大野晋・森本哲郎・鈴木孝夫 二〇〇一年 新潮選書
これは去年10月に地元の古本屋で買ったもの、最近やっと読んだ、とっくに読めばよかった、おもしろいんだもん。
タイトルと著者三人の名前みて、これはおもしろくないわけない、きっと刺激的なこと書いてあるだろうと確信に近いものあったんだが。
それよりあとに、前回の「英語と英国と英国人」を見つけたとき、それも著者名からいって間違いなさそうだし、この二つ対にして持ってたらおもしろいかなと思って買ったわけで、いいかげんといえばいいかげんな読書嗜好である。
著者のみなさんは、私からみれば日本語に関するビッグネームなんだが、裏表紙の藤原正彦氏の推薦文に「大正生まれ三人」って書いてあって、そうなのかーって驚いた。
(っていうか19年前に読んどけよ、俺、って気がするが。)
内容は2000年に行われた三回の座談会の収録と、それぞれが書いた論文が三本。
日本という国を考えるとき大事なのは言語だという大野さんは、
>(略)文明が力を持つために大事なことは、やっぱり、ものをよく見るということじゃないかと思います。感じるのではなくて、見る。見るということについて、もっと日本人はよく考えて、目が細かくなる必要がある。学校でも、見ること見たことを正確に言葉にする、その言葉を大事にすることを教えなければいけないんですよ。言葉をおろそかにすると、見ることが駄目になる。(略)
>物をよく見て、構造的に体系的に考えをまとめるという習慣を養わない限り、日本人はこれからの世界を生きて行けない。(p.38)
なんて言ってますが、まあ、あいかわらず日本人は「空気」だけでやってますね、たしかに。
見ることとか言葉にすることをおろそかにしたまま。
鼎談のなかだけぢゃなくて、論考でも同じようなこと記してる、日本人の弱点について、
>それは日本人が「体系的な思考」に弱いということである。人間界についても、自然界についても、分析を重ねていって原理・原則を求め、それを全体として観察して構造的に、体系的に把握する力が弱い。(p.53)
とか。で、それは飛鳥時代に中国から漢文が入ってきて、それ学ぶことが文明と文化の基礎になったからぢゃないかと。
日本語の「学ぶ」は「マネブ」ともいって「真似をする」ってのが語源だが、漢文の発音と意味を学ぶには師匠の真似から入ったはずだからだという。で、
>その結果、日本では学問するとは「自分で材料を集めてそれを比較し、分類して、そこに筋道を見出す」ということなのにそれを身につけることができず、いつも真似をすることが「学問」になってしまった。つまり、漢字・漢文の理解を知的努力の最初の目的とする習慣が一般化したのである。(p.52)
という。うーむ、そうかあ、子どもんときの学校の勉強もそうだもんな、観察して仮説たてて分析してってハタチすぎるまでやんなかった。
でも漢字文化を否定するわけではなく、明治になってヨーロッパ文明が入ってきたときは、一度漢字に置き換えて受け入れるようなことしたからうまく吸収できたという。
しかるに今は新しいもの入ってくると、なんでもそのままカタカナにしちゃうからホントに理解はできてないんぢゃないのという危惧もある。
カタカナ語の氾濫について、森本さんは、
>だから、カタカナ語にするしないの基準がどこにあるのかわからない。日本人は臆病な民族だから、他人を傷つけたり、他人から何か言われるのが怖い。そこで、摩擦を避けるために、みんなにわかりにくいカタカナ語にしてしまう。(略)
>「首を切られた」と言うよりも「リストラされた」と言うほうが聞こえがいい。(略)役所言葉になぜカタカナ語が多いかというと、役人は責任を取らされたり、文句を言われたくないからなんだ。例えば、「危険地図」と言えばいいものを、「ハザード・マップ」なんて言う。カタカナ語を使うことで、ショックをやわらげている。一種のクッションとして使っている。(p.80-81)
なんていう日本人論・日本文化論を言っている。
そうかーって思うのは、昨今では、あまり日本語が上手ぢゃなさそうな知事さんとかが、だからカタカナ連発してるのかってとこを、すぐ連想してしまうからなんだが。
でも、まあ、漢語だってもとはといえば外来語であって、日本語の語彙の半分近くは漢語が占めていて、変形させた和製漢語もいっぱいあるし、名詞や動詞のかなりの部分が外来語なんだが、そのへんのとこを論文でとりあげて、
>それは日本語の構造が外来語を取りこむのに、たいへん便利な性格を持っているからだ。しかし、どんなに多量の語彙を外来語が占めようと、日本語の構造は変らない。構造とは言葉の骨格、すなわち語順を始めとする文法である。そして、日本人の発想、思考法を特徴づけているのは、その骨組みなのだ。(略)いくらカタカナ語が氾濫しようと、その使い方はあくまで日本流なのであり、日本語による日本固有の発想、表現は変らない。母国語というものは、それほど骨身に徹しているのだ。(p.95-96)
という論旨を展開する。
これは別のとこで、英語をどう学ぶべきかなんて話で、コミュニケーションの道具として必要に沿って習えばいいってのに対して、「母国語は道具ではないんです(p.170)」と断言してることにつながってる。
同じように大野さんも、「外国人が言語を習うのと、ネイティヴとして使えるのとは意味も目的も能力も違うわけです」という。
母国語ってのはものの考え方を規定する性質のものだっていうのは、テッド・チャンの「あなたの人生の物語」を読んだときに、宇宙人の言語を学ぶことによって自分の考え方そのものが変化した、ってとこに感銘を受けた私には大いにうなずけるものである。
英語教育について、鈴木さんは、国際舞台に出ていく人材のためのエリート教育をしろという。
ヘンなところで教育は平等にとかいってないで、たとえばメジャーリーグで活躍する野球選手は若いときから競争と選抜を繰り返してきたように、国際的に通用する人を生み出すためにはエリート養成法が必要なんだと。
鈴木さんは、漢字の制限、当用漢字だか常用漢字だか、そういうキメについて、
>文部省、いや文部科学省っていうのか、あそこがやたらに漢字制限をするでしょう。あれは読める字と書ける字とが一致するものだという誤解から生まれたものですよ。(略)
>読める字は書ける字の百倍ぐらいある。いや、千倍くらいかな(笑)。(p.63-64)
なんていうんだが、それは正解だと思う、変な制限をつくるから読める文字なのにひらがなで書かれたりして、かえって意味がわかりにくくなる。
この漢字制限には、たいがいの日本文学者が反対するはずなんだけど、なかには志賀直哉が敗戦後すぐの時期に、フランス語を国語にしちゃえとかムチャクチャなこと言った例もある。
つまりなんでそうやって漢字を攻撃するかっていうと、無謀な戦争やったのはこんな文字つかってたからぢゃないかって、アルファベットしかない戦勝国側の思い込みがあるわけで。
そのへんをふまえて、鈴木さんは、英語をどう学んで国際理解につなげるべきかって論文なのに、
>しかし半世紀前の大東亜戦争のこと、そして敗戦直後のどさくさまぎれに、勝者であったアメリカが計画的に実行した War Guilt Information Program (日本人がいかに理不尽な戦争を行ったのかを、日本人に自覚させ、罪の深さを悟らせる計画)の名で呼ばれた宣伝洗脳教育の恐ろしさを、いま改めて私たちが知らなければ、現在の日本人の大半がもっているおよそ事実に即さない歪んだ自国の歴史認識、その結果として生じた深い自己嫌悪と自信喪失のトラウマ状態から永久に脱出できないと私は思うからである。(p.143-144)
って、すごいところから入っていくことになる。
いや、おもしろいな、この本。きっとときどき再読すると思う。
コンテンツは以下のとおり。
第一部 日本について
日本人は日本語をどう作り上げてきたか――大野晋
第二部 日本語について
日本人は言葉とどうつきあってきたか――森本哲郎
第三部 日本人について
英語といかにつきあうべきか――武器としての言葉――鈴木孝夫
第四部 英語第二公用語論について