早いもので、今日から8月です。
暑い中 皆さん頑張っていらっしゃることと思います。
昨日、叔母は1ヶ月以上入院し、帰って来ました。
退院前に主治医と面談し、現状の説明と今後の諸注意を
細かくお聞きして、心づもりをしました。
あまり頑張りすぎると、自分の身体にくるので…
まあー ほどほどに、が一番と決めました。
(げんに腰の痛みは、まだ治っていないので…)
私は、大まかな性格であまりこだわらないほうなのですが…
だからだいたいの人から、O型(血液型)と聞かれますが、A型
です。
なので、やっぱり 一度こだわると、結構細かく神経を
使います。
特に昔は仕事に関しては、妥協をしませんでした。
このごろは、こだわるものもないので よけいだらしがなくなる
傾向にありますが…
思いのほか、叔母は元気でした。安心しました。
今日は、盲目のピアニスト「辻井伸行」さんを育てた、
お母様「辻井いく子」さんのお話です。
私も家の息子に、実は6歳から12歳まで ピアノを習わせました。
将来は“ピアニスト” “野球選手” と思い巡らしましたが…
残念ながら… やっぱり 普通の子でした。
でも、普通が一番 とも言いますので、良かったのかも。
辻井いつ子(1960年東京都生まれ。短大卒業後、フリー
アナウンサー に。 86年産婦人科医の孝さんと結婚し、
2年後伸行さんを出産。著書に「今日の風、なに色?」
「のぶカンタービレ!」
【息子の可能性を信じて歩む】
夫婦ともにピアノは幼少期に少しだけ。私は琴を6年ほど習いま
したが、音楽との本格的なかかわりは、28歳で伸行を出産してから
です。
出産から退院まで、伸行は一度も目を開けませんでした。
母親の勘で「なにか変だな」と。
障害を知って落ち込みました。太陽の光が認識できない
視覚障害者は昼夜が逆転しやすく、伸行は3歳頃まで3食とも
夜中で、真っ暗な街中を二人で散歩してました。
音楽に積極的な反応を示したのが生後8ヶ月。
スタニスラフ・ブーニン演奏の「英雄ポロネーズ」(ショパン作曲)
をかけると足をバタバタさせてご機嫌に。
そのCDが破損し、別の演奏家のものに買い換えたとたん、
不機嫌になりました。この子は敏感な耳を持っている。
息子の人生にかすかな光を感じました。
最初のレッスンは2歳ごろ。週一回、ピアノの先生のひざの上に
抱っこされ、演奏を聴いていました。
ビアニストへの教育ではなく、大好きなものを見つけ
「生まれてきてよかった」と思って欲しかったから。
そして2歳3ヶ月。私が口ずさんだ、「ジングルベル」に、
おもちゃのピアノで伴奏した時には驚きました。
「この子のために自分のすべてを犠牲にしてもいい」
とは思いませんでした。私自身が自分らしさを失い、あきらめた
時点で、息子の光り輝く道も閉ざされる。
壁にぶち当たるたび、わが子の可能性を信じようとしました。
すると闘志がわいてくるのです。
息子は泳ぐのが大好きで、週1でスイミングスクールに通って
いました。カラオケ好きの私の影響で歌うのも好き。
私の歌は黙って聴いてくれるのに、夫には
「音が全部外れているよ」と厳しいんです。
息子は食いしん坊で、私の料理は家族の絆には欠かせない
要素。 バン・クライバーン国際ピアノコンクールで米滞在中も、
スーパーで食材を買占めて、おすしやハヤシライスなどを作り
ました。
今回の優勝が自然な親離れ、子離れをもたらしました。
すべての公演に同行してきましたが、優勝後は私自身が多忙に
なり初めて公演に同行できませんでした。息子も
「いいよ。もう大人だから」と。
「手にけがをしては」と学校の送り迎えをするほど過保護で、
他の親子よりも濃密な時間を過してきた。子離れにも寂しさは
ありません。
「講演活動に力を入れて子育てに悩む人々を支えたい」
と息子に伝えると、「お互いにがんばりましょう」と喜んでくれ
ました。
夢はフリーアナウンサーに復帰すること。ラジオの音楽番組に
出演してみたい。息子は「テレビにもどんどん出れば」と言いますが
年齢的にちょつと…。
「全然大丈夫。僕の友達はみんないけるって言ってるよ」
と背中を押してくれるんですけどね。
初めてこの記事を読んだとき、涙が出ました。
二度目の今も涙が出ました。
まだまだ、私たちがんばれそうですね!!!