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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

光る源氏の物語

2020-05-23 19:01:43 | 丸谷才一

大野晋・丸谷才一 1994年 中公文庫版(上・下巻)
これはおととしの11月に地元の古本屋で上下揃いで買ったんだけど。
ずっと放っておいた、すぐ手にとれる位置に置きっぱなしで、読まないでいた。
いや、丸谷さんの随筆はおもしろいんだけど、文学の、しかも古典の、評論なんてのはむずかしそうで、なんて思い込んでしまって。
読み始めてすぐ気づいた、もっと早く読みゃあよかった、っていうか二十何年か前にとっくに読んどきゃよかったのに。(ちなみに単行本は1989年らしい。)
帯に「碩学と奇才が語る、斬新で画期的な入門書」ってあるんだけど、そのとおり、まず対談形式だから難しいことなんかないし。
それに、私は恥ずかしながら源氏物語なんか読んだことないんだが、学校の教科書にはお約束でちょろっと出てきたわけで、それがつまんなかったもんだから読む気にならなかったってのはあるが、本書みたいな入門書を先に読んでたら読んだかもしれない。(若いときなら。いまからぢゃムリ。)
なんせ、いきなり最初のほうで、
>大野 (略)『源氏物語』は文章が格段にむずかしい。このごろ、高等学校で『源氏物語』を教科書に入れたり、受験のために教えたりしているんですけどね、これはバカなことなんですよ。(上巻p.15)
と来たもんだ、早く言ってよ、そういうことは。
なんでも他の古典とちがって、意味の分らない言葉がいくつもあって、「あいなし」なんて単語は物語中で95例もつかわれているのに研究者の間で意味が決められない、作者が微妙なセンスをもって使うからだという。
それから、なかみは誰でも知ってるように男と女の関係の物語なんだけど、
>丸谷 この実事のありなしをいつもきちんと押さえていかないと、『源氏物語』は読めなくなります。
>大野 作者は作者の美学として、実事などはほのめかすだけで、はっきり書かないんですから、うっかり読んでいくと、素通りするんですね。(上巻p.256-257)
ってことなんで、学校ではそういうとこあんまり教えてくれないから面白くもなんともないってことになる、十代男子生徒なんてそんなことで頭ン中いっぱいなんだから解説してくれれば身を乗り出して聴いたと思うんだけど。
それにしても、
>大野 そう。『源氏物語』の作者はそれをあらわには書かないことをもって、彼女の信条としているんですから。
>丸谷 『源氏物語』がこれだけの大古典になった理由は、他にもいろいろあるけれども、一つは、解釈がいくらでもできるということなんです。そうすると、学者は殺到するわけです。(上巻p.275-276)
って言われちゃうと、高校生ぐらいが古語辞典片手に読んだって、はっきり意味わかんねーし解釈できないってのは当たり前のことだと思う、ダメだよそんなテキストで試験問題だしちゃ。
それと、読んでく順番というか、ストーリー性。
全54巻ある長い話だが、このお二人は、1桐壺、5若紫、7紅葉賀~14澪標、17絵合~21少女、32梅枝、33藤裏葉までの17巻をスラッと通しで読め、それは光源氏登場から栄華を極めてめでたしめでたしの時間軸に沿った単純な話だからと(「a系列」と呼ぶ、これって丸谷さんの小説『輝く日の宮』にも出てくる)。
ほかの、あいだに入ってる、2帚木とか3空蝉とかってのは、あとから挟み込まれたようなエピソードだから系列が違うんだと(「b系列と呼ぶ)。このエピソード群に出てくる女性は、通しの17巻のストーリーには出てこないという。
なるほどねえ、最初に17巻(17ってのは聖徳太子以来のひとまとまりの伝統のような気が私にはする)で伝記的ストーリー書いて、あとから読者に乞われたかなにかで若き日のエピソードとか書いてふくらましたと。
でも、おふたりは、源氏物語を読むなら「34若菜」を読め、それまでは長い長い伏線みたいなもんだから、本書の筋書きに目を通せばいいから、ぐらいのことも言ってるが。
34若菜以降は源氏が40歳になって、以降人生の下り坂って話だから、また別らしいけど。
最初の33巻中の、通しの17巻と挿話の16巻はちがうって評はあちこちで出てくる。
最初のうちは小説として書き方が慣れていなくてうまくない、挟み込まれた部分はいろんな描写が上手になってるっていうのも、実は後から書かれたんぢゃないかって推測の根拠になってる。
>大野 (略)「桐壺」の文章なんて非常にごつごつしたもので面白くないし、「若紫」は物語全体の後半に較べれば全く読むに耐えないようなものですね。(上巻p.82)
なんて言ってます、最初のうちは漢文訓読の影響から抜けきってなくて和文を自由自在に書けるまでに至ってないらしい。
言葉づかいだけぢゃなくて、人物描写とかそういうことも入ってくると小説家の丸谷さんのほうがやっぱビシビシいろんなこと言う。
>丸谷 『源氏物語』の重大な欠点は、藤壺の書き方がまずいことじゃないでしょうか。(上巻p.130)
とか、
>丸谷 この「紅葉賀」で言えば、なんといっても大事な挿話は、出産したときの藤壺はどういう態度であったかですね。ところが全然書けてない。そのくせ、源典侍のところはものすごく上手に書けている。(略)なくてもかまわないエピソードのときに腕を発揮して、絶対頑張らなきゃいけないところで手を抜いている。まだ未熟なうちに書いたという感じなんですね。(上巻p.184)
とか厳しいが、文章だけぢゃなくて、伏線を張るのは難しいとか長編小説の書き方の実際に即した発言とかあるのもおもしろい。
基本には、
>丸谷 (略)ただ、ぼくは商売だから、新しい見方を考えなければならない(笑)。小説家兼批評家というのは、そういう商売なんです。(下巻p.343)
っていうウケをねらった視点もあるようなんだが、
>丸谷 (略)そもそも、私たちみたいな調子で率直に論じた「源氏物語論」はいままでなかったんですが、もう少し小説技術的な点まで含めて論じ合ってもらうと面白いなあ、とぼくなんか思うんですね。(下巻p.163)
ということで、古い日本の古典だけど、たとえば十九世紀ヨーロッパの文学と比べてどうかとか、小説としてどうかということを考えている。
登場人物を書くなら、その人物の言動とかから浮かびあがらせるべきで、作者が説明しちゃっちゃダメとかそういう話だ。
小説のおもしろさってものについても、
>丸谷 その「もし」とか「だったら」を考えるというのは、小説の読者として非常に初歩的なことだとされていて、そういう読み方をとかく批評家は軽蔑するものなんです。でも、ここのところはそういう初歩的な面白さが小説の面白さの根幹部を占めていることをとてもよく示す。やっぱりそういうハラハラ、ドキドキは大事なんです。(略)
>丸谷 だれだってこういう体験をしている。それを濃密な感じで味わって非常に満足するんですね。(略)初歩的なものが小説の基本であって、もしそういうことがなく、単なる人間性の研究とか、人生の哲理を明らかにするとか、世界の構造がどうとか、そんなことばかりやったんでは小説は面白くないですよね。(笑)(下巻p.128-129)
って調子で、やっぱ深刻ぶって自分の思想を示すとかってのが文学ぢゃなくて、おもしろいのだっていい文学だっていう、いつもの思想に基づいて言っている。
同じようなことを、この物語は享受者の理解力に段階をつけて書いているとして、
>丸谷 (略)平井正穂先生が、シェイクスピアはなぜえらいかというと、うんと教養のある人間が読めばそれなりに面白い、中くらいの人間が読めばそれなりにまた解釈がついて面白い、うんと下層の階級、無教養な階級が読むと、またそれなりに面白い、そういうふうに書けたところが偉大な文学者であるゆえんであるとおっしゃったことがありました。(略)
>丸谷 それが大文学ってものなんですね。いまの日本では、大文学というのは深刻なことを書くことだと思われているでしょう。そうじゃないんです。大文学というのは多層的な読者を引き受けることのできる文学です。(上巻p.280)
なんて言ってるんだが、すばらしい見解だと思う。同時に、やっぱ試験問題に使っちゃダメじゃんという気がますますするけど。
英文学の話がでたついでに、本書ではときどき原文を引用して、それに丸谷さんが現代語訳をつけてるんだが、もちろん私は原文の一字一句を追うのは面倒なんでほとんど訳しか読まないけど、その訳の一部について、
>丸谷 (略)これで思い出すのは、英文の学生だった頃、中野好夫先生が演習のとき、訳をつけた学生に、「あんたみたいな面倒くさいことを言って、芝居でお客がわかるかいな」(笑)。学生がひねくった解釈をするたびに、「芝居のお客というものはもっと単純なもんなんや」としきりにおっしゃったんですよ。(上巻p.155)
なんて話をするところがあって、そうか、やっぱ小説の登場人物はすぐわかるようなセリフを言うもんだ、という見方から訳をつけるものかと参考になった。
それはそうと、丸谷さんの小説家としての見方でおもしろいののひとつには、22玉鬘~31真木柱のいわゆる「玉鬘十帖」のところが面白くないというか、おかしい、小説的な仕掛を出しても、その結果が何もなかったりして不思議だと言って、
>丸谷 長篇小説の真ん中へんは、小説家はひどいことになって、わけがわからなくなってくる。昏迷におちいったあげく、いろんな小説的な手を考えるんですね。それが小出しにほうぼうに出ています。(略)本当に困り果てている状態だったんでしょう。紫式部は必ず十二指腸潰瘍をやっていたにちがいない(笑)。それが治るのが「若菜」の巻ですよ。(上巻p.397)
なんて実作者の苦労をわかりやすく解説してくれるところがある。
平安時代に十二指腸潰瘍やったら、加持祈祷で治すしかなさそうだし、大変だあね。
ちなみに、その「若菜」のところにくると、
>大野 ここへくると、オーケストラの全部の楽器が鳴っている。いままでは個々に力点があって、ここでは単独にフルートを鳴らしてみようとか、バイオリンを鳴らしてみようとかやっていた。
>丸谷 総合的なこと、建築的なことがとってもうまくできるようになったということですね。(下巻p.51-52)
と物語世界の組み立て具合を絶賛することになるんだが。
大野晋さんは日本語の権威だから、言葉の意味の解説がやっぱすごいくわしい。
たとえば、
>それからもう一つ大事なのは「情(なさけ)」という言葉。この言葉は『源氏物語』を読むときにちゃんと覚えておくといいですね。今日、「情」というと、精神的な価値が非常に高い、本質的にその人が人類に対して愛情をもっているみたいなときに「情深い人」とかって言います。
>ところが、『源氏物語』の「情」というのは、そういうたいへん立派な意味じゃないんです。「うわべの情」と使うんです。「なさけ」の「け」は「形」「見た目」なんです。(上巻p.238)
なんて語の正確な意味を教えてくれて、だから源氏と正妻のあいだには情はないけど、源氏は愛人の女性には情として形を尽くして例えば歌を送ったりするとかって解説してくれる。
「ほのか」と「かすか」はどう違うか、「かすか」は消えていってしまいそうなものだけど、「ほのか」には後ろにまでひかえているものがあるからもっと見たい、不足で不満だという気持ちがあるとか。
光源氏とか一等の美をもっている限られた人物の表現が「清ら」で、そのほかの二流の美しかもっていない人たちは「清げ」であるとか、万事がそんな詳しい解釈つけてくれるのでホント勉強になる。
で、そんな大野さんが、
>大野 この人は自分の書いた文章をほとんど覚えていたんじゃないかと思いますね。もちろん似ている文章はところどころありますけど、これだけ長い小説に同じ表現がほとんどない。(下巻p.211)
というように紫式部の文章の能力を評価しているんだが、終盤の光源氏なきあとのいわゆる「宇治十帖」の文章については、
>大野 (略)センテンスが非常に長くなっている。a系列のワン・センテンスが平均五十三字。「宇治十帖」では八十五字。
>丸谷 でも、文章構造は単純になりますよ。
>大野 ズルズル長いんです。ということは、作者の力が乏しくなってきた。(略)
なんて言っていて、その前のとこまで書いたあと、執筆再開するまでに長い時間があいてたんぢゃないかと推測している。
大野さんは「宇治十帖」も紫式部が書いたと思うという意見だが、別人が書いたという説も紹介されてて、そのくらい違うらしい。
ほかにも、光源氏なきあとの「匂宮」「紅梅」「竹河」の3巻はあやしいらしくて、特に「竹河」のなかの「孕み」って動詞については、
>大野 (略)こういう表現は紫式部の美意識に絶対、反するんです。彼女は「気色ばむ」などと使うんです。「気色ばみ給ふ」とかさまざま言い方があるけど、「孕む」は絶対使わない言葉です。(下巻p.273)
とまで言い切って、この巻は語法的・用語的な点から見て、他人の手が入っていることがさすがに疑われると分析している。
源氏物語に使われている言葉について、
>大野 (略)『源氏物語』の語彙はのべ総数四十万語でできているんです。二十万語は助詞、助動詞です。名詞、動詞、形容詞、副詞みたいなのも合計二十万語です。ではその二十万語の中に、ちがった単語はいくつあるかというと、勘定の仕方によるんだけど、一万三千から一万四千語です。『枕草子』は総量では約五分の一で、ちがった単語は約七千語ぐらいですね。(下巻p.228)
といって、そのバリエーションを説明している。
『枕草子』にあって『源氏物語』にない単語ってのももちろんあるんだが、それは品の悪い単語で、紫式部はそういうあらわなものとかどぎついものを使うことを避けていてのこの数だという。
やっぱすごいなと思わされるんだが、いやいや、それならやっぱ学校の授業で教えるのはもうちょっと簡単なテキストにしようよとも思う。(この話で、原文読んでみようって気がますますなくなってる。)
言葉とか表現のことだけぢゃなくて、なにが書かれてるかってことで参考になるのは、
>丸谷 (略)要するに古代以前の習俗と、中世に近くなった古代の現実との衝突を紫式部という人は書いた。それによって何か古代的なものへの懐かしさを書いた。それに読者はみんな惹かれる。そこのところが非常に大事だと思うんですよ。(略)
>本居宣長は「もののあはれ」といい、折口信夫は「色ごのみ」といいました。要するに儒教と仏教と両方から攻め立てられて、もう滅びそうになっている日本の古代習俗、古代宗教の価値を何か言おうとして、うまく言えなくて困ったあげくのスローガンだと思います。(上巻p.156-158)
ってとこ。大野さんも賛成らしく、
>大野 (略)儒教でも仏教でも、女があってはじめて男が生きられるというようには女の位置を認めていない。ところが『源氏物語』には、男がどんなに女によって生きるものかということを語っている面がある。
と言っている。
そういうふうに言ってくれたほうが、よっぽどわかりやすいと思う。古文の授業でもののあはれなんて言われても、なんか趣のありそうなことみたいな感じだけで、そんな昔の人のフィーリングなんて理解できないよって言いたくなっちゃうから。

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