中沢新一 2002年 講談社選書メチエ
前に『人類最古の哲学』を読み返したら、とてもおもしろかったので、ほかのも読みたいと思っていた“カイエ・ソバージュ”のII。
2001年から2002年にかけての大学での講義録、とても読みやすい。
重要なテーマは、対称性、人間と動物のあいだに同等の関係が成り立っていた社会。
タイトルにでてくる熊は、その動物側というか自然界の代表的存在。
世界のどこでも古き狩猟社会では、熊を刈ったあと解体するときは、非常に慎重にとりあつかって、魂を送り返すような儀式を行う。
そうすると、熊は身体は死んだけど霊みたいなものが動物のところにかえって、丁重にもてなされたことを他の動物にも語り、自然の恵みをまた人間たちにもたらしてくれる。
ところが発達した武器で乱暴に動物を虐殺するだけになると、人間は自然から一方的に奪うだけになり、対称性が壊されてしまう、その結果、自然も人間をやさしく迎えてくれることはなくなる。
対称性の成り立ってた社会では、熊と人が夫婦になったり、兄弟・親子の関係を結ぶような神話が伝えられてた。
あるいは、人間が熊になることもあるし(皮をかぶっただけで熊になってしまう)、熊が人間に変身することもできた。
そんなことあるわけないじゃん、バカバカしい、とか言うひとに、中沢新一先生は厳しいよ。
>そうしてみますと、人間が熊に変容していく可能性を、いかなる意味においても否定する近代科学などは、あさはかな思い上がりによって、象徴を操る詩的生物としての自分たちの本性を、正しく認識する能力を失ってしまっていると、言えるのではないでしょうか。(p.76)
とか、
>神話の思考をあわれむような目で見ている現代の私たちこそ、おびただしい映像の洪水と、マスコミをつうじて絶え間なく繰り返される独善的なものの考えに取り囲まれて、スクリーンに投影されたありもしない幻影を信じて生きている、救いがたいポストモダンの「洞窟人」なのではないでしょうか。(p.61-62)
とかね。
ちなみに、「詩的生物」っていうのは、人間の脳のニューロン組織の発達によって、異なる領域を横断していく流動的知性の活動ができるようになって、比喩をつかった言葉ができるようになったのが、現生人類の特徴だということ。
『俳句の海に潜る』でも出てきた、ホモ・サピエンスとは詩を作れるヒトって論理、とても刺激的、かっこいい。
だから、熊は人であり人は熊である、みたいな比喩的な思考ができないひと、ありえないとバカにするひとは、実はそっちのほうが野蛮なんぢゃないのということになる。
そんなの学問ぢゃないでしょ、みたいな反論にも中沢新一先生は負けないよ、
>こういう「ポエジー」の精神にみちた学問を、もういちどよみがえらせてみようではありませんか。荒唐無稽がいつか真実に変わるような学問。人間を本当の意味で豊かにする知性とは、そういうものでなければならないと、私は信じます。(p.166-167)
とまで言ってるから。なんか開き直りにもみえなくもないが(笑)
かくして本書は、熊や自然との関わりかたから、たとえばインディアン社会におけるシャーマンや首長の存在に触れて、やがて王や国家の発生について説いていくんだが、
>国家の発生については、これまでにもいろいろな考えが提案されてきましたが、神話的思考の分析からそこへ踏み込んでみようとする私たちのような試みは、たぶんいままでになかったものだと思います。(p.155)
と言ってるのには、なるほどととても興奮させられる。
序章 ニューヨークからベーリング海峡へ
第一章 失われた対称性を求めて
第二章 原初、神は熊であった
第三章 「対称性の人類学」入門
第四章 海岸の決闘
第五章 王にならなかった首長
第六章 環太平洋の神話学へI
第七章 環太平洋の神話学へII
第八章 「人食い」としての王
終章 「野生の思考」としての仏教
補論 熊の主題をめぐる変奏曲
どうでもいいけど、今回買った2006年の12刷、3月の新橋の古本まつりで手に入れた。
知らなかったんだけど、奇数月に定期的に市が開かれてるらしい。とてもいいことだ。
(5月はその週は出張で不在にしてしまって行けなかった。)
ところが、読み終わってから最後のページの古本屋の値札をあらためて見たら、前によく行った(住んでたんで駅行くのに前を通るとこにあった)学芸大学の古本屋さんだった。
なーんだ、まだ健在なのかな(創業はたしか昭和二十年代である、あの街はけっこう古い店が多い)、こんどまた店をのぞいてみよう、と思った次第。
前に『人類最古の哲学』を読み返したら、とてもおもしろかったので、ほかのも読みたいと思っていた“カイエ・ソバージュ”のII。
2001年から2002年にかけての大学での講義録、とても読みやすい。
重要なテーマは、対称性、人間と動物のあいだに同等の関係が成り立っていた社会。
タイトルにでてくる熊は、その動物側というか自然界の代表的存在。
世界のどこでも古き狩猟社会では、熊を刈ったあと解体するときは、非常に慎重にとりあつかって、魂を送り返すような儀式を行う。
そうすると、熊は身体は死んだけど霊みたいなものが動物のところにかえって、丁重にもてなされたことを他の動物にも語り、自然の恵みをまた人間たちにもたらしてくれる。
ところが発達した武器で乱暴に動物を虐殺するだけになると、人間は自然から一方的に奪うだけになり、対称性が壊されてしまう、その結果、自然も人間をやさしく迎えてくれることはなくなる。
対称性の成り立ってた社会では、熊と人が夫婦になったり、兄弟・親子の関係を結ぶような神話が伝えられてた。
あるいは、人間が熊になることもあるし(皮をかぶっただけで熊になってしまう)、熊が人間に変身することもできた。
そんなことあるわけないじゃん、バカバカしい、とか言うひとに、中沢新一先生は厳しいよ。
>そうしてみますと、人間が熊に変容していく可能性を、いかなる意味においても否定する近代科学などは、あさはかな思い上がりによって、象徴を操る詩的生物としての自分たちの本性を、正しく認識する能力を失ってしまっていると、言えるのではないでしょうか。(p.76)
とか、
>神話の思考をあわれむような目で見ている現代の私たちこそ、おびただしい映像の洪水と、マスコミをつうじて絶え間なく繰り返される独善的なものの考えに取り囲まれて、スクリーンに投影されたありもしない幻影を信じて生きている、救いがたいポストモダンの「洞窟人」なのではないでしょうか。(p.61-62)
とかね。
ちなみに、「詩的生物」っていうのは、人間の脳のニューロン組織の発達によって、異なる領域を横断していく流動的知性の活動ができるようになって、比喩をつかった言葉ができるようになったのが、現生人類の特徴だということ。
『俳句の海に潜る』でも出てきた、ホモ・サピエンスとは詩を作れるヒトって論理、とても刺激的、かっこいい。
だから、熊は人であり人は熊である、みたいな比喩的な思考ができないひと、ありえないとバカにするひとは、実はそっちのほうが野蛮なんぢゃないのということになる。
そんなの学問ぢゃないでしょ、みたいな反論にも中沢新一先生は負けないよ、
>こういう「ポエジー」の精神にみちた学問を、もういちどよみがえらせてみようではありませんか。荒唐無稽がいつか真実に変わるような学問。人間を本当の意味で豊かにする知性とは、そういうものでなければならないと、私は信じます。(p.166-167)
とまで言ってるから。なんか開き直りにもみえなくもないが(笑)
かくして本書は、熊や自然との関わりかたから、たとえばインディアン社会におけるシャーマンや首長の存在に触れて、やがて王や国家の発生について説いていくんだが、
>国家の発生については、これまでにもいろいろな考えが提案されてきましたが、神話的思考の分析からそこへ踏み込んでみようとする私たちのような試みは、たぶんいままでになかったものだと思います。(p.155)
と言ってるのには、なるほどととても興奮させられる。
序章 ニューヨークからベーリング海峡へ
第一章 失われた対称性を求めて
第二章 原初、神は熊であった
第三章 「対称性の人類学」入門
第四章 海岸の決闘
第五章 王にならなかった首長
第六章 環太平洋の神話学へI
第七章 環太平洋の神話学へII
第八章 「人食い」としての王
終章 「野生の思考」としての仏教
補論 熊の主題をめぐる変奏曲
どうでもいいけど、今回買った2006年の12刷、3月の新橋の古本まつりで手に入れた。
知らなかったんだけど、奇数月に定期的に市が開かれてるらしい。とてもいいことだ。
(5月はその週は出張で不在にしてしまって行けなかった。)
ところが、読み終わってから最後のページの古本屋の値札をあらためて見たら、前によく行った(住んでたんで駅行くのに前を通るとこにあった)学芸大学の古本屋さんだった。
なーんだ、まだ健在なのかな(創業はたしか昭和二十年代である、あの街はけっこう古い店が多い)、こんどまた店をのぞいてみよう、と思った次第。