河合隼雄 平成六年 新潮文庫版
河合隼雄さんの本をまた何か読みたいけど、むずかしそうなのはヤだなとか思いつつ、たしか5月の古本まつりで買ったやつ。
『とりかへばや』というのは、私は全然知らなかったんだけど、わが国の古典。
ただし、作者も成立年も未詳、って、おいおい、それぢゃ教科書とかに出てくるわけもなく、私みたいなものが知るわけもない。
一応、平安朝末期の作ということらしく、1201年の『無名草子』において論じられてるというのがその根拠だという。
作者は誰だかわかんないけど、男性説と女性説の両方があるらしい、ほんと誰だかわかんないにしても、そこまでわからんかね。
ストーリーはというと、男と女のきょうだいの話。これが兄と妹なのか、姉と弟なのかも諸説あるらしい。河合先生は姉弟派。
で、なぜか小さいときから、姉は男みたいな性格、弟は女みたいな性格してて、どうにも修正しようがないので、しょうがなく姉を男として弟を女として育てちゃう、父親は二人をとりかえられたらなあなんて思いながら。
どっちも美しいと評判になりながら大人になるんだけど、世間向けには性別逆にしてるんで、嫁にくれとか嫁をもらってくれとか言われても困っちゃう。
かくして、イロイロあるんだが、最後はふたりとも王朝において、男として女として最高の出世をきわめ、めでたしめでたしとなるんだが。
途中のイロイロあるところが、なんせ性別逆にしてたんで、ほかのふつうの平安文学の恋愛とはちがうわけで、そのへんでこの物語の歴史的評価が低いらしい。
なぜにそんなものを心理学者がとりあげるかというと、男と女とか、精神と身体とか、とかく人間の文化は二分法的な思考で秩序をつくろうとするんだが、実際の人間の存在ってのはそんな簡単にはできてない、そういうムリな枠組みにあてはめてとらえようとするから、精神病んぢゃうひとが出てくる、ってあたりの問題意識によるものと思われる。
>平安時代の、男と女の役割が――現代のそれとは異なるにしろ――堅く決定されているときに、それを変換してみせる。それは実に思い切った試みであり、人間や世界を見る、新しい視座を提供してくれるものである。(p.89)
なんて評価してますが。
男と女が立場入れかわってという、ヘンな設定に関しても、性の顛倒ということについて、
>人間は「未分化」な存在を考えたり「反秩序」の存在について考えたりするときに、動物のイメージをよく用いる。「畜生にも劣る」などという表現もある。しかし、動物は人間が勝手に考えるほど無秩序に生きているわけではない。動物で性の顛倒などが行なわれるだろうか。(p.107)
などと未分化イコール動物って言い方はどうなのと言いつつも、古来洋の東西を問わず人間の祭にはトリックスターが登場するもんだという解説もしてくれてる。
私は、最近は対称性思考とかに染まっているので、そういうわりと二分されやすい軸が顛倒する話は大好きだ。
どうでもいいけど、心理学ぢゃなくて、この物語の国語的というか文章読解に関する解説のほうに、私としては興味をもったりする。
>この物語の主人公は誰であろうか。『とりかへばや』には、固有名詞がひとつも語られないのが特徴的である。(p.31)
みたいなことで議論が始まるんだが、登場人物の名前が無いうえに、人物を指す宮中での肩書も出世するにつれて変わってっちゃうから、油断すると誰のことだかわかんなくなるという。
>(略)原文の方を読むと、この頃の文章はしばしば主語を省略し、また、ひとつの文のなかで主語が入れかわったりすることも多いので、ますます何が何かわからなくなる。(略)しかし、逆に「主語、述語、目的語」をそろえてつくる「文」などというものは、人間の意識の自然の流れからすると、随分と無理をしているのではないか、とも思わされるのである。(同)
と、スゴイことを言っている。
そーかー、と思う。日本の古典って、誰が何をどうしたみたいなのがようわからんなと、よく思ったものだが、それって、近代教育で毒された私のアタマのなかのほうが無理をしてつくられて、その視点でみてるからかと、目からウロコ。
使う言語で思考が変わってくるっていうのは、『あなたの人生の物語』でハッとさせられて、以来気にかけているものだけど、そうだよ、きっと平安時代のひとは、主語述語とか5W1Hとかそういうんぢゃなくて、ほんとにあのサラサラと流れてときどき歌が出てきてしまう、そういう文章のような論理で生きてたんぢゃなかろうか。
>このようなことを考えると、この物語は、いわゆる「主人公(ヒーロー)」およびそれをめぐる一人一人の人たちの話なのではなく、川の流れのように滔々と流れる事象を全体として記述しているのであって、川の流れから水滴をひとつひとつ取り出してみても、「流れ」そのものを記述できないように、全体としての流れが大切なのかも知れないとも思えてくる。(p.31-32)
って、そうだよー、日本の物語ってのは、主人公がどうしたとか話のテーマはとかってんぢゃなくて、事象を全体として語ってんだよって教えてくれればよかったんだよ、学校の古文の授業でも、そこがいちばん大事なことじゃん。
主人公論については、べつのとこで、
>この物語をある程度、現代的な小説としてみようとすると、このようになるのだが、当時の「物語」というものは、そのような構造を予想して作られたものではなく、多分に重層的な、あるいは、多中心的な構造をそなえている、と見た方がいいのではなかろうか。つまり、ある特定の主人公についての話である、と思わない方がいいのではなかろうか。(p.112)
というふうにも解説してくれてて、やっぱそうか、そう読めばいいのかと思わされる。
このあたりの全体ってことの重要性については、最後のほうで、やっぱ心理学にむすびついてくるんだけど、
>従って、この世の何かが明確な「目的」としては描かれず、それぞれは大事なこととして描かれはするが、要は全体としての流れそのものがもっとも重要だったと思われる。
>興味深いことに、最近の深層心理学では、人生における過程を重要視し、目的を軽視する傾向がある。これは近代自我を超えようとする試みのひとつである、近代自我の確立という点を目的として見るとき、そこにはある程度の成長の段階を設定したりできるものだが、近代自我を超えて人間の意識を考えはじめると、このような段階的成長ということに疑問を持たざるを得ないのである。(p.252-253)
だなんて、またスゴイことになってくる、この古典はポストモダンなんだと。
自我については、
>『とりかへばや』の頃は、人々は運命や神や天狗や、その他もろもろのともかく人間の意志の力を超える存在を疑うことなく受けいれていたことであろう。現代人は自我の力によって何でも出来るような錯覚を起こしているので、運命などというと馬鹿げていると思ったりするわけであるが、実際のところ、人間の自我はそれほどのオールマイティではない。(p.223)
なんて言ってるところもあって、自我ってなんぢゃいってとこは私は全然詳しくないんだけど、要は近代的思考だけぢゃ解決できないもので人の心はできてるのねって気にはなってくる。
※目次を並べとくの忘れてたので、8月19日追記
第一章 なぜ『とりかへばや』か
第二章 『とりかへばや』の物語
第三章 男性と女性
第四章 内なる異性
第五章 美と愛
第六章 物語の構造
河合隼雄さんの本をまた何か読みたいけど、むずかしそうなのはヤだなとか思いつつ、たしか5月の古本まつりで買ったやつ。
『とりかへばや』というのは、私は全然知らなかったんだけど、わが国の古典。
ただし、作者も成立年も未詳、って、おいおい、それぢゃ教科書とかに出てくるわけもなく、私みたいなものが知るわけもない。
一応、平安朝末期の作ということらしく、1201年の『無名草子』において論じられてるというのがその根拠だという。
作者は誰だかわかんないけど、男性説と女性説の両方があるらしい、ほんと誰だかわかんないにしても、そこまでわからんかね。
ストーリーはというと、男と女のきょうだいの話。これが兄と妹なのか、姉と弟なのかも諸説あるらしい。河合先生は姉弟派。
で、なぜか小さいときから、姉は男みたいな性格、弟は女みたいな性格してて、どうにも修正しようがないので、しょうがなく姉を男として弟を女として育てちゃう、父親は二人をとりかえられたらなあなんて思いながら。
どっちも美しいと評判になりながら大人になるんだけど、世間向けには性別逆にしてるんで、嫁にくれとか嫁をもらってくれとか言われても困っちゃう。
かくして、イロイロあるんだが、最後はふたりとも王朝において、男として女として最高の出世をきわめ、めでたしめでたしとなるんだが。
途中のイロイロあるところが、なんせ性別逆にしてたんで、ほかのふつうの平安文学の恋愛とはちがうわけで、そのへんでこの物語の歴史的評価が低いらしい。
なぜにそんなものを心理学者がとりあげるかというと、男と女とか、精神と身体とか、とかく人間の文化は二分法的な思考で秩序をつくろうとするんだが、実際の人間の存在ってのはそんな簡単にはできてない、そういうムリな枠組みにあてはめてとらえようとするから、精神病んぢゃうひとが出てくる、ってあたりの問題意識によるものと思われる。
>平安時代の、男と女の役割が――現代のそれとは異なるにしろ――堅く決定されているときに、それを変換してみせる。それは実に思い切った試みであり、人間や世界を見る、新しい視座を提供してくれるものである。(p.89)
なんて評価してますが。
男と女が立場入れかわってという、ヘンな設定に関しても、性の顛倒ということについて、
>人間は「未分化」な存在を考えたり「反秩序」の存在について考えたりするときに、動物のイメージをよく用いる。「畜生にも劣る」などという表現もある。しかし、動物は人間が勝手に考えるほど無秩序に生きているわけではない。動物で性の顛倒などが行なわれるだろうか。(p.107)
などと未分化イコール動物って言い方はどうなのと言いつつも、古来洋の東西を問わず人間の祭にはトリックスターが登場するもんだという解説もしてくれてる。
私は、最近は対称性思考とかに染まっているので、そういうわりと二分されやすい軸が顛倒する話は大好きだ。
どうでもいいけど、心理学ぢゃなくて、この物語の国語的というか文章読解に関する解説のほうに、私としては興味をもったりする。
>この物語の主人公は誰であろうか。『とりかへばや』には、固有名詞がひとつも語られないのが特徴的である。(p.31)
みたいなことで議論が始まるんだが、登場人物の名前が無いうえに、人物を指す宮中での肩書も出世するにつれて変わってっちゃうから、油断すると誰のことだかわかんなくなるという。
>(略)原文の方を読むと、この頃の文章はしばしば主語を省略し、また、ひとつの文のなかで主語が入れかわったりすることも多いので、ますます何が何かわからなくなる。(略)しかし、逆に「主語、述語、目的語」をそろえてつくる「文」などというものは、人間の意識の自然の流れからすると、随分と無理をしているのではないか、とも思わされるのである。(同)
と、スゴイことを言っている。
そーかー、と思う。日本の古典って、誰が何をどうしたみたいなのがようわからんなと、よく思ったものだが、それって、近代教育で毒された私のアタマのなかのほうが無理をしてつくられて、その視点でみてるからかと、目からウロコ。
使う言語で思考が変わってくるっていうのは、『あなたの人生の物語』でハッとさせられて、以来気にかけているものだけど、そうだよ、きっと平安時代のひとは、主語述語とか5W1Hとかそういうんぢゃなくて、ほんとにあのサラサラと流れてときどき歌が出てきてしまう、そういう文章のような論理で生きてたんぢゃなかろうか。
>このようなことを考えると、この物語は、いわゆる「主人公(ヒーロー)」およびそれをめぐる一人一人の人たちの話なのではなく、川の流れのように滔々と流れる事象を全体として記述しているのであって、川の流れから水滴をひとつひとつ取り出してみても、「流れ」そのものを記述できないように、全体としての流れが大切なのかも知れないとも思えてくる。(p.31-32)
って、そうだよー、日本の物語ってのは、主人公がどうしたとか話のテーマはとかってんぢゃなくて、事象を全体として語ってんだよって教えてくれればよかったんだよ、学校の古文の授業でも、そこがいちばん大事なことじゃん。
主人公論については、べつのとこで、
>この物語をある程度、現代的な小説としてみようとすると、このようになるのだが、当時の「物語」というものは、そのような構造を予想して作られたものではなく、多分に重層的な、あるいは、多中心的な構造をそなえている、と見た方がいいのではなかろうか。つまり、ある特定の主人公についての話である、と思わない方がいいのではなかろうか。(p.112)
というふうにも解説してくれてて、やっぱそうか、そう読めばいいのかと思わされる。
このあたりの全体ってことの重要性については、最後のほうで、やっぱ心理学にむすびついてくるんだけど、
>従って、この世の何かが明確な「目的」としては描かれず、それぞれは大事なこととして描かれはするが、要は全体としての流れそのものがもっとも重要だったと思われる。
>興味深いことに、最近の深層心理学では、人生における過程を重要視し、目的を軽視する傾向がある。これは近代自我を超えようとする試みのひとつである、近代自我の確立という点を目的として見るとき、そこにはある程度の成長の段階を設定したりできるものだが、近代自我を超えて人間の意識を考えはじめると、このような段階的成長ということに疑問を持たざるを得ないのである。(p.252-253)
だなんて、またスゴイことになってくる、この古典はポストモダンなんだと。
自我については、
>『とりかへばや』の頃は、人々は運命や神や天狗や、その他もろもろのともかく人間の意志の力を超える存在を疑うことなく受けいれていたことであろう。現代人は自我の力によって何でも出来るような錯覚を起こしているので、運命などというと馬鹿げていると思ったりするわけであるが、実際のところ、人間の自我はそれほどのオールマイティではない。(p.223)
なんて言ってるところもあって、自我ってなんぢゃいってとこは私は全然詳しくないんだけど、要は近代的思考だけぢゃ解決できないもので人の心はできてるのねって気にはなってくる。
※目次を並べとくの忘れてたので、8月19日追記
第一章 なぜ『とりかへばや』か
第二章 『とりかへばや』の物語
第三章 男性と女性
第四章 内なる異性
第五章 美と愛
第六章 物語の構造
