丸谷才一 1989年 新潮社
これはおととし11月だったかな、古本まつりでけっこう数多く買ったうちのひとつだ。
あのころ買ったものをようやく今ごろになって順番に片づけてってんだが。
それにしても、古本まつりなんてイベントは今後どうなっちゃうんだろうねえ、困った世の中だ。
広場にテント並べての古本まつりだけぢゃなくて、なんでも書店は生活必需だが古本屋は不要不急だとかで、緊急事態時には営業自粛しろって言われてるらしい、そんな人が集まりゃ古本屋の経営は苦労しないっつーの。(集まっても買わないお客ばかりだったりして。)
まあ、それはともかく、あいかわらず私にとってはおもしろいです、丸谷才一の随筆集。
たまたま前回、前々回のように、ここんとこ英語とか日本語とかについて考えさせられる本を読んでて、英語は抽象的存在ぢゃなく過去から現在まで使われてきた言葉の集成であるとか、外国語を習うというのとネイティヴとして使うのは違うとかって話があったんだけど、本書にも英語のとある話があった。
小林秀雄が『菊池寛論』のなかで、菊池寛が外国の近代小説の分類のひとつに「人間的興味の小説(ヒュウマンインタレスト・ストオリイズ)」っていうのがあるって言ってる、と書いてるけど、人間的興味の小説って何だ、って丸谷さんは気にかかる。
引用した小林秀雄自身もきっと何のことかわかってないだろう、と思って菊池寛の『文藝往来』って文章を探して見てみると、たしかに「地方色小説」とか「性格描写小説」とか「解剖的小説」とかと並んで、「人間的興味の小説」ってのを米国の文学者があげているとある。
丸谷さんはウェブスターの大きな辞書を引いてみたりするが、どうもはっきりしないので、ずっと気になることになる。
で、P・G・ウッドハウスの小説(出た、吉田健一の随筆に引き続き、またこの作家の名前が登場、これはぜひとも読んでみないわけにはいかない)を読んでたら、新聞記者なんかを指すところで「カメラマンとか、ヒューマン・インタレスト・ライターズとか」ってセリフが出てきたんで、丸谷さんは「ヒューマン・インタレスト」は「ゴシップ」の婉曲表現だろうって解釈にたどりつく。
>それを「人間的興味の小説」と訳すのはやはりをかしい。すくなくとも、原語の指示する内容のいちばん高級なところだけをすくひあげ、基本の大事なところを無視した直訳と言はなければならない。(略)
>このことでもわかるやうに、一般にわれわれの文学用語は、西欧文学の実体とは変に離れた形で高級になりがちだつた。あの菊池ですらもなほその弊をまぬかれなかつたのである。(p.184-185「ヒューマン・インタレスト」)
と地に足がついてないというか、具体的なものとして身についていない外国語を扱ってしまう評論をチクッとやっつけている。
ちなみに、丸谷さんは自身の小説の英訳をしてるデニス・キーンさんに後日質問したところ、ヒューマンインタレストは新聞用語で、ニュースと対立するものという回答をえている。ただの報道ではなくて人情のからむあたたかい扱いの記事の意で、例として、ある野球選手が試合でホームランを打ったというのはニュース、彼が家族を非常に大事にしているというのはヒューマンインタレストだと。
英語だけぢゃなくて、もちろん専門の日本語について語ってるものもある。
いままでも、国語教育はダメだとか教科書がひどいとか漢字制限なんてバカぢゃなかろうかとか、いろいろ読んだことはあるんだが、随筆なんでユーモアがあるところがいい。
自身が子どものときに読んだ本で、トルコは国民の9割が文盲だったが1928年に文字改革政策でアラビア文字からローマ字にしたら識字率が上がった、だから日本も漢字を廃止し、って論をみて、おかしいだろ無理だって思ったってとこから始まって。
トルコでは現在も教育が普及していないから50%以上が文字を読めないって話から、中国の文盲率はすくなくとも50%に近いって話になる。(この随筆書かれたのは1985年。)
中国旅行に行ったときに訊ねたら(誰に?)、学校を卒業すると農村ではもう字を読むことはないので忘れてしまう、という返事が返ってきたという。
で、
>わたしに言はせれば、普通教育がちやんとしてゐるのに(略)そんなことになるのは、おもしろい読物がないからだと思ひますよ。と言つたつて、中国に司馬遼太郎や藤沢周平がゐないことを憂へてゐるわけではない。もちろんゐるほうがいいけれど、たとへば、田中角栄の栄枯盛衰とか、山口百恵の結婚とか、ハイセイコーの活躍とか、長島茂雄はどうするかとか、そんなことを書いた新聞や週刊誌がないから、つい、ものを読まなくなつて、そのついでに字を忘れるのだらう。(略)そして現代日本の国力には、週刊誌やスポーツ新聞や競馬新聞のおかげといふ局面がかなりあるのだ。あの手の読物は、読み書きについての社会教育の一端を担つてゐる。これははつきり認めてかまはないと思ひます。(p.218-219「広尾へゆく」)
というおもしろいところに着地してくれるのが、読んでて楽しい。
さて、丸谷さんの趣味で、いままで読んできたなかであんまり注目させられた記憶がなかったんだけど、本書では食器に凝るという話に印象に残るものがあった。
父親の影響で、皿とか茶碗とかを選ぶようになって、特に古い焼きものが好きだという。
「今出来のやきもので飲み食ひすることはどうしてもできないたちになつてしまつた」というのは、ほう、そうですかと言うしかないんで、私が感心したのは、器の話をしたあとの、
>といふ具合に食器に凝るのはいいけれど、この場合、いちばん困るのは、箸置きにはどうもいいものがないことである。よくは知らないが、おそらく箸置きといふのは明治維新以後、それもかなり最近になつてから発明されたものなのだらう。従つて、古いものがないし、古いものの写しもないし、もちろん西洋のものもない。みんな今の陶工の作ばかりで、しかも昔の箸置きを参考にすることさへないわけだから、伝統のせいの奥床しさも力強さもない。(p.128「器について」)
って考察のほう。よさげなの買ってきて使ってみるが、そのうち「どうにも我慢ができなくなるのである」っていうんだが、そんなこと考えたこともなかったんで。
もの食べたり、ましてや酒飲み始めたら、箸置きがどんなもんかなんて気にならない私は鈍感なんだろうか。
どうでもいいけど、丸谷さんはいつもいろんな空想をはたらかせて自分でおもしろがってるんだが、本書でもなにかと金儲けの計画にふけったみたいなこと書いてある。
ものの名前をつける会社をつくって、誰か友だちを社長にして、実務は若いひとにまかせて、自分は顧問になって週一の名つけ会議に出るだけで高給をもらう、とか。(「新会社」)
チリ紙交換車のテープを作って売る商売を立ちあげて、東野英治郎は焼芋屋のテープで、塵紙交換には西田敏行だろうとか。さらに俳優使うと売り文句を書かなきゃならないのが面倒で、作家仲間を起用すればセリフも自分で知的なもの書くだろうとか。(「魚鳥」)
なんで、そんなしょうもないことばかり考えるのかと思ってたら、ホンネを書いてるように思えるところがあった。
>われわれはとかく労を惜しんで定説によりかかる。しかし、みんなが漠然と思つてゐることが間違ひな場合だつて、よくあるんですね。たとへば天動説。
>だから、ときどき変なことを考へてみよう。常識を疑つてみよう。まあたいていは実を結ばないでせうが、それだつてかまはない。すくなくとも精神の体操になる。(p.37-38「定説」)
ということのようだ。
コンテンツは以下のとおり。
I 男ごころ
郵便/女優/犬と猫/主義/新会社/作法/動物/ひげ/身長/顔/定説/時代考證/地理/色彩/鏡/団子/勘定/教育/恐怖/時差/魔女/拍手/雨水/水着
II 外食評論
おでん玉三郎/博徒の詩/動物園のサンドイッチ/絵のある建物/雨の浦安/西武球場の花火/食堂車を論ず
III かなり文学的
目黒の坂
小を愛す
器について
一夜の窓
国じまん
お祭について
岩波文庫の思ひ出
じつと絵を見る
芝居と衣装
刀傷の思ひ出その他
魚鳥
『文士伝』といふ本のこと
思ひ出
地名つかひ
ヒューマン・インタレスト
日記考
夷齋先生のこと
出陣
植村清二先生の史眼
河口湖と銀座で
ライト・ヴァース
七不思議
文学的伝説
IV 寝言だつて日本語
広尾へゆく
言葉のストライク・ゾーン
テフとドゼウ
エイについて
テンとマル
感嘆詞について
V どの部屋にも本
本郷の先生/歌道の家/春本そして資本主義/女と小説/屋上には恋猫もゐます/けろりの旦那
VI これはおまけです
紙幣論/イギリスの味/雨ぎらひ/鹿について/目黒