many books 参考文献

好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

現代の作家一〇一人

2020-02-22 18:29:31 | 読んだ本

百目鬼恭三郎 昭和50年 新潮社
これは去年11月の馬車道まつりのころ古本屋で買ったもの。
タイトルが「現代の」ったって、昭和50年、1975年だもんねえ、私の日本文学もそのへんで停まってるのかもしれない。
著者の百目鬼さんは、丸谷才一の随筆のなかでもあちこちに登場するんだが、この本はどこに紹介されてたか忘れた、ただ見つけたときは、あったーと喜ぶくらい書名だけはおぼえてたんで。
丸谷さんの『猫だつて夢を見る』のなかの「ガンバレ考」(p.32)では、
>(略)実は、百目鬼さんは古くからの友達である。何につけても詳しい人で、知らないことはないが、殊に日本語にかけては生き字引みたいなものだ。
と語彙豊富な丸谷さんからスゴイ誉め言葉をもらってるんだが、それだけぢゃなくて、
>世に外柔内柔の人は多い。外剛内柔の人はかなりゐる。しかし百目鬼さんのやうに、外剛にしてかつ内剛、他人にも自分にも等しくきびしい人は稀にしかゐないのではないか。
と姿勢を評価されている。
そういうひとの書く批評だから、キビシイよぉ、そんなこと言って大丈夫なのって調子がポンポン出てくる。
パラパラとめくってみるだけでいくつか抜いてみると、
>この人は、もう少し小説作法を勉強する必要があるようだし、また、この人間不信のエリート意識を、もう少し捨ててもらいたいものだ。(加賀乙彦)
とか、
>女流には難解な作家が多い。倉橋由美子、大庭みな子、森万紀子、金井美恵子、高橋たか子、津島佑子などの作品は、自然主義リアリズム文学に慣れたわれわれ一般読者には、なにを書いているのか見当もつかないほど難解なのである。(河野多恵子)
とか(これって別に悪口ではないのかなとも思うが、「なにを書いているのか」まで普通は言わないのでは)、
>昨年(昭和四十八年)末に刊行された長編小説「われら戦友たち」が、惨めな失敗作であるにもかかわらず、すでに二十五万部も売れているのは、作者の人気のおかげであろう。(柴田翔)
とか、
>そして、庄野がやたらに文学賞をとるのは、このたしかな芸が文壇の老人連中のお気に召すからである。猥雑な新文学をきらう老人たちにとって、庄野の文学は一種の解毒剤と観じられるのだろう。身辺雑記が小説の傑作ともてはやされて大家となる。日本の文壇はふしぎなところだ。(庄野潤三)
とか(これは当該作家に対してではなくて文壇の御意見番たちへの啖呵だからいいんだけど)、
>次にあげられる欠点は、文章に味のないことだろう。自伝を読むと、三浦の文学修業といえるのは、アララギ派の短歌作りであったようだ。真実の追求に熱心だが、ことばの美しさを軽視しがちになるのが、この派の欠陥である。自伝にのっている短歌をみる限りでは、三浦もまた、真実を吐露しさえすれば芸術になると素朴に信じている一人ではなかろうか。(三浦綾子)
とか、攻撃のしかたが容赦ない。
本職は新聞記者だったそうだから、文壇のおえらいさんとケンカしたって困らないから言えるんだろうが、まあ内輪のホメあいケナシあいよりは面白いからよい。
しかし、いくらなんでも、
>永井が「黒い御飯」という短編をもちこんで、菊池寛に激賞されたのは十九歳のときである。それから五十年間というものは、作品を発表するたびにきまって「短編の名手」とか「名人芸」といったほめられかたをし続けてきたのだ。よくもこれであきテンカンにならずに済んだものだと感心させられるが(略)
ってのに至っては、そんな言葉知らなかったが驚いた。
ときどき、作家本人ぢゃなくて、そのほかの「現代」の傾向についてもグサグサ言ったりして、
>ちかごろの新人たちが、型にはまった疑似リアリズムによりかかり、文学以前としかいいようのない文章で書きなぐっている推理小説とは、なんというちがいであろうか。(結城昌治)
なんて調子で、まあ「一〇一人」に選ばれてる人たちは、ほかの箸にも棒にも引っ掛からないひとに比べたら、批評されるだけでもよしということなんぢゃないかと。
読む側にも苦言を呈してて、
>歌謡大賞だのレコード大賞の類をテレビでみていると、他人事ながら腹立たしくなる。音楽と関係のない、人気という泡みたいなものを尺度にして評価、格付けされているようにみえるからだ。
>思うに、いまの大衆文学に対する評価もこれに近いのではあるまいか。
で始まる一節では、「要するに、人気の差にすぎないのだが、世間はそれを実力の差ととり違えがちなのである」として、
>が、それくらいの欠点で、村上の小説が読まれないというのはおかしい。いまは、小説に限らず、ものの作りかたのうまさということがわからなくなっている時代なのであろうか。(村上元三)
と嘆いている。
個々の作家論ぢゃなくて、文学について興味をもったところでは、
>だいたい、良家の子女だから人生の陰影がみえないはずだ、などときめこんでいるところが、いかにも自然主義文学的な発想で、これでは、実人生で苦労したことのない人間は文学が書けないということになってしまう。事実、これまで日本の文学は、そういう尺度で測られてきた傾向があるのだ。(曾野綾子)
として、実人生の苦労と文学の深さは直接関係があるわけぢゃないと説いてる。
丸谷さんの評論なんかでもそうだけど、たしかに、深刻ぶって例えば自分の恥ずかしいところを告白したりすんのが文学かっていうと、それはちがうと思う。
同じとこで、
>戦前までの、東京の伝統文化の中核をなしていたのは、人間性をいかに趣味よく包み隠すか、ということであった。つまり、人間性をむき出しに主張する自然主義文学とは、本質的に異質の文化なのである。自然主義文学の担い手が、主に地方出身の青年たちであったことは、これと無関係ではあるまい。
なんて言ってんだけど、それって、よーするに、日本の自然主義文学ってのは、粋ぢゃなくて、ヤボだってことなんですよね。
コンテンツは、五十音順に作家の名前101人なんだが、めんどくさいのでここに並べたりしない。
ただ巻頭に「この本の宣伝のための架空講演」と題したまえがきがあるんだけど、こいつはすごくおもしろい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする