吉田健一 一九九二年 講談社文芸文庫
これは去年11月に、地元の古本屋で買った文庫、なんかタイトルが気になったので。
英語、英国、英国人について書かれたエッセイ42篇、初出をみると昭和28年から昭和33年くらいまでのものが多い。
1920年に8歳のとき父親の赴任についていってロンドンに住んだひとだから、言うこと一味ちがうというか。
英語については、なんで英語の勉強をそんなおおげさに難しいことみたいにいうんだ、ただの言葉でしょ、みたいな感じ。
>英語というのは覚えるのにそんなに難しいものではない。勝海舟も、福沢諭吉も、別に受験必勝コオスなどというものの厄介にならずに(略)(p.17「英語教育に就て」)
なんて調子のすぐあとに、
>英語には文法がないのに近い。(同)
とグサッと言ってるところからすると、よーするに細かいことゴチャゴチャ研究する英語学のような教育はよくなくて、どしどし読んだり書いたり話したりすればいいだろと。
ただ英語が読み書きできるっつーだけぢゃ意味なくて、何を読むか何を書くか、そっちが本質でしょという話だ。
>日本語でも碌な文章が書けないものが、英語を知っているから英語の文章なら書けるというのが既に滑稽であるが、それよりも先に、英語を知っているということはこの場合、一体どういうことなのだろうか。英語は一つのそういう抽象的な存在ではなくて、過去から現在に掛けて英語で語られ、又書かれた個々の言葉の集成が英語なのである。(p.62「英作文に就て」)
ってのは卓見で、いい英語の文章書きたければ、まずは立派な文章をもっと読めという。
英語を学ぶんなら、文学作品を読めとも繰り返して説いている、それもおもしろいものを読めと。
>語学を最も的確に習う方法は、文学を通してである。これはどういう言語でも、その使い方の最も見事な例は文学作品にあるばかりではなくて、結局は同じことであるが、文学作品で言葉はその最も生きた形で用いられているからである。(略)要するに面白がって読むことが先決問題なのである。(p.94「語学と文学」)
ということで、よい文学作品を選んで、そこで文法がどうのとか日本語に訳したらどうのとかぢゃなく、書いてあることおもしろく思って読めばいいだろということらしい。
このへんは、どうも同時代の一部日本の文学者がフランス文学ばかりを持ち上げてたのが気に入らないって感情もありそうに思えるけど。
それと、
>それから、ユウモア小説がある。日本にもこの種類のものが一時はあったが、笑っては文学ではないかして、この頃では全く見掛けなくなった。併し英国には、P・G・ウッドハウスがいる。(略)どうも、読んでいて楽しくなるか、ならないかで、文学であるかないかが決るようなものが我々の間にはあると思われ、ウッドハウスは別として、これは確かに我々にとって損なことである。(p.108-109「文学以外」)
っていう意見は、作家が深刻ぶって真実の吐露とかみっともないことをやるのが文学だって思ってきた日本文学界はおかしい、みたいな丸谷才一さんと共通するようなとこがあって、私もおおいに賛成。
ウッドハウス読んだことないけど、早くよんでみなくては…
英語の勉強の話なんかにくらべて、英国での生活の話はくだけてておもしろい、特に食べものとか酒の話はさすがで。
飲み屋と酒屋が区別されてて、買った酒をその場で飲んではいけないって話のついでに、
>その上に、マンチェスタアには妙な規則があった。旅館の自分の部屋でゆっくり飲もうと思って、ウイスキイを買いに入った所が、葡萄酒を一ダアスというのは構わないのに、ウイスキイに限って一人に一本しか売らない。配給の問題ではなくて、飲み過ぎないようにという市当局の親心かららしい。併し一度店を出て、又入って来て買うのは構わないと店員が教えてくれた。(p.161「マンチェスタア漫歩」)
なんて話は、店員さんナイスフォローってクスッとさせられた。
でも、そんな軽い話ばかりぢゃなくて、深いところまで考察してるのはもちろんで、たとえば午後五時ころはどこの家庭でもお茶の時間で、晩飯ほどの金をかけずにお客をもてなすのに利用する時間だというんだが、
>要するに、五時か五時半から後が娯楽と社交の時間で、そして何かの形での社交が英国人の主な娯楽なのだという印象を受けた。家庭生活も一種の洗練された社交になっていることは、英国の小説を読んで見ても解る。
>それだけに、ロンドンのような都会で一人で暮すということがどんなことなのか、想像を絶するものがある。他人には干渉しないという不文律がどこででも行われていることは、自分が付き合っている人間以外に、誰にも構って貰えないということでもあり、それが厳守されている世界に一人でいれば、孤独というものの味を否応なしに嚙み締めて生きて行くことになる。(p.148-149「英国点描」)
という英国の観察にはハッとさせられるものあった。
お茶の習慣の話から英国の本質に迫る話はほかにもあって、寒いのに散歩した後は家の暖炉の火のあたたかさが余計に染みるものだといい、
>紅茶も旨い訳で、それで英国人は冬でもよく田舎道を、お茶の時間の前に何の用もないのに散歩しに出掛ける。英国人の冒険心というのはそういう性質のものなので、それが嵩じれば山にも登るし、海外に植民地も作る。つまり、紅茶を飲む積りで出掛けて行くので、それ故に海外でどんなに成功しても、大概のものは本国に帰って来るか、でなければ、出先の土地で本国とそっくりの生活を始めてそこにい着く、お茶の時間の前に出掛けた散歩が少し長くなっただけなのである。(p.208-209「英国の四季」)
なんて何も知らないものにとってはすごい飛躍におもえる理論で、登山や航海や極地探検に向かうことを好む英国人の国民性を説明してくれる。
イギリスの冬の厳しさは、やっぱ住んでみないとわからないもののようだが、八月の午後の日を浴びているときの一節が、妙に印象に残った。
>戦争中は、ここも大変だったろうと思いもした。ダンケルクからの撤退の際には、ここは大小の船でごった返したに違いない。併しその午後のドオヴァアは、もうもとの港町、又、避暑地で、海は灰色掛った緑色をして横たわり、椅子の坐り心地や、窓の枠の切り方から来る感じも手伝って、その時、自分は確かに英国にいるのだと思った。そういう場合は、自分が時間的にもそれまでの一切のことから切り離されてるような気がするものである。(p.216「日光浴」)
ってのがそれなんだけど、「自分は確かに英国にいるのだ」って思いは、なかなか達することができない境地に思えるんで。
コンテンツは以下のとおり。
英語
英語教育に就て
英語上達法
続英語上達法
英語修得法
読むことと話すこと
英語と英会話
英作文に就て
英語の感覚
英語と英文学
戦後の英語教育
二十四時間勤務
英国の文学というもの
語学と文学
英文学と英語学
私の修業時代
文学以外
チャアチルと沙翁の台詞
*
英国再検討
感想
旅の印象
英国点描
マンチェスタア漫歩
チェスタア
ロンドンの公園めぐり
ロンドンの公園と郊外
英国の四季
日光浴
英国のビイル
英国のクラブ
英国の料理
食べものと飲みもの
飲んで食べた思い出
英国人の食べもの
お茶の時間
パンとバタ
*
国民性
対日感情
英国の落ち着きということ
シェイクスピア
英国人に就て
常識