岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

愛・責任・知識 その2

2008-05-22 14:15:18 | 
細川瑞子著「知的障害者の成年後見の原理」2理念の具体化よりp238
社会福祉学なんでもありブログさん推奨の本を周回遅れで読んでいます。
考えているうちに時間が経ってしまい前に進みません。
それでも今日の一文を。

<愛の要素としての責任>
愛と責任の関係について日頃深く考えてはいない。
(愛ということばの正しい理解を助けるのは「隣人愛」であり、
「兄弟愛」という。親子の愛や、夫婦や恋人の愛とはかなり違うだろう)

愛と責任という二つの言葉の関係を考えるとき、責任は受動的な意味を
もつと考えてしまう。
人を愛するときには、責任が生じるというように。

ところが、フロムは「ほんとうの意味での責任とは、完全に自発的な行為であり、
責任とは、表に出すか否かは別として、他の人間が何かを求めてきたときの、
わたしの対応であるという」。

難しい。

次の文章で少し理解ができるかもしれない。
「愛する人とは、自分自身に責任を感じると同じように、同胞にも責任を感じる」
ところが,
「責任に『尊敬』が欠けていると、容易に支配や所有へと堕落してしまう」

この場合の尊敬とは、「人間のありのままの姿をみて、その人が唯一無二の
存在であることを知る能力」であるという。支配や所有に繋がる尊敬は
ありえない。

この「尊敬」の定義は、われわれが日頃使っている尊敬の意味とはかなり違う。
他者を尊敬するということが、能力だという捉え方はしない。
しかし、少し考えてみれば、人を尊敬するということが、能力の一部といえる
ことがわかる。
「人間の尊厳をあるがままで尊重する」。
この場合は
→尊重することができる→尊重することができる能力がある。と考えられる。

尊敬することが能力の一部だとするならば、これは学習できることになる。
尊敬するという、また尊重するということを私たちは学ばなければならないの
ではないか。

どこで。いつ。

最新の画像もっと見る