丸谷才一 1978年 文春文庫版
この文庫は、去年7月にたしか地元の古本屋の均一棚で見つけた。
いいんだ、状態がなんだろうと、見つけたときに手に入れなきゃ、きっと絶版なんだろうから。
古いよー、これ、なんせなかみは1969年6月から71年6月まで「アサヒグラフ」に連載したものだという。
だからなのか、ひとつひとつはけっこう短い、文庫で3ページくらい、話題脱線させてるひまもないような感じ。
ちなみに、文章も旧仮名ではない、なんだかおかしいね、旧いほうが新仮名で新しいもののほうが旧仮名ってのも。
とにかく、だから時事ネタもふるい、三億円事件の一年後に26歳の男性が別件逮捕されたのちさんざ騒がれたとか、知らなかった。
そうかとおもえば、元号の改元ネタなんてのもあって、1970年に書かれたものだけど、偶然いままさに改元の年に読むことになるとはなんか感慨深い。
もはや世界中で日本にしか残っていない元号だが、存続論者は元号によって時代相がイメージできるのがいいというんだけど、それは「祝儀不祝儀のたびに元号を変える」から意味があったんだという。
>ところが一世一元なんて、たかが一個人の生理にもとづいていたのでは、うまい具合に時代を追いかけることは不可能である。逆に言えば、一世一元ということを決めた明治の政治家たちは、あれこれと有能ではあったかもしれないけれど、なにぶん成上りの悲しさで、一世多元という仕掛けの持つ「文化」的「意義」がわかっていなかった。(p.196「一世多元のすすめ」)
という意見はさすがだ、祭祀儀礼が専門の朝廷のもつ奥深さを維新のひとたちが理解できないのはしかたないのかも、まあ、そのへん、天皇の恋歌をやめさせたという恨みも丸谷さんにはあるんだろうけど、明治政府に対しては。
でも、そのあとに、本来なら、関東大震災のあととか、戦争で敗けたあととか、すぐに改元すべきだったと言われると、たしかにそうかなという気になる、それで前後で時代が変わったってのが鮮明になるから。
歴史のからむ文化だけでなく、例によって、国語問題についても、この時代から一貫しての批判をしている。
東京大学の入試制度調査委員会が昭和46年からの方針を出したとこで、国語の試験を現代文だけにしようとしているのに反対してる。
>いったい国語というのは、一国の文化の基盤であるだけではなく、また、その最高の表現である。しかもそれは、過去から現在を経て未来へと伝わってゆく連続体で、過去のなかの最良の部分が規範となって、末世の精神と感覚を正すような具合に出来ている。一国の言語は、そういう伝統主義あるいは古典主義によって常に養われ、支えられているのだ。そして知識人はいつも、自国の文化の伝統によって、洗練と力強さとを身につけながら生きてゆかなければならぬ。(p.329「レジスタンス的出題」)
という意見、すばらしいと思う。
これに呼応するかのように、巻末の解説において百目鬼恭三郎氏が、丸谷才一のエッセイには教養がいっぱいということに関して、
>むろん、ここでいう教養とは、社会科学用語を取り替え引き替えしながら、マルクス主義から構造主義へと飛び移るというようなことではない。過去の重層的な文化遺産を正しく受けとめて、それを未来へつなごうとするありかたをいうのである。(p.344)
と書いていることも興味深い。
過去から学び未来に責任をもつ態度ぢゃないと、文化ってのはその場限りの安っぽいものになってしまう。
日本語について、ひとつおもしろい章があって、1969年の大晦日と思われるが、国鉄が「初日の出エック」という新宿発成田行きの商品を売り出すんだが、英語に詳しい著者でもエックの意味がわからないと。
「excursion」の略ではないかとあたりをつけたら、「エコノミー・クーポン」を略した新語だというんで、もう「どこの馬の骨かわからぬ言葉」とか、「一体に最近の国鉄は言語感覚がおかしくなったのではないか?」とか、ケチョンケチョン。
まあ昔国鉄いまJRは、たしかに言語について独特のものあって、日本語は英語の動詞は輸入できないってのが相場なのに、ディスカバー・ジャパンとか平気でやったりする実力がある。
どうでもいいけど、私が最近気になってしょうがないのは、電車とホームが混んでるときに「次の電車もあわせてご利用ください」って言うんだ、あわせて利用はできないと思うよ別々の電車。
どの電車でもどの駅でも同じこと言うから、たぶん個人の口ぐせではなくマニュアル化されてるアナウンス、謎だ、たぶん次の電車にするという案もあわせて検討しろの意ぢゃないかと思うんだが、気になると耳障りでイラつく。
閑話休題。
丸谷才一は、小説は風俗を重視すべしというんだが、本書のなかに、風俗の定義があったので、思わずメモってしまう。
>ここで話をむずかしくすれば、一般に風俗とは倫理の現象形態であり、一方、法とは倫理の最低限の表明である。これをわかりやすく言うと、たとえば人名の尊重という倫理があるからこそ、葬式という風俗があり、殺人の禁止という法があるわけだ。(p.132-133「法と倫理と風俗と」)
うーむ、よくわかってないかもしれないけど、とりあえずおぼえておこう。
本書の構成は単純な時系列ならべぢゃなくて、だいたいのテーマ別なんで、大まかな章立ては以下のとおり。
》男と女の世の中《
》犯罪学の勉強《
》乱世風俗考《
》ちょっと学問的《
》昔は床屋でしゃべったこと《
》荒っぽい話《
》あれこれ教育論《
この文庫は、去年7月にたしか地元の古本屋の均一棚で見つけた。
いいんだ、状態がなんだろうと、見つけたときに手に入れなきゃ、きっと絶版なんだろうから。
古いよー、これ、なんせなかみは1969年6月から71年6月まで「アサヒグラフ」に連載したものだという。
だからなのか、ひとつひとつはけっこう短い、文庫で3ページくらい、話題脱線させてるひまもないような感じ。
ちなみに、文章も旧仮名ではない、なんだかおかしいね、旧いほうが新仮名で新しいもののほうが旧仮名ってのも。
とにかく、だから時事ネタもふるい、三億円事件の一年後に26歳の男性が別件逮捕されたのちさんざ騒がれたとか、知らなかった。
そうかとおもえば、元号の改元ネタなんてのもあって、1970年に書かれたものだけど、偶然いままさに改元の年に読むことになるとはなんか感慨深い。
もはや世界中で日本にしか残っていない元号だが、存続論者は元号によって時代相がイメージできるのがいいというんだけど、それは「祝儀不祝儀のたびに元号を変える」から意味があったんだという。
>ところが一世一元なんて、たかが一個人の生理にもとづいていたのでは、うまい具合に時代を追いかけることは不可能である。逆に言えば、一世一元ということを決めた明治の政治家たちは、あれこれと有能ではあったかもしれないけれど、なにぶん成上りの悲しさで、一世多元という仕掛けの持つ「文化」的「意義」がわかっていなかった。(p.196「一世多元のすすめ」)
という意見はさすがだ、祭祀儀礼が専門の朝廷のもつ奥深さを維新のひとたちが理解できないのはしかたないのかも、まあ、そのへん、天皇の恋歌をやめさせたという恨みも丸谷さんにはあるんだろうけど、明治政府に対しては。
でも、そのあとに、本来なら、関東大震災のあととか、戦争で敗けたあととか、すぐに改元すべきだったと言われると、たしかにそうかなという気になる、それで前後で時代が変わったってのが鮮明になるから。
歴史のからむ文化だけでなく、例によって、国語問題についても、この時代から一貫しての批判をしている。
東京大学の入試制度調査委員会が昭和46年からの方針を出したとこで、国語の試験を現代文だけにしようとしているのに反対してる。
>いったい国語というのは、一国の文化の基盤であるだけではなく、また、その最高の表現である。しかもそれは、過去から現在を経て未来へと伝わってゆく連続体で、過去のなかの最良の部分が規範となって、末世の精神と感覚を正すような具合に出来ている。一国の言語は、そういう伝統主義あるいは古典主義によって常に養われ、支えられているのだ。そして知識人はいつも、自国の文化の伝統によって、洗練と力強さとを身につけながら生きてゆかなければならぬ。(p.329「レジスタンス的出題」)
という意見、すばらしいと思う。
これに呼応するかのように、巻末の解説において百目鬼恭三郎氏が、丸谷才一のエッセイには教養がいっぱいということに関して、
>むろん、ここでいう教養とは、社会科学用語を取り替え引き替えしながら、マルクス主義から構造主義へと飛び移るというようなことではない。過去の重層的な文化遺産を正しく受けとめて、それを未来へつなごうとするありかたをいうのである。(p.344)
と書いていることも興味深い。
過去から学び未来に責任をもつ態度ぢゃないと、文化ってのはその場限りの安っぽいものになってしまう。
日本語について、ひとつおもしろい章があって、1969年の大晦日と思われるが、国鉄が「初日の出エック」という新宿発成田行きの商品を売り出すんだが、英語に詳しい著者でもエックの意味がわからないと。
「excursion」の略ではないかとあたりをつけたら、「エコノミー・クーポン」を略した新語だというんで、もう「どこの馬の骨かわからぬ言葉」とか、「一体に最近の国鉄は言語感覚がおかしくなったのではないか?」とか、ケチョンケチョン。
まあ昔国鉄いまJRは、たしかに言語について独特のものあって、日本語は英語の動詞は輸入できないってのが相場なのに、ディスカバー・ジャパンとか平気でやったりする実力がある。
どうでもいいけど、私が最近気になってしょうがないのは、電車とホームが混んでるときに「次の電車もあわせてご利用ください」って言うんだ、あわせて利用はできないと思うよ別々の電車。
どの電車でもどの駅でも同じこと言うから、たぶん個人の口ぐせではなくマニュアル化されてるアナウンス、謎だ、たぶん次の電車にするという案もあわせて検討しろの意ぢゃないかと思うんだが、気になると耳障りでイラつく。
閑話休題。
丸谷才一は、小説は風俗を重視すべしというんだが、本書のなかに、風俗の定義があったので、思わずメモってしまう。
>ここで話をむずかしくすれば、一般に風俗とは倫理の現象形態であり、一方、法とは倫理の最低限の表明である。これをわかりやすく言うと、たとえば人名の尊重という倫理があるからこそ、葬式という風俗があり、殺人の禁止という法があるわけだ。(p.132-133「法と倫理と風俗と」)
うーむ、よくわかってないかもしれないけど、とりあえずおぼえておこう。
本書の構成は単純な時系列ならべぢゃなくて、だいたいのテーマ別なんで、大まかな章立ては以下のとおり。
》男と女の世の中《
》犯罪学の勉強《
》乱世風俗考《
》ちょっと学問的《
》昔は床屋でしゃべったこと《
》荒っぽい話《
》あれこれ教育論《
