宮本輝 平成元年発行・平成二十五年改版 新潮文庫版
きょうは祝日なんで、月曜恒例の乗馬練習は休み。つまらん。
私にとって最近の乗馬は、からだの運動というよりも、メンタルの部分での効果のほうが大きいんぢゃないかと自分では思うようになっているので、無いのはつらい。精神病んぢゃわないように気をつけないと。
動物園にでも行こうかと思ったけど、外、暑そうだしねえ、よしとく。
話題としては代わりに、馬の出てくる小説の話にしてみる。全然癒されたりはしないけど。
「『優駿』読んだことありますか」とは、何週間か前の乗馬のときに訊かれたこと。
優駿ったって、中央競馬の月刊誌ぢゃなくて、かの有名な小説のほう。昭和61年刊行らしい。
無いねえ、映画はビデオで何回か見たことあるけど。
そう言やあ、ことしのダービーのころに、プロモーションの映像で、斉藤由貴がなにか語ってたのがあったなあ、なつかしい。
いろいろ細かい部分でおもしろいとこはあるけど、ダービーを勝ってめでたしめでたしというおはなしにあまり興味がもてないで小説読んでない私としては、逆に「おもしろいですか?」と聞き返してみたくなったわけだが。
すると、「まだ全部読み終わってないけど、どこまでホントかなあと思うとこがあるので」というような気に懸りかたをしているそうで。
ぢゃあ読んでみるかという気になって、不精な私にしてはわりと早く手に入れてすぐ読んでみた。
一頭のサラブレッド(名前はオラシオン)によって運命が交叉する人たちが登場するんだけど、ダービー馬になるわりには関わった人たちはあんまりハッピーになるとは言えないなあという感じ。
厩舎や騎手が決まってくまでの過程が、映画ではわかんなかったけど、盛り上げに一役買ってて、小説のほうがいいか。
まあ、ストーリーはいいとして。
冒頭から、いきなり
>そのとき、調教師と馬主、それに生産者である渡海千造とのあいだで取り決めがなされた。馬が競走生活を終えて繁殖にあがるときは、必ずトカイファームに帰すようにするというものだった。千造はそのために、仔馬を売らず、馬主に四百万円で貸すという形を取ったのだった。
と来たもんだ。ダメだよ、それ。
それがオラシオンの母馬の話なんだが、肝心のオラシオンにしても、
>そやから書類上では俺が馬主やけど、お前に、あの黒い仔馬をやろう
って、だから、ダメだってば、そういうの、よしなさい。名義貸しでタイホされますよ。
どうでもいいけど、競馬に関わる人たちについて、著者は登場人物たちの言葉を借りて、けっこう厳しい表現をするのが気になる。
オラシオンの馬主の秘書が、競馬場の馬主席に入ったところで、
>裕福な筈の馬主たちも、しがないサラリーマンでしかない記者たちも、身なりの違いこそあれ、みなやくざな顔をしている、と多田は思うのである。(略)表情のどこかに共通したものが漂っていて、それに多田は「やくざ」という言葉を冠したのであった。他のいかなる言葉も思いつかなかった。
とかね。騎手の顔つきにしても、
>ただひたすら馬、馬、馬だ。世間にまったく触れないままにおとなになって、それからいよいよ本格的に馬、馬、馬だ。世間並みの顔をしている筈はねェよ。だってそんなの、正常な人間の育ち方じゃないからな
と辛辣だ。
競走中の事故で有力馬を失ってしまった馬主の口を借りて、
>自分の馬が死んだことを、こんなに哀しがるような人間に、競走馬を持つ資格なんかおまへん。馬主は、馬に愛情なんか持ったらあかんのです。馬を株券か女郎ぐらいに思う神経の人だけが楽しめる世界ですなァ。
なんて言わせたりもしてる。
ええと、真偽のほどがわからない件については、ああ例えばこういうのか。
>しかしいつの頃からか、スターターは「出ろう」と号令をかけても、一番人気の馬の態勢が整っていない場合はゲートを開かないようになり、騎手たちはスタートをきる呼吸を計る基準を失った。それで(略)一番人気の馬の様子を横目で窺うのである。
って、それは無いでしょう。
先輩騎手が軽い鞍を借りにくる場面で、
>もしハンディキャップが五十キロの馬に乗る場合、騎手は自分の体重を四十七.五キロから四十八キロほどまで落としておかなければならない。鞍や乗馬靴、それに帽子と鞭と勝負服、さらに泥よけ用のゴーグルに馬番を示すゼッケンも入れると、たとえ最も軽い五百グラムの鞍を使っても、二キロ近い重さになるのだった。
というくだりがあるが、帽子と鞭や、ゼッケンは負担重量に入らない。
まあ他のことと同様、もちろんフィクションなんで、入れる世界があってもかまわないんだけど。
ああ、あとレース後の、
>鞍を外し、一度も使わなかった鞭と、土のこびりついた帽子を持ち、奈良は検量室の秤に乗った。
>「はい」
>検量の係り員は大きな声でそう言った。
というところだけど、そこはぜひとも「よし」と言ってほしいですね、個人的には。
きょうは祝日なんで、月曜恒例の乗馬練習は休み。つまらん。
私にとって最近の乗馬は、からだの運動というよりも、メンタルの部分での効果のほうが大きいんぢゃないかと自分では思うようになっているので、無いのはつらい。精神病んぢゃわないように気をつけないと。
動物園にでも行こうかと思ったけど、外、暑そうだしねえ、よしとく。
話題としては代わりに、馬の出てくる小説の話にしてみる。全然癒されたりはしないけど。
「『優駿』読んだことありますか」とは、何週間か前の乗馬のときに訊かれたこと。
優駿ったって、中央競馬の月刊誌ぢゃなくて、かの有名な小説のほう。昭和61年刊行らしい。
無いねえ、映画はビデオで何回か見たことあるけど。
そう言やあ、ことしのダービーのころに、プロモーションの映像で、斉藤由貴がなにか語ってたのがあったなあ、なつかしい。
いろいろ細かい部分でおもしろいとこはあるけど、ダービーを勝ってめでたしめでたしというおはなしにあまり興味がもてないで小説読んでない私としては、逆に「おもしろいですか?」と聞き返してみたくなったわけだが。
すると、「まだ全部読み終わってないけど、どこまでホントかなあと思うとこがあるので」というような気に懸りかたをしているそうで。
ぢゃあ読んでみるかという気になって、不精な私にしてはわりと早く手に入れてすぐ読んでみた。
一頭のサラブレッド(名前はオラシオン)によって運命が交叉する人たちが登場するんだけど、ダービー馬になるわりには関わった人たちはあんまりハッピーになるとは言えないなあという感じ。
厩舎や騎手が決まってくまでの過程が、映画ではわかんなかったけど、盛り上げに一役買ってて、小説のほうがいいか。
まあ、ストーリーはいいとして。
冒頭から、いきなり
>そのとき、調教師と馬主、それに生産者である渡海千造とのあいだで取り決めがなされた。馬が競走生活を終えて繁殖にあがるときは、必ずトカイファームに帰すようにするというものだった。千造はそのために、仔馬を売らず、馬主に四百万円で貸すという形を取ったのだった。
と来たもんだ。ダメだよ、それ。
それがオラシオンの母馬の話なんだが、肝心のオラシオンにしても、
>そやから書類上では俺が馬主やけど、お前に、あの黒い仔馬をやろう
って、だから、ダメだってば、そういうの、よしなさい。名義貸しでタイホされますよ。
どうでもいいけど、競馬に関わる人たちについて、著者は登場人物たちの言葉を借りて、けっこう厳しい表現をするのが気になる。
オラシオンの馬主の秘書が、競馬場の馬主席に入ったところで、
>裕福な筈の馬主たちも、しがないサラリーマンでしかない記者たちも、身なりの違いこそあれ、みなやくざな顔をしている、と多田は思うのである。(略)表情のどこかに共通したものが漂っていて、それに多田は「やくざ」という言葉を冠したのであった。他のいかなる言葉も思いつかなかった。
とかね。騎手の顔つきにしても、
>ただひたすら馬、馬、馬だ。世間にまったく触れないままにおとなになって、それからいよいよ本格的に馬、馬、馬だ。世間並みの顔をしている筈はねェよ。だってそんなの、正常な人間の育ち方じゃないからな
と辛辣だ。
競走中の事故で有力馬を失ってしまった馬主の口を借りて、
>自分の馬が死んだことを、こんなに哀しがるような人間に、競走馬を持つ資格なんかおまへん。馬主は、馬に愛情なんか持ったらあかんのです。馬を株券か女郎ぐらいに思う神経の人だけが楽しめる世界ですなァ。
なんて言わせたりもしてる。
ええと、真偽のほどがわからない件については、ああ例えばこういうのか。
>しかしいつの頃からか、スターターは「出ろう」と号令をかけても、一番人気の馬の態勢が整っていない場合はゲートを開かないようになり、騎手たちはスタートをきる呼吸を計る基準を失った。それで(略)一番人気の馬の様子を横目で窺うのである。
って、それは無いでしょう。
先輩騎手が軽い鞍を借りにくる場面で、
>もしハンディキャップが五十キロの馬に乗る場合、騎手は自分の体重を四十七.五キロから四十八キロほどまで落としておかなければならない。鞍や乗馬靴、それに帽子と鞭と勝負服、さらに泥よけ用のゴーグルに馬番を示すゼッケンも入れると、たとえ最も軽い五百グラムの鞍を使っても、二キロ近い重さになるのだった。
というくだりがあるが、帽子と鞭や、ゼッケンは負担重量に入らない。
まあ他のことと同様、もちろんフィクションなんで、入れる世界があってもかまわないんだけど。
ああ、あとレース後の、
>鞍を外し、一度も使わなかった鞭と、土のこびりついた帽子を持ち、奈良は検量室の秤に乗った。
>「はい」
>検量の係り員は大きな声でそう言った。
というところだけど、そこはぜひとも「よし」と言ってほしいですね、個人的には。
