みなさん、こんにちは。24期生の中野です。
今回が5回目です。前回も書きましたが、早いですね、順番が回ってくるのが。それにもう12月。
もっとも、太陽系が銀河系を移動する速度は秒速200~300km。体感的には想像を超えたスピードです。そして、ときに洗面台などで1mmにも満たない黒い虫が、せかせかと動いているのを見る時があります。あんなに小さいのに、どうやって動いているのだろう。不思議です。生命と存在の不思議さというのは、はかり知れません。ちなみに6億年後には海水がすべて地中に浸み込み、地球は水の星ではなくなってしまうそうです。我々はいまこの時が永遠であるような錯覚を覚えるときがありますが、終わりはかならず来る。1日1日を大事しなければいけません。
人生100年時代と言われたり、いや、それは来ない(米イリノイ大学研究チーム、日経等10月報道)と言われたり。
はるか昔でも80歳を超えて長命を保った人もいれば(紀元前5世紀~4世紀、古代ギリシア哲学者プラトーンは80歳、大河ドラマ「光る君へ」で紫式部が仕えた道長の長女、彰子は平安時代だというのに87歳)、近代でも若くして他界する人は少なくありませんでした。寿命というのはわからない。
ところが、2週間ほど前の11月23日、一部の人の間では話題になった記事がありました。
「脳にAI接続、知能100万倍に、発明家カーツワイル氏の未来予想、医療技術で人類の寿命500歳へ」(日本経済新聞朝刊、英数字全角原文ママ)です。
500歳!
深海に棲む一部のサメは、寿命400~500歳にもなる個体があるそうです。しかしサメはそれだけの寿命を保ちながら、その一生で何を達成するというのか。それに比べると、500歳という寿命、医療技術による担保、AIに接続された知を兼ね備えた人類は、想像もできない未来社会を達成するのでしょう。
しかし。
そもそも生物に寿命があるのはなぜか。永遠に生きられないのはなぜか。
その理由はわかりません。けれど、生物に生殖能力があり、それは、限られた寿命と引き換えに、ということではないでしょうか。
生物は、代替わりによって環境変化を生き抜いたのです。
そして人間も生物です。目鼻口が顔を成し、四肢があり、腸管が適切な位置に配置される等、魚類、爬虫類とも構造的には変わらない。美醜の価値観は文化的であり生物的な観点から発生するものではない。手足があり、頭部にセンシング機能があるのは、無脊椎動物の昆虫とも共通する。
にもかかわらず、人間の寿命が500歳まで達するというのは、人間が生物の一種であるということから目を背けさせ、あるいはそういった意識を希薄にさせ、たとえば生殖活動からも遠ざかっていく。そんなことになりかねないのではないでしょうか。
人間はいままさに、「永遠」に手を触れようとしている、そんな錯覚に襲われる。
けれど、何かまったく予期しないインパクトに襲われたとき、代替わりが行われず全体として一様な状態にある人間存在というものが、永遠どころか、抵抗力がなく、ひとたまりもなく消滅、ということも、可能性としてはありえる話です。
前回、私の登録養成課程を修了した大学院、日本工業大学MOT中小企業イノベーションセンターにおける、社長鼎談について記載しました。第3回の内容をまとめた記事が、近々ウェブサイトにアップされますが、現時点ではまだですので、先出はいたしませんが、テーマは事業承継でした。
人生500歳時代ともなれば、後継者不足で廃業、という事態はなくなるでしょう。なにしろ社長が現役でいられる年数が、飛躍的に伸びるわけですから。
しかしそこでイノベーションは起きるでしょうか。変われるでしょうか。あるいは、変化に耐えられる会社であり続けられるでしょうか。
今回の社長鼎談のお一人は、40歳の若い社長でした。御父君の先代社長との相克、そしてようやく理解を得て、承継した会社を変え、新しい価値を生み出すようになりました。代替わりが重要であるのは、会社に新しい血が流れるようになり若返り、新しい花を咲かせることができるからでしょう。そして代替わりした人も、いずれは後進に後を譲る。
人間、自分がいずれはある場所から去らなければならない、ということを常に意識して、いまの一瞬を大事にしていきたいですね。「武士道とは死ぬことと見つけたり」、という言葉がありますが、個人的には、そういうことかなと理解しています。
老害にはなりたくないですが、意見を言うことは続けたいなと。バランスが難しいですね。