)』も、大破した状態で発見され、明治26~27年の修理で当初の姿を取り戻したと解説にあった。

 また今年は、保存や展示の難しい刺繍や布製品が目についた。『刺繡飾方形天蓋残欠(ししゅうかざりほうけいてんがいざんけつ)』はかなり大型の品。縁取りの丁寧な刺繍がかわいい。1999年以来の出陳だというので、私は初めて見たかもしれない。ほかにも大仏開眼会で用いられたと思われる綾の袍(長袖の上着)や錦の敷物、染布の帯を複雑に結んだ華鬘の残欠などが出ていた。

 最後には、かつて正倉院の唐櫃に収められていた染織品の断片を貼り交ぜて、幕末に製作された東大寺屏風の復元品と、その布片を再整理した『錦繡綾絁等雑張(にしきしゅうあやあしぎぬなどざっちょう)』が出ていて、文化財の保存・修復は、技術の進歩とともに、試行錯誤の繰り返しであることを感じさせた。

 さて、本当なら、他にも2~3ヶ所寄りたいところがあったのだが、仕事が気になっていたので、この日は正倉院展だけで帰京した。

 ちなみに前日の宿泊先は、春日山原始林の中のディアパークイン(※紹介記事)。投宿の際、管理人さんに「お目当ては万燈籠ですか?」と聞かれて、全く知らなくて驚いたのだが、春日大社では、今年11月の毎週土曜日、若宮の正遷宮を祝う奉祝万燈籠を行っているのだ。

 そこで、持ち込みの夕食を済ませたあと、夜道を歩いて春日大社へ参拝。駐車場から国宝殿のあたりへ抜けていくと、参拝客で賑わっていた。

 暗くて分かりにくいが、まずは若宮神社に参拝。そのあと、大宮(春日大社本社)に移り、釣燈籠に照らされた回廊をめぐるのは八月の万燈籠と同じコース。

 ホテルのあたりに帰ってきたら、鹿が夜のお散歩中だった。私の泊まったホテルは左奥、石段を上った先の灯りが入口である。

 今回は宿泊先にも(仕事の急用に備えて)パソコン持ち込みで落ち着かなかったけれど、次回はもっと浮世離れした気持ちで泊まってみたい。

※参考:正倉院展の参観記録

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木場でうどん屋呑み

2022-11-13 09:24:09 | 読んだもの(書籍)

門前仲町の角打ち呑み屋で、ときどき一緒になるおじさんから、木場に日本酒の呑めるうどん屋があるという話を聞いたので、友人と行ってきた。「饂飩乃風 楽翔(らくと)」というお店である。

「ちょい飲みセット」の天ぷらともつ煮。どちらも注文を受けてから、その場で調理してくれるのでアツアツ、新鮮。

お酒は、プレミア感のある銘柄3種の飲み比べセットのあと、長野の「彗(シャア)」と滋賀の「三連星」をグラスでいただく。三重の「作(ザク)」は知っていたけど、これは初めて。

最後は〆めのざるうどん。

大満足~ごちそうさまでした!

2021年8月オープンのお店とのこと。機会があったらランチにも来てみたい(最近忙しくて、在宅勤務でもゆっくりランチの時間が取れないのが悲しい)。

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2022年11月関西旅行:茶の湯(京都国立博物館)

2022-11-10 22:50:55 | 行ったもの(美術館・見仏)

京都国立博物館 特別展『京(みやこ)に生きる文化 茶の湯』(2022年10月8日~12月4日)

 各時代の名品を通して、京都を中心とした茶の湯文化を紹介する。展示替えを含め、出品点数は245件。質量ともにスゴい展覧会だと思うのに、いまいち盛り上がっていないのは、残念というべきか幸いというべきか。土曜の午後でも、それほど混雑していなかった。

 印象に残った作品を挙げていく。まず第1室(3階)の冒頭にあった清拙正澄墨蹟『秋来偈頌』(野村美術館)にほれぼれして、しばらく動けなくなってしまった。墨色の美しいこと。金と紫の格子文様の表具もセンスがよい。関西の美術館の所蔵品は、まだまだ知らないものが多いなあと思う。この部屋は、墨蹟のほか、茶釜・水指・茶入・茶碗・花瓶・棗など、茶の湯道具のいろいろ(名品ばかり!)がひととおり並ぶ。『吉野絵懐石道具のうち』と記された飯椀・汁椀・丸盆などのセット(江戸時代)は、所蔵者が書いてなかったので個人蔵だろうか。黒漆の地に朱漆で大きく草花文を描いた華やかな器で、これが利休好みと言われていることが意外だった。「嵯峨棗」という蒔絵の棗も珍しかった。東京では、これほど華やかな棗はあまり見ないような気がする。

 第2室は、喫茶文化との始まりを求めて中国へ。中国・唐時代の白磁碗(邢州窯系、スープ皿のように浅い、京博)に驚く。円覚寺所蔵で開山・無学祖元への献茶道具と伝わる響銅鋺(さはりわん、銅製)と托(朱塗の天目台)・六角形の盆のセットもたぶん初めて見た。南宋時代の茶臼(野村美術館)は、卓上で使えるような小さな石臼だった。また、長岡京跡で発掘された緑釉陶器釜と火舎(平安時代、8~9世紀、京都市考古博物館)は、茶を煮出すための道具と考えられているそうだ。

 2階に下りると、本格的に喫茶文化の導入が進む鎌倉時代。建仁寺の『四頭茶礼道具』は、なぜか2019年の常設展でも見ている。建仁寺では方丈に栄西の肖像と龍虎図を掛け、香炉、花瓶、燭台等を飾るとのこと。その雰囲気を再現するため、大徳寺の伝・牧谿筆『龍虎図』(人相が悪い)が掛けてあり、見覚えのある青磁花瓶1対や青磁香炉が出ていると思ったら、神奈川・称名寺のものだったりした。そのほか、出光美術館の青磁酒海壺、根津美術館の青磁竹子花入も来ていた。

 伝・牧谿筆「瀟湘八景図」のうちの『煙寺晩鐘図』(畠山記念館)も久しぶりに拝見。玉澗筆『洞庭秋月図』(文化庁)に李迪筆『雪中帰牧図』2幅(大和文華館)もあり。もうこれは高水準の中国名画展である。会場の入口に置かれていたリーフレットに「茶の湯は日本を代表する文化」とあって、ご丁寧に中国語版も用意されていたけど、どうなの?と思ってしまった。

 もちろん日本の民衆が喫茶を楽しんだ証拠として、東寺の南大門前で商売をする茶売人の連署資料(東寺百合文書)が出ていたり、小屋掛けの茶屋を描いた『珍皇寺参詣曼荼羅図』が出ているのも面白かった。

 1階、いつもなら仏像が並ぶ大展示室には、利休の『待庵』と秀吉の『黄金の茶室』の復元模型が展示されていた。前者は今回の特別展のために再現されたもの、後者は佐賀県立名護屋城博物館が再現したものらしい【※訂正あり】。どちらも屋根がなく、壁は紙のように薄くて、ポータブルの玩具のようだが、まあ茶室って本質的にはそういうものかもしれない。

 1階右奥の展示室は、いつも展覧会の目玉が飾られる部屋で、今回も予想どおりだった。入口を入ったとたん、正面の一部に淡いピンクの壁紙が見えた。そこに掛かっていたのが、伝・徽宗皇帝筆『桃鳩図』である。あまり混んでいなかったので、私はまっすぐ『桃鳩図』の前に歩み寄った。ネットの情報によれば、2004年→2014年→2022年と、ほぼ10年に1回の公開サイクルらしい。しかも今回も11/3-6のわずか4日間の公開である。前回、2014年の三井記念美術館『東山御物の美』に出たときは、私は札幌在住で、東京行きのタイミングを合わせることができなかったのだ。死ぬまでに一度は見たいと思っていた作品で、ついに夢が叶った。品種はアオバトだそうだが、こんなに丸っこく愛らしい姿を見せるものなのだろうか。ぱっちりした目もチャームポイント。隣には、同じく伝・徽宗筆『秋景冬景山水図』2幅(金地院)が並んでいた。こっちは東京で何度か見たことがある。

 大満足で向かい側の部屋に進んだら、伝・牧谿筆『柿図・栗図』2幅(龍光院)があったのも嬉しかった。墨色の濃淡で柿の熟れ具合を描き分けた『柿図』は可愛らしくて好き。青磁鳳凰耳花入の名品、陽明文庫の『千聲』と和泉市久保惣美術館の『万聲』が並ぶのもめったにないことだろう。まだ書き足りないことは多数あり、できたら後期にも再訪したいが、無理かなあ。しかし至福の展覧会だった。

【2022/12/4訂正】同展を再訪して確かめたら、これは伏見桃山城キャッスルランド(2003年閉園)が1994年に制作したものだった。現在は京都市が譲り受けて管理しているらしい。

京都市情報館:伏見桃山城内所蔵品「黄金の茶室」の貸出しについて

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2022年11月関西旅行:長等山前陵探し~義仲寺

2022-11-08 22:36:03 | 行ったもの(美術館・見仏)

■弘文天皇陵(長等山前陵)探し~新羅善神堂

 大津市歴史博物館の『大友皇子と壬申の乱』展を興味深く参観したが、結局、弘文天皇陵に決まった「亀丘」がどこにあるのか、よく分からなかった。会場の隅で、スマホで検索してみたら、博物館のすぐ近所であるらしい。地元の人には当たり前すぎて、掲示するまでもない情報なのだろうが、関東民の私は初めて知った。

 せっかくなので寄ってみようと思い、博物館を出て、Googleマップをたよりに御陵を目指したが、警察学校の敷地に突き当たってしまった。仕方ないので、京阪石山線に並行する県道に出て、市役所や消防署の前を過ぎ、ようやく「弘文天皇陵」の道案内を見つけて左折した。雑木林の中にあらわれた、ゆかしげな門と塀。

 これか!と思ったら違った。「三井寺(園城寺)新羅善神堂」の看板が立っていた。私は、新羅善神(新羅明神)という神格にもむかしから興味があるので、思わぬ出会いにびっくりしてしまった。しかし、弘文天皇陵に通じる道はよく分からず、今回は断念した。宮内庁のホームページには道案内が掲載されているのだが、こんな道、あったかしら? 次回は、よく事前調査をして訪ねたい。

朝日山 義仲寺(大津市馬場)

 京阪線を石場で下りて、義仲寺に立ち寄った。たぶん大昔に来たことがあるはずだが、全く記憶がなかった。住宅街にひっそり佇む小さなお寺である。Wikiを読むと、何度も荒廃と再興を繰り返してきたようだ。天台宗系単立の寺院だというが、芭蕉を祀る翁堂には、黄檗宗のお寺で見る小型の開梆(かいぱん、魚板)が下がっていた。

 受付のお姉さんが「ご朱印は、義仲殿、巴御前、芭蕉翁があります」というので、義仲と巴をいただいていくことにした。本来のご本尊は聖観音菩薩なのだが。

 入口に近いほうから横一列に並んだ石塔。いちばん手前は巴御前の供養塔。

 その隣り、立派な宝篋印塔は木曾義仲の墓。礎石の下は大きく土が盛り上がり、ふかふかした緑の苔に覆われていた。奥に見える石組の囲いが芭蕉の墓である。受付のお姉さんが「巴御前は供養塚、義仲と芭蕉は実際に埋葬されたもの」とおっしゃっていたと思う。

 芭蕉の墓石は、門人がこういう自然石を選んだのか、不思議なかたちをしている。島崎又玄の句「木曽殿と背中合わせの寒さかな」が有名だが、墓所の位置関係は「背中合わせ」というより「隣りどうし」である。

 死んだ後も「推し」の隣りにいられる芭蕉は幸せ、という感想をSNSで読んで、なるほどと思っていたら、境内の隅に保田與重郎の墓を見つけてしまった。保田は、戦後、義仲寺の再興に尽力したそうで、「木曾冠者」「芭蕉」の著作もあるのだ。こういうファン人生もあるよなあ、としみじみしてしまった。

 ほかに境内には、鳥居に「木曾八幡」の札(額)を掲げた社があったり、伊藤若冲の花卉図天井画(あまりよく見えない)のある翁堂があったりする。季節の花木も多く、機会があったら藤の咲く頃に来てみたいと思った。板塀の貼り紙にも味がある。

 そして、JR膳所駅の壁画。これはカッコよすぎ~!うれしい!!

 あと、石場駅で下りたとき、久しぶりに琵琶湖文化館の雄姿が正面に見えたのも懐かしかった。2008年3月末に休館するまで何度か訪れたことがあり、大好きな施設だったのだ。「新・琵琶湖文化館」どうなるのかなあ。よい方向に進んでほしい。

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2022年11月関西旅行:大友皇子と壬申の乱(大津市歴博)

2022-11-07 22:21:33 | 行ったもの(美術館・見仏)

大津市歴史博物館 壬申の乱1350年記念企画展(第88回企画展)『大友皇子と壬申の乱』(2022年10月8日~11月23日)

 週末は1泊2日で関西旅行に行ってきた。このところ、公私ともに突発的なトラブルに見舞われ続けていて、旅行はあきらめようかと思ったが、いやいや、と思い直して出かけた、土曜の朝、京都に到着して、最初は大津の歴博に向かう。この時期、同館の企画展を参観するのは、秋旅行の定番コースなのだが、乗り換えの膳所駅がきれいになっていて驚いた(2017年6月オープンだからもう5年目だが)。

 壬申の乱は、天智天皇の後継を、天智の弟・大海人皇子(のちの天武天皇)と天智の息子・大友皇子が争った古代日本最大の内乱である。本年が、672年の壬申の乱から1350年という節目の年であることを記念し、関連地域の考古資料・歴史資料から、壬申の乱の経過を追うとともに、明治時代に大友皇子が弘文天皇とされ、その陵墓が大津の長等の地に決定された経緯や、各地の大友皇子伝承についても紹介する。

 私は大学での専攻が万葉集だったので、文学作品の背景として、この時代の歴史は、ひととおり学んだ。大人になってからの読書では、橋本治の『双調 平家物語』が、源平の物語と見せかけて古代から始まり、壬申の乱をかなり詳細に描写していたのが、強く印象に残っている。

 はじめに天智天皇が開いた近江大津宮と、その周辺にあった多くの古代寺院について紹介する。大津宮跡(近江大津宮錦織遺跡)へは行ったことがあっただろうか? いかんなあ、一度は行ってみなければ。多数の〇〇廃寺跡へもなるべく行ってみたい。崇福寺跡は、紅葉の頃は風情がありそうだが、徒歩では無理かなあ。

 次に壬申の乱の経過に従って、関連遺跡を見ていく。そうそう、伊勢・伊賀・美濃など、戦闘は驚くほど広範囲に広がっているのだ。詳しい記録(脚色もある?)が残っているのは瀬田橋の戦いである。7世紀中頃(壬申の乱当時)の第1橋と、8~9世紀の第2橋の復元模型が出ており、とても興味深かった。全体が木製で、川底に接する格子状の基礎構造には石を置いて重しにする。欄干はないが、橋板は水平でかなり広く、安定している。渡来人が関わっていたというが、中国の橋といえば石橋のイメージである。朝鮮の技術なんだろうか。

 敗れた大友皇子は「山前」で自害したと伝えられる。勝者の大海人皇子は、大津はおろか近江にも足を踏み入れていないというのは、のちに平家を滅ぼした頼朝みたいである。そして天武天皇として即位。「天皇」表記のある木簡が展示されていたが、これはレプリカだった。

 大友皇子については、法傳寺(大津市)の大友皇子像(大正時代、つるっとしたハンサム顔)と与多王像(僧形神坐像、大友皇子の子である与多王像として伝わる、平安もしくは室町時代)が出ていた。まあ『懐風藻』の漢詩からイメージを膨らますほうがいいのではないか。

 その大友皇子、江戸時代には即位説が唱えられ、「大友天皇」「大友帝」と呼ばれるようになり、1870(明治3)年、明治政府は大友帝に「弘文天皇」の諡号をおくることを布達する。このとき、淡路廃帝の淳仁天皇、九条廃帝の仲恭天皇の諡号も決まっているのだな。我々が見ている天皇系図なんて、こうやって後世に整備されたものだということが分かって、たいへん面白かった。

 さらに面白いのは、天皇と決まった以上、天皇陵がなければいけないので、1877(明治10)年には、大津市御陵町の亀丘(亀塚)が弘文天皇陵(長等山前陵=ながらのやまさきのみささぎ)に定められる。御陵は不詳、というわけにはいかないのだな。実は亀丘以外にも、複数の御陵候補地があったことや、千葉県君津市では、白山神社古墳を弘文天皇陵と認めてもらおうという運動が、明治30年代まで続けられたというのは初めて知った。何がそこまで千葉県民を駆り立てたのだろう。

 常設展コーナーでは、第176回ミニ企画展『大津の天台真盛宗寺院の寺宝』(2022年11月1日~12月4日)も見ることができ、ちょっと得をした気分だった。仏画『赤童子像』(室町時代、小野・上品寺)はイケメンで、真っ青な鬼大師坐像(ドラえもんカラー、江戸時代、大江・西徳寺)も気に入った。

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家族、大切なもの/中華ドラマ『消失的孩子』

2022-11-06 23:07:22 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇『消失的孩子』全12集(愛奇藝、2022年)

 舞台は中国南方の都市(撮影地は寧波)の団地。サラリーマンの楊遠は、妻の陶芳と9歳になる息子の莫莫の三人暮らし。5階建ての住棟は、2戸が1つの共用階段を使う造りで、楊遠一家は402号室に住んでいた。

 冬至の朝、楊遠は息子を小学校に送るため、住棟の出口に車を寄せて莫莫を待っていた。ところが、いつまで待っても下りてこない。妻に電話をすると、もう部屋を出たという。4階の部屋を出て1階の出口へ至る階段室のどこかで、莫莫は姿を消してしまったのだ。

 捜査を担当することになったのは女性警官の張葉。幸せな家族と思われた楊遠一家だが、莫莫は多動症(ADHD)の診断を受けており、集中力がなく、成績が伸びないことを母親の陶芳は気に病んでいた。仕事に追われる陶芳は、家族で遊びに行きたいという莫莫の願いや、孫に会いたがる楊遠の両親にも冷淡だった。

 階下の302号室には、住宅設計や内装を請け負う工務店の経営者である許安正が住んでいた。許は離婚しており、中学生の娘・恩懐と二人暮らしだったが、あまり娘を構っていなかった。ある日、楊遠一家は、団地の階段に座って父親の帰りを待っていた恩懐を見かけて、自分たちの家に誘う。莫莫はすっかり恩懐になつき、毎日、放課後を一緒に過ごすようになった。楊遠夫妻も恩懐を可愛がり、夏には郊外の北湖へ泊りがけ旅行にも連れていった。

 楊遠夫妻は張警官とともに302号室の室内を見せてもらうが、莫莫の姿はなかった。しかし恩懐の挙動に不審なものを感じた楊遠は、子供たちが、大人に黙って思い出の北湖へ遊びに行こうと相談していたことを突き止める。恩懐は、あらかじめ莫莫に302号室の鍵を渡していた。学校へ行くフリをして家を出た莫莫は、無人の302号室に入って、恩懐が学校から帰ってくるのを待つ計画だった。ところが、莫莫はどこかに消えてしまったのだ。

 301号室には、足の悪い老人・袁平安と息子の袁午が住んでいた。袁午は子供の頃から過保護に育てられたため、基本的な社会適応力を欠いていた。賭事で大きな借金をつくり、家を売り、妻と娘に逃げられ、母親亡き後、父親の年金で細々と暮らしていた。ところが(莫莫の失踪の1週間ほど前)その父親が急死してしまう。袁午は医者や警察を呼ぶことができず、室内にあった大きな水槽に父の遺体を沈め、防腐処理を施したつもりで茫然としていた。

 301号室の本来の所有者は、林楚萍という若い女性だった。林楚萍は一人暮らしをしていたが、ある晩、侵入者に麻酔を嗅がされ、性的被害を受けたため、怖くなって、その部屋を格安で袁午親子に貸し出していたのだ。林楚萍の兄は、妹の同僚の呉駿を疑う。しかし呉駿はシロで、むしろ林楚萍のために犯人捜しに協力しようと申し出る。

 そして、最終的には3つの事件がひとつに収束していく。以下【ネタバレ】だが、302号室の許安正の寝室には、隣の301号室に通じる抜け道が隠されていた。莫莫はこの抜け道を伝って、301室で袁午の秘密(父親の遺体)を見てしまった。かつて林楚萍に性的暴行を加えた侵入者は許安正だった。

 要約してしまうと面白味がないが、わざと時間経過を錯綜させて、3つの事件のつながりが、じわじわと浮かび上がっていく演出はスリリングで面白かった。登場人物の中で一番キモチわるいのは袁午だが、抜け道の発覚を恐れる許安正から、莫莫を始末するよう迫られても手を下すことができない。麻雀店の女店員から「あなたの名前は、正午の陽光のような人間になることを望んで親御さんがつけたんだね」と言われて、真人間に立ち戻っていく姿がちょっと感動を誘う。

 事件はおおよそ第11話で解決してしまうのだが、最終話は登場人物たちの後日談を丁寧に描いている。恩懐は離婚した母親に引き取られる。楊遠夫妻は、恩懐の母親とも話し合い、引き続き、恩懐を家族の一員同様に面倒を見ることを申し出る。袁午の前妻は、袁午の減刑嘆願書に署名してくれるよう、楊遠夫妻に頭を下げる。そして袁午が相当の刑期を終えて出獄した日にも、出迎える彼女の姿があった。性被害の告発をした林楚萍も家族に暖かく迎えられ、新しい人生に向き合う。事件解決直後、帰宅した張警官を老いた父親が待っていて、二人だけの食卓を囲む光景もよかった。

 このドラマに描かれるのは、どこかに欠点やつまづきを抱えた不完全な家族(親子)ばかりである。しかし、傍目にはどんなに問題があっても、人間にとって自分の家族はつねに大切な存在なのだ。この世界には、完美(パーフェクト)な父母はいない、完美な子供もいない、という楊遠のつぶやきが心に残った。

 あまり知っている俳優のいないドラマだったが、袁午役の魏晨さんは覚えた。あと呉駿役の呉昊宸さんは、琅琊榜弐の蕭元啓じゃないか!ドラマに登場する「桂圓鶏蛋(湯)」(リュウガンとゆで卵の甘いスープ?)は、中国南方では冬至の定番料理らしい。もちろん家族円満を祈る意味がある。

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味のある凸凹コンビ/中華ドラマ『唐朝詭事録』

2022-11-03 22:07:48 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇『唐朝詭事録』全36集(愛奇藝、2022年)

 全く注目していなかったドラマだが、本国でも日本のSNSでも評判がいいので見てみた。なるほど、なかなか面白かった。設定は唐の景雲年間(と第1話の字幕にある)、武則天の治世が終わり、中宗の復位を経て、同じく復位した睿宗の治世である。狄仁杰の弟子を以て任ずる文官の蘇無名(検死の知識もある)と、血気盛んな武官の盧凌風のコンビが、さまざまな怪事件に出会い、それを解決していく。

 4~5話で1つの事件が解決する方式で「長安紅茶」「甘棠駅怪談」「石橋図」「黄梅殺」「衆生堂」「鼍神」「人面花」「参天楼」の8つの事件が展開する。最初の「長安紅茶」は長安が舞台で、事件解決の後、蘇無名は公主(モデルは太平公主)に称賛され、南州司馬に昇格して赴任することになる。一方、盧凌風は、行き過ぎた行動が太子の不興を買い、金吾衛中郎将の職を解かれ、長安を放逐されてしまう。蘇無名は盧凌風を「私人参軍」(幕僚)として南州に伴うことにし、「長安紅茶」事件の解決に協力した、酒好きで鶏肉好きの医術の達人・費鶏師も同行することになる。また、名家のお嬢様の裴喜君は、家奴の少年・薛環を連れて、盧凌風を追いかけてくる。喜君は絵画の巧手で、このあと、彼らが旅先で出会う難事件の解決にも役立つことになる。

 この老若男女とりあわせた個性豊かなチームが、本作の魅力のひとつ。子供の頃に見ていた戦隊ヒーローものを思い出した。主人公の盧凌風は、確かに武芸に優れ、頭脳も優秀な青年ではあるものの、はじめは自負心が強すぎて他人と調和できなかったのが、チームの面々に揉まれて、少しずつ大人になっていく描き方もよい。それを見守る喜君は、ただのお嬢様でなく、きちんと自立した女性である。

 「甘棠駅怪談」「石橋図」「黄梅殺」の解決後、盧凌風は橘県の県尉に任ぜられ、蘇無名らの助力を得て「衆生堂」の事件を解決する。次に蘇無名は寧湖の司馬に転任。ここで宗教結社「鼍神社」の事件に関わり、江湖の女侠・桜桃と出会う。桜桃は、不器用だが誠実な蘇無名に惹かれて、以後、蘇無名を影ながら護衛する役割を担う。カッコいいお姉さんなのだ。事件の舞台が長安や洛陽の大都会だけでなく、いろいろ地方色に富むのも楽しい。しかし地方に出てしまうと、どの時代なのか、よく分からなくなるきらいがある。

 「人面花」は洛陽が舞台。若さと美貌を保つ秘薬として女性たちが飛びついた人面花が、実は毒薬だったことが判明する。人面花はパンジーの異名らしいが、ドラマの中では、パンジーに似た花が樹に咲いていて面白かった。そして公主も人面花の毒に当たって解毒薬を待っているという極秘の情報がもたらされ、公主と太子(モデルは李隆基=玄宗か)の対立の表面化が案じられるが、実はまわりの官僚が私欲のために対立しているだけで、両者は互いを思い合っていることが判明。中国ドラマには珍しく、心暖まる皇帝一家だった。

 最後の「参天楼」の舞台は再び長安へ。皇帝は三十三層の高層建築である参天楼(これは全くのフィクションらしい)の落成を記念して幻術大会を開催することにした。異国風の幻術師が次々に登場したけれど、やっぱり幻術といえばペルシャ人なのかな。この機会を狙って、皇帝・太子・公主を全て殺害しようとしたのは沙斯。かつて最晩年の狄仁杰が捕まえようとして取り逃がした人物だった。蘇無名らは、あらかじめ万全の予防策を施し、沙斯の計画を頓挫させた。

 全体として、謎解きの緻密さに欠けるが、怪奇趣味のぞくぞくするエピソードが多く、アクションもCGも派手めで楽しめた。あまり徹底した悪人がいないのも、悪い後味が残らなくてよい。強いていえば、最後に皇帝がその片鱗を見せていたが。沙斯は控鶴府(則天武后が男寵を集めた機関)の一員だったことになっていたり、参天楼の設計者の名前が宇文慕愷だったり(モデルは洛陽城の建設を主導した宇文愷か)、この時代の歴史の知識があると、より楽しめると思う。

 蘇無名役の楊志剛は初めて知ったけれど、好きなタイプ。食えないおじさん役がすごく似合っていた。盧凌風役の楊旭文は、2017年版『射雕英雄伝』の郭靖か。ずいぶん大人っぽくなって、キレのあるアクションを見せてくれた。あと、意外なところにベテランの俳優さんを起用しているので、それを見つけるのも楽しみのひとつだった。

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