栗本慎一郎 一九九一年 扶桑社
サブタイトルは「栗本慎一郎対談集」、なかみはそういうこと。
これはこないだ『縄文式頭脳革命』といっしょに段ボール箱のなかにしまわれてるのを見っけたんだけど。
なんか最初に読んだときの記憶がなんにもないなあ、栄松堂のカバーかかってるけど。
でも、いまあらためて見ると、対談相手がすごくて、吉本隆明、石原慎太郎、中沢新一って、なんともおもしろそうなメンバー。
もしも古本屋で見つけたら、むかし読んだことも現に持ってることも忘れてて、買っちゃいそうな気がする。
しかし、読み返してみたら、対談やってるのをそのままテープ起こししたかのような感じのとこ多くて、もうちょっと書き言葉に編集してくれたほうが読みやすいのにって、ちょっとだけ思った。
吉本隆明との対談は、けっこう対決する感じがして、それは、そんなもんウイルスの影響で変化しちゃったんだよって栗本の思想に対して、いーや、そうぢゃない、制度だとかって理論をガンと出すとこからきてる。
>(略)いわゆる蝦夷とか蝦夷に近い人たちは、たぶん制度をつくれなかったんだとおもうんです。(略)一種の制度欠落症というのがはじめからあったんじゃないか、ぼくはそういう観点を持ちます。(p74「農業に決着をつけられなかった東北」)
とかって、やたら話をむずかしくして理屈つけようとしてるなあって気がしないでもない。
どうでもいいけど、政治社会のことだけぢゃなく、文学についても語ってるんだけど、そのなかで、
>かつて文学というのは何か読むと物語が残ったり、(略)時間が経てもそれに耐えるものなんだ、(略)それが文学、言葉の作品だというふうにおもわれてきたんだけれども、たぶんそれとまったく違うこと、この言葉の物語というのは瞬間なんだ。(p.50「村上春樹と村上龍の表現世界」)
って村上龍を評してるとこがあって、こないだ『梨のつぶて』のなかで村上春樹作品を「現代日本小説の約束事にそむいてる」って言いつつ評価してるのと、つながるようなとこがあっておもしろかった。
それでも、あいかわらず吉本隆明は「文芸評論家というのは、言葉の歴史という制度を介して理解しようとするから」とか、制度で説明しようとしてますが。
石原慎太郎との対談では、まず栗本慎一郎が、
>(略)石原さんの文学においても政治においても、すべてをつねに基礎的で単純なところに戻すという、そういう哲学をお持ちだと(略)(p.106「「石原哲学」の語られていない部分」)
って言って評価しているとこをみせて、それがちょっと意外だった。
もっと意外なのは、石原慎太郎が仏教の経典を引き合いに出してくるところで、栗本が波動の原理がどうのこうのと言い出すと、
>振動についてはまたあとで聞きたいんだけれども、ぼくはホーキングを読んでて、『法華経』を思い出したんです。『法華経』というのは現代数学の群論みたいなのにつながるところがあります。(p.125「『法華経』が持つ哲学的拡がり」)
なんて言い出して、自分の土俵にひきずりこんで、知らないという栗本に「ぜひ『法華経』は読んでください」なんて言ってるとこ。
それでも栗本が、A10神経がとか、視床下部の脳波がとか、脳の共振とかって理論を出そうとすると、
>振動が、つまり想念が形をつくるということが解明されたら、これはかなり大変なことだね。(p.135)
なんてクールな姿勢をくずさない。
中沢新一との対談では、東欧とかイスラムとか世界のいろんなとこの話になるんだが、ひろがりがあっておもしろい、結局なにがどうなのかって私にはわからないけど。
大使館とかの世話になることはせず、どこ行っても鉄道乗るために何時間も並んだりするとかって、世界の歩き方をしてるのはさすがだ。
司会に、日本はアジア的・東方的ってなかでどういう位置かと問われた中沢が、
>日本という一般的なものはもはや意味をなさないでしょう。個人個人がどう世界を読んで、どう決断して、どういうスタンス、スタイルをとって生きていくかということだけだし、それぐらいぼくたちは自由ですよ、いまや。(p.218「移民という南北問題への個人的かかわり」)
って答えるんだけど、なんかすごいな、うーむ、1991年の時点で、すごい自由だ。日本はとか、わが国はとかって言いたがる人たちと比べると、魂が自由だ。
章立ては以下のとおり。
加速する変容 吉本隆明*栗本慎一郎
I ソ連・東欧がつきさすもの
II ポストモダンをめぐって
III 縄文と弥生
IV 九〇年代の日本
存在と外部 石原慎太郎*栗本慎一郎
波動する世界 中沢新一*栗本慎一郎
I 非ヨーロッパの視線
II ヨーロッパとは何か
III イスラムの世界
IV ……そして日本